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自閉スペクトラム症(ASD)の人は相手の「行動」で良し悪しを判断―先入観なくフェアという長所も

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都大学の米田英嗣特定准教授らの研究によると、自閉スペクトラム症(ASD)の小中学生は、良い人か悪い人かを判断するとき、「人となり」よりも「行動」に注目する傾向があることがわかったそうです。

悪い子の良い行動から何を読み取るか?自閉スペクトラム症を持つ小学生・中学生の善悪判断│京都大学 研究成果

「人格」より「行動」で善悪判断 自閉スペクトラム症の子 : 京都新聞

自閉スペクトラム症を持つ小中学生の善悪判断は行動に基づくもの-京大 - QLifePro 医療ニュース

自閉スペクトラム症の子供:表面的な行動で「善人」と判断 「悪意の理解が難しい」 福井大などのチームが発表 /福井 - 毎日新聞

報道では、こうしたASDの人の考え方の特性は、見せかけの親切にだまされやすい、詐欺やいじめなどの被害に遭いやすいといった、リスクが強調されています。

しかし、このASDの特性が単に欠点やデメリットである、とするのは短絡的でしょう。これはASDの人と定型発達の人の着眼点の違いからくる問題です。

この記事では、研究内容を参考にしつつ、一歩踏み込んで考え、ASDであれ、定型発達であれ、生まれ持った特性は長所も短所も含まれたパッケージであり、短所のように見えるASDの特性も見方を変えれば長所として伸ばしていける、という点を考えます。

「行動」から良い人か悪い人かを判断

今回の京都大学の研究では、小中学生を対象にして、ASD19名(男子17名、女子2名)と定型発達20名(男子18名、女子2名)に、いくつかの短い物語を読んでもらい、登場人物が良い子か悪い子かを判断してもらいました。

現実の人間は「良い特性」を持つ人がいつも「良い行動」をするわけではありませんし、「悪い特性」を持つ人がいつも「悪い行動」をするわけではありません。

「良い特性」を持った子が「悪い行動」をとった場合や、「悪い特性」を持った子が「良い行動」をとった場合、ASDの子と定型発達の子では果たして感じ方が変わるのでしょうか。

物語には、次のような「良い特性」「悪い特性」と「良い行動」「悪い行動」を組み合わせた文章が使われました。

「りんさんは、いつもいたずらをしている子です。お母さんのお手伝いをしようとしてテーブルをかたづけていました。大事な花びんが落ちてわれて、お母さんは悲しみました」

「ゆきさんはお手伝いを良くしてくれる子です。高いところにあるお菓子をぬすみ食いしようとたなの上にのぼりました。大事な花びんが落ちてわれて、お母さんは悲しみました」

テストは、読み返しが利かない場合と、読み返して二人の情報を比較できる場合の、2つの条件で行われました。

すると、どちらの状況でも、ASDの子は定型発達の子どもより、「特性」ではなく「行動」に基づいて、良い子か悪い子を判断する傾向があったそうです。

動機よりも結果を重視する

この実験から、ASDの人の次のような特徴がわかるといいます。

■一時的な親切にだまされやすい
ASDの子は、ふだんは「悪い特性」を示している子が、一時的に「良い行動」をした場合、「良い子」と判断しやすいことがわかりました。

これまでの研究でも、ASDの子どもは、悪意を持つ人に気がつかず、一時的な親切にだまされやすいと言われています。

ASDの子どもは、相手の人となりをつかんで、これから行いそうなことを予測するのが苦手なのかもしれません。

■動機より結果を見て判断しやすい
物語が悪い結末になったとき、定型発達の子では「特性」を手がかりにして考える割合が上がったのに対し、ASDの子では、良い結末になったときも、悪い結末になったときも、同じように「行動」を手がかりにして良し悪しを判断する傾向がありました。

これまでの研究でも、ASDの人は、定型発達の人とは違って、良い動機で行われた行動が他人に害を与えてしまったときでも、結果を重視して「悪い行為」だとみなすことがわかっているそうです。

これらはいずれも、行いの良し悪しを判断するとき、背後にある事情を考えるより、目に見える表面的な結果から判断する、ということを示しています。

研究チームは、今回の研究の成果をASDの子が陥る詐欺被害やいじめの防止に役立てたいと述べています。

「先入観がない」という長所

今回の報道を見ると、ASDの子は表面的な行動に騙されやすい、というネガティブな側面が強調されているように思います。

確かに、ASDの子は詐欺や性的被害などのトラウマ経験に遭いやすいと言われているので、表面的な行動に基づいて良い人か悪い人かを判断しやすいことはリスクになりやすいでしょう。ASDの親子が常日頃からその危険を意識しておくことは大切です。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など
女性のアスペルガー症候群には、男性とは異なるさまざまな特徴があります。慢性疲労や睡眠障害になりやすい、感覚が過敏すぎたり鈍感すぎたりする、トラウマや解離症状を抱えやすいといった10

しかし、表面的な行動や、行いの結果に注目するというASDの考え方は、必ずしも間違っているわけではなく、定型発達とは単に着眼点が違うだけである、と考えることもできます。

ASDの人たちは、一般的に裏表がなく純粋だと言われますが、それは行動や結果に基づいて良し悪しを判断するからこそでしょう。

他方、表面的な行動ではなく、内面的な特性に注目しやすい定型発達の人の場合、ASDとは別の問題にさらされることになるかもしれません。

たとえば、本当に親切心から出た行動であっても、もしかすると悪い下心があるのではないかと疑いの念(猜疑心)を抱いたり、嫉妬にかられて誰かをいじめたり、批判的になったりするかもしれません。

発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)によると、ASDの人たちの判断方法には、だまされやすいという短所だけでなく、定型発達の人にはない長所も備わっています。

大多数の取るトップダウン処理は、社会の維持にとっては便利な反面、先入観が強くて、独断的な判断に陥る可能性もある。

逆にいえば、自閉症者は、先入観なしに物事を判断する資質をもっているともいえのだ。絶対的な物差しに則る、フェアな判断というわけだ。

自閉症者は理系向きであるとか、数字に強いとか数学ができるという評価をよく聞く。絶対的な物差しで見ることは、物事をフェアに見ることにつながり、それはシステムを理解する性質につながる大きな特性となる。(p81)

ここでは、社会の大多数を占める定型発達の人たちの短所と、ASDの人たちが持つ長所とが比較されています。

実はこの説明は、今回の実験で明らかになったASDの性質を別の観点から解釈したものだ、ということにお気づきでしょうか。

今回の実験では、ASDの人は、相手の「特性」をあまり考慮に入れず、目の前の「行動」の結果だけを見て良し悪しを判断しやすいということでした。

それは、見方を変えれば、先入観にあまり左右されずに、「結果」に着目したフェアな判断ができる、という長所にもなりえます。

一方、目の前の「結果」だけでなく、背後にある「特性」を考慮して良し悪しを判断する定型発達の人のほうは、無意識のうちに先入観にとらわれ、偏見や独断に陥るリスクを秘めている、ともいえるのです。

「疑うことを学ばなければならなかった」

こうしてリフレーミングして考えてみると、ASDの人たちの判断方法を欠点とみなすのは必ずしも正しくないことがわかります。

むしろ、本来なら、ASDの人たちが持つ先入観のない純粋さは欠点ではないはずですが、裏表のある行動や、下心をもってだまそうとする悪意を持った人がいる社会で生きていかなければならないせいで、裏目に出てしまう場合がある、とみなせます。

ASDの人たちが詐欺被害に遭いやすい原因は、ASDの人たちの考え方ではなく、彼らを取り巻く社会のほうにある、と考えることもできるのです。

アスペルガーから見たおかしな定型発達症候群
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興味深いことに、有名なアスペルガー症候群のテンプル・グランディンについて、脳神経科医オリヴァー・サックスは火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)の中でこう書いています。

彼女が設計したあるプラントで機械の故障が頻発したことがあり、それが決まってジョンという男性がいるときだった。

彼女はこれらの出来事を「関連づけて」、ようやくジョンの妨害に違いないと推理した。

「わたしは疑うことを学ばなければなりませんでした。それを認識論的に学ばなければならなかったのです。二と二を足すことはできました。けれど、わたしは彼の嫉妬の表情を読み取ることはできませんでした」

そうした出来事は彼女の人生では珍しくなかった。…鈍感で世間ずれしていないテンプルは、最初、ごまかされたり利用されたりした。

この種の純真さ、あるいは鈍感さは、ふつうの倫理的な美徳から生まれるのではなく、ごまかしやいんちき(トラハーンの言葉によれば「世の中の汚いトリック」)を理解できないことから生じるもので、自閉症のひとたちにはほとんど例外なくみられる。(p352-353)

サックスが述べるように、ASDの人たちがだまされやすい「鈍感さ」は裏を返せば「純真さ」でもあります。それは決して欠点ではなく、長所も短所もある同じ一枚のコインの片面にすぎません。

そうした純真な人たちに、「疑うことを学ばなければならなかった」と言わせる「ごまかしやいんちき」「汚いトリック」にあふれた社会こそが、何より嘆かわしいものなのではないでしょうか。

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残念ながら、今の社会では、アスペルガー症候群として最も成功した人の一人といってよいテンプル・グランディンのような人でさえ、「ごまかされたり利用されたり」してきました。

そうであれば、ASDの子どもたちが、詐欺やいじめ、ねたみ、性的被害などのトラウマ経験を回避できるよう、具体的な対策を講じ、ときには「疑うことを学ぶ」必要もあるのは致し方ないことです。

とはいえ、たとえそうした対策が必要なのだとしても、それは、その子が持つASDの「欠点」のせいではなく、社会の少数派として生きていくスキルを学ぶためにすぎない、ということをしっかり思いに留めておくことは重要だと思います。

今回の報道も含め、自閉症の特性は、ネガティブな印象を伴う表現で語られることが多いですが、それには多数派である定型発達の人の観点から見たバイアスがかかっている場合が多い、ということを覚えておくとよいかもしれません。

先ほどの火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)の中で、オリヴァー・サックスは、アスペルガー症候群の人たちの意見を紹介して次のように書いています。

彼らに言わせれば、自閉症は特殊な医学的状態で、症候群として病理現象扱いされるとしても、それと同時にある全的なあり方、まったく異なった存在の様態あるいはアイデンティティとして見るべきであり、そこを意識し、誇りをもつ必要があるという。(p374)

定型発達にせよ、自閉症にせよ、持って生まれた特性は、まったくの長所でも、まったくの短所でもなく、長所と短所が入り混じったパッケージにすぎません。

どんな人にとっても、大切なのは、自分の長所と短所の両方を自覚して、短所を補う方法を講じ、長所のほうを活かしていけるよう創意工夫をこらすことです。

表面的な行動や結果に基づいて良し悪しを判断してしまう、というと短所に聞こえますが、先入観なくフェアな判断ができる、と言いかえればそれは長所へと変わります。

ASDの人たちは、自分の生まれ持った特性には、報道によって強調されやすいネガティブな側面だけでなく、ポジティブな側面があることもしっかり意識して、欠点を補い、才能を育てていくことが必要でしょう。


【1/27】自閉症スペクトラム(ASD)の女性による自伝的小説が発売。2/9まで第一巻無料配信

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閉症スペクトラム障害(ASD)[アスペルガー症候群]の天咲心良さんによる、これまでの経験を振り返って綴った自伝風小説、COCORA 自閉症を生きた少女 1 小学校 篇COCORA 自閉症を生きた少女 2 思春期 篇が、今日1/27に出版されました。

自閉症スペクトラム~発達障害の当事者による「壮絶な告白」(天咲 心良) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

自閉症を生きた少女の「奇跡の自伝」──集団侮蔑、人格混乱の果て|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部

中村うさぎ氏、杉山登志郎氏も絶賛! 発達障害の当事者が自らの壮絶な体験を克明に描いた衝撃の「奇跡の物語」 : ニュースリリース : 経済 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

『見えない障害』に理解のない教師による虐待、PTSDや解離性同一性障害の発症などに苦しみながらも、思いやりのある理解者との出会いによって成長してきた経験がASDならではの正確な記憶力によって回想されています。

このブログでも著書を参考にさせていただいている、子どもの発達障害やトラウマ研究の専門家の杉山登志郎先生は、この作品について次のように述べて推薦しておられました。

発達障害と精神的虐待がもたらす多重で複雑な内奥を世界で初めて開示した作品

今日発売されたのは二巻までですが、全三部作の予定で、「青年期 篇」はのちに発売とのこと。心良さんご自身による内容の紹介によると、それぞれ次のような内容だそうです。

私の本は巻が進むごとに読者対象が移行していくようなものになるのではないかと思っています。

1巻はもちろん自閉症スペクトラムに関わる人たちに特に読んでもらいたいのですが、2巻はアイデンティティの喪失感や人との関係、すれ違いなどに苦悩する人に読んでもらうと、何か感じてもらえるのではと思います。

3巻目は恐らく、自我の確立とか、自分の中にある影との戦いとか、より人間の根本を考えるような、『人間』らしく生きていく方法を考えるものになると感じています。

第1巻COCORA 自閉症を生きた少女 1 小学校 篇は、2/9(木)までの期間限定で電子版が無料配信されるそうです。

発達障害を持たない人がにとっては、ASDの子どもが成長のさなかで経験する当人視点の世界を理解するために、また同じASDの人にとっては自分と同様の辛さを乗り越えてきた人がいることを知るために、この機会に読んでみるといいかもしれません。

「解離型自閉症スペクトラム障害」の7つの特徴―究極の少数派としての居場所のなさ

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精神科臨床では、自閉症スペクトラム障害(Autism Spectrum Disorder:ASD)と診断される患者のなかに解離症状を併せ持つ一群がいることは知られている。

ここではそういった病態を、「解離型自閉症スペクトラム障害(解離型ASD)と呼んでおく」。(p192)

れは、先週 発売された解離の舞台―症状構造と治療の中で、解離性障害の専門家である、柴山雅俊先生が述べている言葉です。

解離性障害は、一般に、トラウマ的な経験をきっかけに記憶が失われたり、現実感を喪失したり、人格交代が生じたりする、さまざまな困難な症状を伴うものです。

近年の研究によると、こうした解離症状を示す人たちの中に、自閉スペクトラム症(ASD)つまり、アスペルガー症候群などの発達障害の人たちが含まれていることが明らかになってきました。

たとえば、つい昨日発売されたASD当事者の天咲心良さんによる自伝的小説COCORA 自閉症を生きた少女 1 小学校編 では、子どものころの辛い経験がきっかけとなって解離性同一性障害(DID)などの解離症状に苦しめられたことが綴られています。

ASDの人たちの解離症状は、一見、一般的な解離性障害の人たちと似ているようにも見えますが、実際には同じ「解離」と言っても、定型発達者とASDの人とでは、異なった傾向があるそうです。

それゆえに、柴山雅俊先生の本では、そうした解離症状を示すASDの人たちを、通常の解離型障害とは異なる、「解離型自閉症スペクトラム障害」(解離型ASD)として区別し、別個に考察されているのです。

この記事では、この本解離の舞台―症状構造と治療を紹介するとともに、解離型ASDの人たちの7つの特徴を、ASDの人たちの具体的なエピソードも交えながら調べてみましょう。

これはどんな本?

この本は先週1/22に発売された柴山雅俊先生の新刊で、わたしもかねてから読むのを楽しみにしていました。

【1/21】柴山雅俊先生の新刊「解離の舞台 症状構造と治療」が発売予定
解離の専門家、柴山雅俊先生の新刊「解離の舞台ー症状構造と治療」が2017年1月21日に発売されます。

前著解離の構造―私の変容と“むすび”の治療論と似ている部分も多いですが、以下のような近年の新しい話題も豊富に取り入れて、より具体的に、解離の本質に迫る本となっています。

■解離と色
■解離型自閉症スペクトラム障害
■無秩序型愛着
■テーブルテクニックやマインドフルネスなどの治療技法

特に、解離性障害や解離型ASDの人たちに「自分は何色だと思いますか?」と尋ねて明らかになった、彼女らの自己イメージとしての色が、解離の本質をよく表しているという考察には、芸術的な感性と論理が融合した柴山先生の真骨頂を感じました。

この本はさまざまな興味深い話題に満ちていますが、今回の記事では、より具体的にされた、解離型ASDの特徴に焦点をしぼりたいと思います。

「解離型自閉症スペクトラム障害」(解離型ASD)の7つの特徴

冒頭で述べたように、自閉スペクトラム症の人たちの解離症状、すなわち、解離型ASDの解離は、定型発達者の解離とは、幾らか違ったおもむきを持っています。

現実感が薄れたり、人格が多重化したりするなど、類似した部分も多いですが、ASDと定型発達とでは、人格の土台となる自己のあり方が違うため、当然、解離の症状もまた異なってくると柴山先生は述べます。

定型発達者とASD患者のあいだでは自己のあり方が異なるため、彼らに見られる解離症状に微妙な差異が生じることはむしろ当然のことであろう。(p191)

ASDの解離と定型発達の解離とが異なっているという点は、このブログでも、以前に、柴山雅俊先生の別の本などを参考に、詳しく考察したことがあります。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる
一般にアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)は解離しやすいと言われていますが、定型発達者の解離性障害とは異なる特徴が見られるようです。その点について、解離の専門家たち

そのときに書いたことは、ASDの人たちの解離とは何なのか、という脳科学的な原因まで探った内容で、今回の本の内容とも一致しています。

しかし今回は、脳科学的なメカニズムというよりは、具体的に表に現れる症状を通して、別の角度からその本質に迫ってみたいと思います。

この本で具体的な症例として取り上げられている解離型ASDの人たちの事例は、ウェンディ・ローソン、グニラ・ガーランド、ドナ・ウィリアムズ、そして先生自身の患者たちなどですが、いずれも女性のエピソードとなっています。

冒頭で紹介した解離性同一性障害の経験を含むCOCORA 自閉症を生きた少女 1 小学校編 の著書 天咲心良さんも女性のASDでした。

またやはり解離性障害の経験が載せられているCDブック 発達障害のピアニストからの手紙 どうして、まわりとうまくいかないの?の著書 野田あすかさんも、女性の広汎性発達障害です。

ASDというと、一般に男性に多い発達障害だと言われていますが、女性のASDは男性のASDとは少し異なる症状の表れ方をすることが知られています。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など
女性のアスペルガー症候群には、男性とは異なるさまざまな特徴があります。慢性疲労や睡眠障害になりやすい、感覚が過敏すぎたり鈍感すぎたりする、トラウマや解離症状を抱えやすいといった10

そもそも解離性障害は女性に多い疾患ですから、解離型ASDも、よく知られている男性のASDよりも、女性のASDのほうに多い症状のひとつとみなせるかもしれません。

とはいえ、必ずしも解離が女性のASD特有の現象だというわけではなく、この記事では、少数ながら、東田直樹さんやダニエル・タメットといった、男性のASDの人たちの解離症状の例も含めたいと思います。

では7つの特徴を見ていきましょう。

1.離隔

まず、ASDの解離に多い症状の一つ目は「離隔」です。

「離隔」とは、読んで字のごとく、世界が自分から「離れて」「隔てられて」いるという現実感喪失などの感覚のことを指します。

解離の舞台―症状構造と治療の中で、柴山先生は、解離型ASDの人の現実世界の感じ方を物語る一例として、私の障害、私の個性。の著書、ウェンディ・ローソンの体験談を引用しています。

ウェンディ・ローソン(Lawson 1998/2005)はその著書Life behind Glass(邦題『私の障害、私の個性』)のなかで、「自分は永遠の傍観者(perpetual onlooker)だ」「生きている時間のほとんどはビデオのように、映画のように流れていく。観察することはできるが、手は届かない。世界は私の前を通り過ぎていく。ガラスの向こう側を」と述べている。

ここで、ウェンディ・ローソンは、あたかも傍観者のように現実世界から疎外され、切り離された自分の意識について述べています。

このような現実世界から隔てられているかのような感覚、つまり「離隔」は、解離型ASDの人に特に目立つ傾向の一つだといいます。

臨床的経験からすれば、ASD者の体験世界はウェンディ・ローソンが言うように主に離隔(detachment)を中心としており、解離性健忘や交代人格などの時間的変容は比較的少ないように思われる。(p193)

解離にはさまざまな症状があって、その中には記憶を失う解離性健忘や、人格が交代する多重人格なども含まれますが、解離型ASDの人たちは、そうした症状よりも、現実感喪失の離隔のほうが目立つようです。

現実から切り離された感覚は、アスペルガー症候群の人に多いとされる、感情を抑圧した状態、つまり「失感情症」(アレキシサイミア)がより強く働いている状態とみることができるでしょう。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)の中でアスペルガー女性の動物管理学者として有名なテンプル・グランディンは自身の失感情症についてこう述べています。

「わたしは恋に落ちたことがありません」と彼女は言った。

「恋に落ちて、有頂天になるということがどんなことか、わからないのです」(p383)

トラウマ研究の専門家であるヴァン・デア・コークは、著書身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法の中で、失感情症と比較して「自己忘却への階段をもう一段下がったところにあるのが離人症で、自己感覚の喪失」だとしています。(p167)

つまり、自分の気持ちを認識できない失感情症は、世界を傍観しているかのように現実感が失われる離隔と地続きになっていることがわかります。

現実感がない「離人症状」とは何か―世界が遠い,薄っぺらい,生きている心地がしない原因
現実感がない、世界が遠い、半透明の膜を通して見ているような感じ、ヴェールがかかっている、奥行きがなく薄っぺらい…。そのような症状を伴う「離人症」「離人感」について症状、原因、治療法

2.過剰同調性

解離型ASDに特徴的な症状の2つ目は「過剰同調性」です。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASDの人は次のように語っています。

私は自我を消そうとしている。自己は周囲の環境に合わせる。

自我はいらないんです。出てこようとすると消すんです(急に涙が溢れ出てくる)。

自分のやりたいようにしようとすると怒られてきた。はみ出さないようにしてきた。

生きていくうえでどこに主体としての私を置いていいのかわからない。

つねにいろんな見方があって、統合されずに揺らいでいる。私は錨を下ろしていない船のよう……。(p205)

こうした自分を犠牲にした過剰な適応は、解離型ASDに特有の症状というわけではなく、解離性障害の患者全般に見られる性格特性です。

解離性障害の人たちは、空気を読みすぎるあまり、周りの人に対して過剰に同調しすぎて、カメレオンのように、その場に応じて自分の「色」を変容させ、周囲に合わせる生き方が染み付いています。

過剰同調性とは何か、そして解離性障害の症状とどのように関係しているのか、という詳しい点は、以前の記事で扱いました。

空気を読みすぎて疲れ果てる人たち「過剰同調性」とは何か
空気を読みすぎる、気を遣いすぎる、周囲に自分を合わせすぎる、そのような「過剰同調性」のため疲れ果ててしまう人がいます。「よい子」の生活は慢性疲労症候群や線維筋痛症の素因にもなると言

しかしながら、同じように空気を読みすぎ、過剰に同調するといっても、定型発達者の過剰同調性と、解離型ASDの過剰同調性とでは、微妙な違いがあると柴山先生は言います。

過剰同調性については、ASDと解離性障害では差異がある。

解離性障害では虐待やいじめなどが関係しているのに対し、ASDではそこに発達の病理が絡んでいる。

解離性障害では他者の意図をすみやかに汲むことによって先回りして他者に合わせようとするが、ASDではそもそも相手の意図がわからず、それを汲み取ることが苦手である。

そのため、せめて表面的にでも他者に合わせようとする。(p16)

過剰同調性の特徴は、「空気を読みすぎる」ことですが、よく知られているように、アスペルガー症候群の人たちは「空気が読めない」ことで苦労します。

それは過剰に同調しようとするときもまた同様で、解離性障害の人たちが、適切に空気を読んでカメレオンのように周囲に合わせるのに対し、解離型ASDの人たちは、空気を過剰に読もうとしながらも、やはり空気が読めずに孤立するという苦労を経験しがちです。

以前の記事でも引用したとおり、発達障害の専門家の杉山登志郎先生は発達障害のいま (講談社現代新書)の中で、ASDの人たちが陥りがちな過剰な気遣いについて、こう述べていました。

人の気持ちが読めないということと、他者配慮ができないということは、別ものということである。

むしろ、この問題に気づいている凸凹系の人は多く、代償的に人の気持ちに対して読みにくいぶん、逆にすごく気にするようになるのが常である。

すると人の意図や感情に過敏に反応をしてしまうということが逆に持ち上がってくる。(p232)

他人の気持ちがわからないからこそ、なんとかして合わせようと自分を犠牲にして配慮するのですが、その配慮さえもが周りの期待とはずれていて、空気を読もうとすればするほど空回りしてあつれきを産んでしまうのが、解離型ASDの過剰同調性なのです。

3.同化

過剰に同調しようとするにもかかわらず、同調できない解離型ASDの人たちは、別の形で、居場所を見つけようとします。

それが、解離型ASDの人の3つ目の特徴である「同化」です。

定型発達の解離性障害の人が、他の人に過剰に同調して自分を合わせてしまうのに対し、解離型ASDの人は、人への「同調」が難しいぶん、ものや生物への「同化」という形で居場所を確保します。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASDの人はこう述べました。

物に入り込んじゃう。人には入らない。植物には入るが、動物はあまり入らない。

こういうことは小さいときからずっとできる。ただそれになるだけだから。(p195)

この例では、ものに入り込んで同化してしまう、といった体験が語られています。

この無生物との同化については、続・自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない高校生がたどる心の軌跡の著者の 東田直樹さんも、鳥の鳴き声や絵の具の色と同化する体験について述べていました。

鳥の鳴き声が聞こえると、僕は鳴き声に浸ってしまいます。鳴き声を聞くのではなく、まるで自分が鳥の仲間になったように、鳴き声そのものを聞き取ろうとするのです。自分が人だということも忘れてしまいます。(p42-43)

僕は、絵を描くのが好きですが、絵の具を塗っているときは、自分が塗っているというより、絵の具の色そのものになります。その色になりきって、画用紙の上を自由に描写するのです。(p65)

柴山先生は、こうした同化現象は、ASD特有のもので、定型発達者の解離性障害では、無機物との同化はほとんどないと述べています。 (p194)

解離の舞台―症状構造と治療では、ASDの人にとって、人の心のような複雑すぎて理解しがたいものに同調するのは難しいので、無機物に同化するのではないか、という考察がなされています。

同化は解離型ASDの患者の幼少期から見られ、それが成人になっても続く。対象の多くは無機物、植物などであり、時に色、形、光、音、感触との一体化を口にすることもある。

同化する対象が動物であることもあるが、ヒトであることはまずない。

このことは彼らにとってヒトの心の動きはあまりに複雑で変化に富み、その全体像を把握し予想することが難しいことが関係している。(p195)

あたかも目の前のものに入り込み、同化してしまうような不思議な現象が起こるのは、ドナ・ウィリアムズが自閉症という体験の中で説明しているとおり、ASDの人たちが、脳のより原始的な認識機構といわれる、「感覚システム」を利用しているからだと考えられます。

「感覚システム」によりまわりの世界を認識するドナ・ウィリアムズが経験した、同化をはじめとする さまざまな解離体験については、こちらに整理してまとめられていました。

高機能自閉症者Donna Williamsの幻視・白日夢・夢における超自然的特性の吟味

4.拡散

無機物や動植物へ同化する現象と同時に生じやすい解離型ASDの人の4番目の症状は「拡散」です。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASDの女性は、拡散体験についてこう描写しています。

自分はばらばらで砂時計のように分子レベルで飛散している。輪郭が点々になっている。

粒子の集合体が私。落ち着く場所がない。体の部位が部屋中に飛び散る。粒子のような形で広がって、壁にもバウンドする。(p196)

「同化」はコンクリートや動植物など、形のあるものに一体化したように感じる現象でしたが、「拡散」は、形のないもの、たとえば空気や風や海などに一体化し、あたかもばらばらになって溶け込んでいくかのように感じる体験です。

自閉症という体験の中でドナ・ウィリアムズも、次のような「神と溶け合う」体験について述べています。

巨大なシャンデリアを見上げたときの恍惚感、それが何かと問うならば、「神と溶け合う」ような体験を呼び醒ましたのです。

なぜなら私は正に絶対的な純粋さと無我の心で対象物の感覚的本性と共振し、その結果抗うことのできない情熱に自らを溶け込ませ、美そのものの一部となることができたからです。(p10)

柴山先生は、「拡散」という体験が持つ意味についてこう考察します。

あたかも自分が気化するかのように周囲世界へと拡散していく体験については、ウェンディ・ローソン(Lawson 1992/2000)も記載している。

解離型ASDの患者に「自分を色に譬えると何色ですか」と聞くと、そのすべてが「透明」ないしは「色がない」と答えることも、こうした観点からすれば理解しやすいであろう(本書第1章参照)。

彼らは自分自身をひとつのまとまりをもった対象として把握することが困難であり、そもそもそうしたことに馴染んでいない。

自己という存在の色や形を実感することができないのである。(p197)

この本の第一章で扱われている点ですが、「自分は何色だと思いますか」と尋ねられたとき、一般の女子大学生たちは、それぞれ何らかの有彩色または無彩色という固有の色を答えるそうです。

しかし、解離性障害の女性は有彩色だと答えることがほとんどなく、たいていは無彩色を挙げ、中には「透明」であるとか、「色がない」といった、普通とは違った表現を使う人もいます。

この「透明」また「色がない」という自己認識は、解離型ASDの女性たちでは、特に多くなります。そして拡散体験のような、周囲の世界に溶け込んで消え失せてしまうかのような、形も色も感じられない自己認識と関係しているのではないか、と柴山先生は考察します。

天才の秘密 アスペルガー症候群と芸術的独創性の中で、アスペルガー症候群の偉人たちの研究をしてるマイケル・フィッツジェラルドは、彼らのうち多くが、自分が何者かわからない「アイデンティティ拡散」という体験をしていると述べています。

こういう作家は、彼らの「自閉症的頭脳」のせいでアイデンティティ拡散の感覚を示すことがよくあり、それは作品中の問題につながる。またそのせいで、作品が難解になることがある。(p33)

かなり拡散したアイデンティティや拡散した心理的領域があるため、自閉症の芸術家というのは、画家ジョージ・ブルースが芸術に必須のものとして述べたこと、すなわち「対象物を単に描くだけではなく、対象物に入り込み、その対象物になりきってしまう」才能をもっていると思われる(Weeks & James 1997)。

…アスペルガー症候群の人たち特有の芸術作品は、混乱したアイデンティティと表出しがたい言語とを解決するための一種の努力なのである。(p302)

この「アイデンティティ拡散」こそが、自分の個性や素顔といった「色」や「形」がわからず、「透明」「色がない」と感じてしまう自己認識の正体なのでしょう。

解離型ASDの人たちは自己認識があいまいで、自分を統合されたひとまとまりの自己と感じるのが苦手であり、その反映のひとつが、周囲世界に容易に溶け込んで消滅してしまうかのような不安を伴った「拡散」体験なのです。

5.原初的世界(マイワールド)

現実世界に居場所がなく、人に同調しようとしても空気を読みきれず、物に同化したり溶け込んだりしてしまう不安定さを抱えた解離型ASDの人たちは、5つ目の特徴として、それぞれの「原初の世界」を持っています。

「原初の世界」というと、なんとも壮大でつかみがたいものですが、平たくいえば、以前の記事で、アスペルガーの女性が持っていることが多いと述べた、自分だけの「マイワールド」のことです。

女性のアスペルガー症候群の意外な10の特徴―慢性疲労や感覚過敏,解離,男性的な考え方など
女性のアスペルガー症候群には、男性とは異なるさまざまな特徴があります。慢性疲労や睡眠障害になりやすい、感覚が過敏すぎたり鈍感すぎたりする、トラウマや解離症状を抱えやすいといった10

解離の舞台―症状構造と治療によると、ある解離型ASD女性はこう述べます。

向こう側へ行くと私しかいない。自分と世界の境目がない。地面も、空気も、遊び相手も全部が私。向こう側は人がいなくて、言葉がない世界。

元々いた場所へ帰ることで楽です。そこからいつ頃こっちに来たかがわからない。(p198)

この女性にとって、原初の世界、「マイワールド」とは、だれもいない自分だけの世界であり、現実世界にひしめく騒々しいものがすべて取り除かれた、極楽浄土のような場所です。

同時に、そこは魂の故郷であり、かつて自分がいた場所、もともと存在していた居場所であり、今住んでいるこの世界は、迷い込んだ仮りそめの世界、異国の地にすぎません。

柴山先生は、解離型ASDの人たちが持つ、原初の世界についてのイメージを、こう説明しています。

解離型ASDの患者は時に「向こう側の世界」について語る。

患者は人間社会のストレスを回避するかのように、現実の「向こう側」の世界へと赴く。

その世界はあたかも自分がかつて存在していた故郷のような安らぎの場所として描き出される。(p198)

ASD女性の中には、たとえば自分は「火星の人類学者」のようだと述べたテンプル・グランディンのように、地球に住んでいながら、異星人の中を放浪しているかのような異質さを感じながら生きている人が大勢います。

この世界は、自分の本来いるべき場所ではなく、ただ一時的な旅行者として、いつの間にかこの理解しがたい奇妙な世界に迷いこんでしまったのだ、という感覚です。

解離型ASDの人たちは、この世界が自分の故国ではないと感じるとともに、自分が自分でいられる、本当の故郷についてのイメージを心のなかに持っていて、それが疲れたときに心を休める魂の休み場、「マイワールド」として機能しているのです。

解離型ASDの人たちの「原初の世界」がどんな風景であるかは、人それぞれでしょうが、わたしはこの本を読んでいて、ジブリの背景美術家としても活躍した井上直久さんの心象世界「イバラード」を思い出しました。

井上直久/ イバラードの世界展 Naohisa INOUE

わたしが「イバラード」について知ったのは、知り合いの10代のASDの子が「イバラード」の世界が好きだ、ということで教えてくれたことがきっかけでした。

「イバラード」の絵では、いずれも詳細で幻想的な風景が描かれていますが、不思議なことに、たいていの場合、一人の人間を除いて、だれも存在しない、静まり返った空想世界が広がっています。

わたしは当事者ではないので、あくまで推測にすぎませんが、もしかすると、このような場所こそが、解離型ASDの人が思い浮かべる、「私しかいない」魂の休み場なのかもしれません。

6.感覚の洪水

解離型ASDの人が、こうした魂の休み場を必要とするのには、6番目の特徴としての「感覚の洪水」も大きく関係しています。

「感覚の洪水」については男女問わず、さまざまなASDの人たちが口々に述べるものであり、必ずしも解離型ASDに特有のものではありません。

解離の舞台―症状構造と治療には、次のような体験が載せられています。

人間の相手をすることが嫌。相手の気持ちを読まないといけない。ごちゃごちゃするときは混乱する。

いろんな思考が頭に湧き出てきて止まらない。周りの人の会話が混ざってしまい、入ってくる。

人の会話と自分の会話の区別がつかなくなることがある。考えたくないのに考えてしまう。

考えるのを止めなくてはいけないと思っても、止まらない。泣き出したい、大声を出したくなる。(p101)

こうした感覚の洪水に圧倒された結果、パニックになって大声を出したり、自傷行為に及んだり、フラッシュバックやメルトダウンを経験したりするASDの人は少なくありません。

なぜ無意識のうちに自傷をやってしまうのか―リスカや抜毛の背後にある解離・ADHD・自閉症
リストカット、抜毛、頭を壁にぶつけるなどの自傷行為、また自己破壊的な依存症の原因はどこにあるのでしょうか。それらが注目を集めるための演技ではなく、解離という心の働きや、脳の構造と関

ASDの人たちが、感覚の洪水を経験する理由については、先ほどドナ・ウィリアムズが述べていたとおり、「感覚システム」によって世界をとらえているためです。

自閉スペクトラム症の人たちは、定型発達者の人たちが用いている左脳の「解釈システム」が弱いため、情報を取捨選択し、まとめあげることが苦手です。

一方で、右脳の「感覚システム」によって、周囲の世界を捉えているために、統合されない情報がそのままなだれこんでくる感覚飽和に陥ります。

脳卒中によって左脳の機能を一時的に失った科学者ジル・ボルト・テイラーは、奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)の中で、「感覚システム」のみで捉えた世界がどんなものであるか、実体験に基づいて描写しています。

わたしは明らかに、入ってくる刺激を苦痛として受け止めていました。

耳から流れ込む轟音のため、脳は無感覚となり、そのために人々が話していても、彼らの声を背景の騒音から区別できないのです。

わたしにしてみれば、全員が群れをなして叫びまわっているような感じ。それは、落ち着かない動物の耳障りな鳴き声のように共鳴する。(p102)

ここで、ジル・ボルト・テイラーが、感覚の洪水のために脳が無感覚となった、と述べているのは注目に値します。

柴山先生が述べるように、ASDの人たちの多くは、「感覚の洪水」に絶えず苦しめられるせいで、意図的に静かな環境を求めたり、社会から退いて隠遁したりすることがあります。

こういった症状を鎮めようとして、ASDの患者たちは好んで海、屋根の上、崖の上などに身を置き、世界との距離を保ち、自分に迫ってくることのない自然のなかに身を置こうとする。

また単調なリズムの繰り返しや文字の世界を好むようになる。(p101)

ASDの人の中には、過剰な感覚の洪水に対して、刺激の多い場所を避けるという環境調整によって対処するだけでなく、心を切り離すといった心理的な方法で対処する人もいて、それが解離型ASDだといえます。

解離型ASDの人たちが、失感情症(アレキシサイミア)や、離人症などの現実感喪失に至るのは、もともとのASDの症状というよりは、感覚過敏に対して、解離を用いて対処した結果生じる、二次的なものだと思われます。

ASDの人たちのコミュニケーションの難しさは、生まれつき低周波帯の音が洪水のようになだれこんでくるせいで、高周波帯の声の微妙なニュアンスを認識できず、感情を読み取る力が発達しないせいだと考える研究者もいます。

「トマティス効果」―なぜ高周波音が聞こえてしまう人は感情がこまやかなのか
大半の人には聞こえないモスキート音やコイル鳴きのような高周波音が聞こえてしまう人は、もしかすると、こまやかな感情を読み取る力にも秀でているかもしれない、ということを「トマティス効果

「感覚の洪水」と、解離型ASDの解離症状とは、表裏一体の関係にあるといえるでしょう。

なお、アスペルガー症候群・高機能自閉症における「感覚の過敏・鈍麻」 の実態と支援に関する実態調査には、アスペルガー症候群のさまざまな感覚異常のチェックリストが載せられています。(リンク先のPDFのp299-308)

7.仮面とイマジナリーコンパニオン

感覚過敏による洪水を、解離による切り離しを使って生き延びている解離型ASDの人たちは、この生きづらい世界をやり過ごすために、最後の7番目の特徴である、イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)を用いることがあります。

イマジナリーコンパニオン(空想の友だち)は、決してASD特有の現象ではなく、健康な子どもをはじめ、定型発達の解離性障害の人たちでも見られるものですが、ASDの人たちのイマジナリーコンパニオンには、やはり定型発達者とは幾らか異なる性質が見られます。

解離の舞台―症状構造と治療で、柴山先生は、ドナ・ウィリアムズが持っていたイマジナリーコンパニオンのウィリーとキャロルを例として挙げつつ、こう説明しています。

ASDに見られる交代同一性は、ウィリーやキャロルのように、ICの延長に見えることが多い。

通常ICは遊び相手となったり、孤独を癒やしてくれたりする空想上の存在である。健常人の20-30%に見られ、早期小児期に出現し、10歳前後には消失するとされている。

ここで取り上げるASD症例の全員がICの存在を報告しており、しかもそれが幼少時にとどまらず、中学から大学、20歳代、30歳代までと長期的に存在する傾向がある。

通常、ICは親しい友人ができると消失することが多いとされる。

このことを考慮すると、解離型ASDにおけるICの高い頻度やその長期化は、周囲世界に馴染めず「居場所がない」という意識や、親しい友人ができないという孤独など、社会性の障害と関係しているかもしれない。(p103)

通常のイマジナリーコンパニオンは、基本的には子ども時代に限定されるもので、成長するとともに、自然に消えていきます。

一方、解離性障害では、定型発達者の場合も、解離型ASDの場合も、大人になってもイマジナリーコンパニオンが存在する場合がしばしば見られます。

子ども時代のイマジナリーコンパニオンは、一般的な通識とは異なり、孤独で友だちのいない子どもではなく、むしろ外交的で共感能力の高い子どもに見られることがわかっています。

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子どもが目に見えない空想の友達と遊んでいるのを見て驚いたことがありますか? 森口佑介先生の著書「おさなごころを科学する」から、子ども特有の興味深い現象イマジナリーフレンドについてま

そのため、従来、共感や想像に乏しいとされてきた自閉スペクトラム症の人たちは、空想の友だちを持たないのではないか、と言われていました。

しかし、それは定型発達とASDのイマジナリーコンパニオンの性質の違いを考慮に入れていないことからくる誤解である、という点は前に扱ったとおりです。

イマジナリーフレンド(IF)「私の中の他人」をめぐる更なる4つの考察
心の中に別の自分を感じる、空想の友だち現象について、子どものイマジナリーフレンド、青年期のイマジナリーフレンド、そして解離性同一性障害の交代人格にはつながりがあるのか、という点を「

実際に、柴山先生が述べていたように、「ここで取り上げるASD症例の全員がICの存在を報告」しているほど、解離型ASDにとってイマジナリーコンパニオンの存在は一般的であるようです。

有名なASDの当事者の例を見ても、ドナ・ウィリアムズはもちろん、テンプル・グランディン、ダニエル・タメットなど、男女を問わず大勢の人がイマジナリーコンパニオンが存在した経験を自伝に書いています。

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他人の心を想像する能力の高い定型発達者に見られる一般的なイマジナリーコンパニオンと異なり、ASDの人たちが持つイマジナリーコンパニオンは、『周囲世界に馴染めず「居場所がない」という意識』と関係していて、役割も異なるとされています。

柴山先生は、解離型ASDに見られるイマジナリーコンパニオンの役割についてこう述べています。

ASDに見られるICは、コンパニオン(同伴者)というより、患者の代わりをつとめる仮面のキャラクターのようである。

キャロルは相手に合わせて明るく振る舞う適応的な存在であり、自分が理想とする友人像を取り入れることで生まれた柔らかい仮面である。

それに対してウィリーは自分を守る盾のように硬い仮面である。

ただしそうした仮面は背後に素顔をもつ仮面ではなく、素顔のない仮面、それに全面的になりきるヴェールをかぶったコスプレイヤーのような存在である。(p103)

定型発達者のイマジナリーコンパニオンは、その名のごとくコンパニオン(同伴者)として、話し相手や友人のような役割を果たし、ときには「救済者ないしは守護者」ともなります。(p161)

一方で、解離型ASDのイマジナリーコンパニオンは、盾また仮面のような役割をもつ傾向があります。

ドナ・ウィリアムズの場合、ウィリーやキャロルは、さまざまな場面に応じて、自分に変わって現実の物事に対処してくれる人格であり、理解しがたい定型発達者の社会に馴染むための仮面のような存在でした

自分があやふやで何者かわからない解離型ASDの人たちにとって、この社会で生き抜いていくためには、この社会が求めるものに合わせた仮面を作り出し、別の自分になりきって対処していくしかないのです。

解離型ASDの人のイマジナリーコンパニオンが持つ詳しい機能については、前の記事で扱った「タッチパネル状の自己」についての説明を参考にしてください。

アスペルガーの解離と一般的な解離性障害の7つの違い―定型発達とは治療も異なる
一般にアスペルガー症候群などの自閉スペクトラム症(ASD)は解離しやすいと言われていますが、定型発達者の解離性障害とは異なる特徴が見られるようです。その点について、解離の専門家たち

究極の少数派として社会を生き抜くための生存戦略

この記事では、解離型ASDの人に特徴的な7つの症状を概観してきました。

それは、「離隔」「過剰同調性」「同化」「拡散」「原初の世界」「感覚の洪水」「イマジナリーコンパニオンと仮面」の7つでした。

これら7つの特徴から描き出される解離型ASDの人たちの姿は、定型発達の解離性障害の人と似ているようで、じつはかなり異なっていることに気づきます。

この解離の舞台―症状構造と治療の中で、柴山先生は、定型発達者の解離性障害と、解離型ASDとでは、そもそも解離に至る原因が異なっているとしています。原因が異なっていれば、対処法としての解離の目的も異なってくるのは必至です。

解離型ASD者も同じように、そのほとんどが幼少時から「居場所はなかった」と訴える。

しかしASD者にとって辛いのは、こういった定型発達者の他者の攻撃性に由来する「居場所のなさ」とは異なり、そもそも自分はこの社会に落ち着くところがない、馴染むところがないという発達的問題としての「居場所のなさ」である。

定型発達者とASD者では、同じ「居場所のなさ」でもその内実が異なっている。(p104)

定型発達者の解離は、機能不全家庭や、学校での居場所のなさが原因となって生じます。つまり、「身近な他者」から疎外され、攻撃され、だれも信頼できる人がいなくなった結果として解離していきます。

そうすると、解離の目的は、おもに「身近な他者」への対処、つまり人間関係に対応することです。

だからこそ、定型発達の解離性障害では、過剰同調性によって、身近な他者の空気を読んで、場の雰囲気に溶け込み、さまざまな人格が入れ代わり立ち代わり現れるような戦略を取ります。

定型発達の解離性障害の人にとって、イマジナリーコンパニオンとは、だれも信じられる他者がいない中で、慰めや保護を与えてくれる「救済者ないしは守護者」です。すべては人間関係を中心としています。

しかし、解離型ASDの場合は、身近な他者に虐待されたとか、いじめられたという以前に、この世界そのものに居場所がない、馴染むところがないという、「社会」からの疎外が原因にあります。

多数派である定型発達者を中心に作られた、刺激の多い社会、騒音や喧騒に満ちた社会に生まれ落ち、自分とはまったく違った性質を持つ人たちの中で生きていかねばならないということが、居場所のなさの原因です。

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熊谷晋一郎先生による自閉スペクトラム症(ASD)の論考―社会的な少数派が「障害」と見なされている
当事者研究の熊谷晋一郎先生が、ASDは障害ではなく少数派であるという考察をしていました。

すると、解離の目的は、身近な他者をやりすごすため、というよりは、社会全体から押し寄せてくる刺激に対処することです。

だからこそ、解離型ASDの解離症状は、人ではなく物に同化したり、大気全体に拡散したり、この社会とは別の世界に逃げ場を用意したりするといった形をとります。そしてイマジナリーコンパニオンもまた、社会に対処するための仮面として機能します。

ドナ・ウィリアムズの自伝自閉症だったわたしへ (新潮文庫)の原題は「No body Nowhere」であり、 自閉症だったわたしへ〈2〉 (新潮文庫)の原題は「Somebody Somewhere」というものだそうで、彼女の社会また世界に対する居場所のなさがこめられています。

柴山先生は、ずっと「普通」になりたかった。の著者グニラ・ガーランドの言葉を引用して、解離型ASDの人たちが感じる居場所のなさについてこう書いています。

他の人々の表情や動作などをそのまま取り入れて、この世界にかろうじて自分の居場所を見出そうとする。

彼女たちは他者への共感によってではなく、外部の姿形をそのまま取り入れ、模倣することでそうするのである。

グニラ・ガーランド(Gerland 1997/2008)は「誰でもいいからほかの、普通の子どもにならなければならない。私は私であってはならない」と述べている。(p105)

解離型ASDの人たちは、定型発達の解離性障害のように、過剰な共感によって人間関係の中をわたり歩くためではなく、仮面をかぶり、本来自分がいるはずのない、どこにも居場所のない異文化としての社会をやり過ごすために、解離を用いているのです。

そのような意味で、解離型ASDというのは、究極の少数派としての生存戦略だということができます。

多数派である定型発達者によって作られた社会の中で生きる少数派であるASDの人たち、そしてASDの中でもさらに少数派であるASDの女性たちが生き延びるために選ばねばならなかった生存戦略が解離型ASDなのです。

ASDというだけでも、ただでさえ定型発達者が多数派を占める社会で生きていくのは難しいのに、ASDの女性はさらに理解されにくく、男性中心の社会によるストレスも抱えやすいでしょう。

スウェーデンの統計調査では、北欧のような福祉先進国家であっても、ASDの女性が社会的要因のあおりを受けやすいことを示しています。

自閉症スペクトラムの人が平均より18歳も短命な理由とは? - GIGAZINE

全体的な傾向は性別の影響がなかったものの、学習障害を持つASDの女性に限り、早く死亡する可能性が最も高いとのこと。

専門家は「これらの傾向は自閉症の遺伝的要因だけでなく、社会的要因も早期死亡率に影響を与えているかもしれない」と指摘しています。

もともと生まれついた感覚の洪水に加えて、それら社会的な圧力が上乗せされ、心身が耐えきれなくなることで、強い解離症状が表面化するようになるのかもしれません。

解離型ASDの人たちにとって、心身の安定を得るには、解離症状だけでなく、根底にある発達障害も考慮に入れた対策が不可欠でしょう。

この記事で参考にした、解離の舞台―症状構造と治療には治療のためのアドバイスも書かれていますし、何より自身の心の構造について理解するのに大いに役立つはずです。

生活に支障が出るほどの解離症状に悩まされているなら、発達障害とトラウマ障害の双方に詳しい医師の治療を受けることが望ましいかもしれません。

杉山登志郎先生による発達障害の薬物療法-ASD・ADHD・複雑性PTSDへの少量処方は、そのような人たちを対象とした治療について書かれています。

解離型ASDがこの社会では究極の少数派であるとしても、少数派であることは、必ずしもデメリットではなく、活かし方を理解すれば究極の才能にもなりうる、という点を覚えておくといいかもしれません。

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最後に、この記事で参考にした、解離型ASDに関する書籍を紹介して終わりたいと思います。解離型ASDの人にとっては、まず自分自身についてよく知ることが、不可思議な症状と、生きづらい多数派中心の社会に対処していく第一歩となるでしょう。

付録:解離型ASDについてもっとよく知るための本

■解離型ASDの専門家による本

■解離型ASDの女性の体験談(海外)

■解離型ASDの女性の体験談(国内)

自閉症は脳の過成長、ADHDは脳の成熟の遅れー脳画像研究による発達の違い

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閉症とADHDそれぞれの脳の発達の傾向に関する研究が報道されていました。

以前から言われていたことですが、自閉症は早期に生じる脳の過成長が、一方ADHDは脳の発達の遅れが関係しているようです。

Nature ハイライト:早期脳過成長から自閉症スペクトラム障害を予測できる | Nature | Nature Research

ADHD、脳の大きさにわずかな差 大規模研究で確認 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News 

自閉症で脳のサイズが大きくなるのは、「シナプスの刈り込み」という脳の機能の最適化が十分に行われないことが一因だと考えられています。これは変化に柔軟に適応していくことの苦手さと関係している可能性があります。

またADHDでサイズが小さいことが確認された部位には、PTSDなどトラウマへの脆弱性と関係している部位が含まれていて、ストレス耐性の低さないしは過敏さを示唆しているのかもしれません。

この記事では、それぞれのニュースをもとに、自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如多動症(ADHD)の脳の特徴について考察してみたいと思います。

自閉症は脳が早期に過剰に大きくなる

自閉症の脳については、かねてから脳の容量が大きく、過成長していることが指摘されていました。

2011年のニュースでは、米ユタ大学のジャネット・ラインハート(Janet E Lainhart)らが、不慮の事故などで死亡した自閉症の子どもの脳を調べたところ、同じ年齢の自閉症でない子どもの脳よりニューロン(神経細胞)が多く、脳がより重いことがわかったと報告されていました。

Increased neuron number and head size in autism. - PubMed - NCBI

自閉症児の脳は過度に発達、出生前に起因か 米研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

米国の研究者らは、2歳から16歳までの自閉症の少年7人の遺体の脳を調べた。死因は大半が溺死だが、8歳児1人は筋肉のがんで死亡し、16歳少年1人の死因は不明だ。

 事故で死亡した自閉症ではない少年6人(対照群)の脳と同じ年齢で比較してみると、自閉症の少年の脳は前頭前皮質にあるニューロンの数が対照群の脳より67%多く、脳の重さも各年代の平均より18%近く重かった。

そして、昨日Natureに載せられていた研究によると、ノースカロライナ大学チャペルヒル校のヘザー・コーディ・ハズレット(Heather Cody Hazlett)らは、ASDの遺伝的リスクが高い子ども102人と、そうでない子ども42人を対象に調べた結果、ASDのリスクが高い子どもの81%に、出生後6-12ヶ月の時点で、脳の皮質成長率の増大がすでに認められたそうです。

Early brain development in infants at high risk or autism spectrum disorder : Nature : Nature Research

Nature ハイライト:早期脳過成長から自閉症スペクトラム障害を予測できる | Nature | Nature Research

自閉スペクトラム症(ASD)を乳児期の脳スキャンで高い確率で予測することが可能に - GIGAZINE

今回、H Hazlettたちは、家族性ASDに高いリスクを持つ幼児を対象に神経画像化による長期的研究を行い、24か月齢時点でASDの診断を受けた高リスク児は、6~12か月齢の時点で皮質成長率の増大を示していたことが分かった。

この結果、生後1年目という早い段階の脳画像検査で、脳の過成長に注目することで、ASDの傾向を予測することができるのではないか、と言われています。

自閉症はシナプス刈り込みによる最適化が難しい

自閉症とADHDは、脳の発達傾向においては異なる特徴を有していますが、どちらの場合にも、脳の発達に関わる「シナプスの刈り込み(剪定)現象」という機能の異常があると考えられているようです。

小脳のシナプス刈り込みの仕組み解明 | 東京大学

生後間もない動物の脳には過剰な神経結合(シナプス)が存在するが、生後の発達過程において、必要な結合だけが強められ、不要な結合は除去されて、成熟した機能的な神経回路が完成する。

この過程は「シナプス刈り込み」と呼ばれており、生後発達期の神経回路に見られる普遍的な現象であると考えられている。

自閉症やADHD(注意欠陥多動性障害)などの発達障害において、発達期のシナプス刈り込みの異常が関係すると考えられている。

人間の脳は胎児期にニューロン(神経細胞)が作られ、2歳ごろまでにシナプス(ニューロンのつながり)が劇的に形成されていきます。

それから、不要なシナプスを刈り込んで、脳の機能を最適化していく「シナプスの刈り込み現象」が、生後1年目から思春期、ひいては若年成人のころまで続き、社会に適応する脳が作られていきます。

しかし、自閉症では、初期にニューロンが過剰に作られるとともに、この「シナプスの刈り込み」という最適化がうまく行われていないようです。

薬剤でシナプスの「刈り込み」回復、自閉症治療に可能性 米研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

だが自閉症ではない19歳の若者は、シナプスの数が幼児より約41%減少していたが、19歳の自閉症患者の脳内にはシナプスがはるかに多く残存しており、幼児の脳と比べて約16%程しか刈り込みされていなかった。

赤ちゃんの脳に最初にシナプスが大量につくられるのは、さまざまな環境に適応する可能性を作るためであり、その後の生活環境に応じて、必要なものを残し、不要なものを刈り取ることで、環境に適応した脳が作られます。

悲しいことに、この時期に虐待など不適切な養育にさらされると、過酷な世界に適応するための脳へと刈り込まれてしまう、ということも知られています。

だれも知らなかった「いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳」(2011年新版)
子どもの虐待は、近年注目を浴びるようになって来ました。しかし、虐待が脳という“器質”にいやされない傷を残すことを知っている人はどれだけいるでしょうか。友田明美先生の著書「いやされな

どんな環境で生きるにしても、シナプスの刈り込みが生じるおかげで、わたしたちは成長とともに、自分が生まれ育った環境に適応していけるわけですが、自閉症では、この刈り込みが十分に行われません。

そうすると、成長とともに、社会に適応した脳が作られないので、社会に馴染めず、独特の性質を持つ脳に発達していくのではないか、と思われます。

しばしば自閉スペクトラム症との類似点が指摘される統合失調症では、思春期のシナプスの刈り込みが逆に過剰になっていて、必要なシナプスまで刈り込んでしまうという異常がみられるようです。

プレスリリース詳細 | 国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター

統合失調症では、この記憶や感情に関わる24野と14r野のシナプスが思春期以降も減少し続けることが分かっています。

今回の研究から、通常では一定量に維持されている記憶や感情に関わるシナプス数の減少が統合失調症の発症に関与していることが想定されます。

つまり、一見似た症状があっても統合失調症とアスペルガー症候群は別のものであり、治療薬などの対処も異なっていることがうかがえます。

統合失調症の予後が一般的にあまりよくないと言われるのに対し、解離性障害や解離型の自閉スペクトラム症の場合は、一時的に幻聴などの症状が強く出るとしても、適切な対応によって回復していくことが可能だと言われているのは、こうした脳機能の違いが関係しているのかもしれません。

統合失調症と解離性障害の6つの違い―幻聴だけで誤診されがち
精神科医の中には「幻聴=統合失調症」と考えている人が多いと言われます。しかし実際には解離性障害やアスペルガー症候群が統合失調症と誤診されている例が多いといいます。この記事では解離の

なぜ脳が早期に過成長するのか

自閉症の脳で過成長が起こる原因については諸説ありますが、以前に読んだ失われてゆく、我々の内なる細菌では、ひとつの可能性として、慢性炎症との関わりが示唆されています。

寄生虫なき病によると、ウィスコンシン大学のクリス・コー(Christopher L. Coe)らのアカゲザルを用いた研究では、妊娠中の急性ウイルス感染が統合失調症のリスクを高めるのに対し、持続的な軽度の慢性炎症は、脳に絶えず刺激を与えて過成長を促し、自閉症のリスクを高めることが示されました。

コーは図らずも、クールシェンヌが自閉症児の脳で観察したのと(広い意味で)同じ特性を持った脳(育ちすぎた脳)を作り出していたのである。

育ちすぎを促進したのは急性の炎症ではなかった。それを引き起こしたのは、慢性的な軽度の炎症だった。

「逆説的だが」とコーは言う。「慢性的な軽度の炎症は、ほとんど刺激のように作用していた」。

ここから慢性的な軽度の炎症は自閉症のリスクを高め、急性の激しい炎症(感染症に伴って起きるような)は統合失調症のリスクを高める」という推測が浮かび上がってくる。(p332-333)

こうしたタイプの慢性炎症は、世界各地で、抗生物質の使用や衛生改革で急性感染症が減少したのと反比例するかのように増加しているようです。

腸内細菌(マイクロバイオーム)の研究者たちは、人間にとって有用な細菌の生態系をも破壊してしまった結果、現代人に免疫異常が蔓延したと考えています。

現代に増加しているアレルギー、自己免疫疾患、ひいては慢性炎症と関わる自閉症やメタボリック症候群、慢性疲労症候群などの脳の炎症を特色とする病気の増加は、すべて人体を取り巻く細菌の生態系バランスの崩壊とつながっているのではないかということです。

脳の慢性炎症の原因はひとつではなく複数でしょうが、その中の一因としてマイクロバイオームの問題が絡んでいる可能性は十分にありそうです。

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独自の個性や能力を伸ばしていく

自閉症の脳のシナプス刈り込みの弱さは、独特の脳機能の発達と深く関係しているようです。

発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ (ブルーバックス)にはこう書かれていました。

8ヶ月まで神経細胞同士の結合が大量に増加するのに対し、その後は不要な結合を減らし、より能率的な結びつきになるように、神経細胞の活動の頻度や細胞同士の連携の頻度の多さなどから状態を変化させていく。

結果、より遠くの神経細胞同士の連携も進み、トップダウンな思考(全体を見わたる能力)の獲得を可能にしていく。

…この刈り込みに問題があるとされるのが、自閉症児だ。自閉症児は刈り込みが少なく、多くのシナプスをもち続けるのではないかといわれている。

脳の構造を調べた研究によれば、2歳の時点で、自閉症児の脳の容量が大きいというデータもある。それは前頭葉や側頭葉に顕著だという。(p32)

先にも説明したように、脳の発達とともに神経細胞の接合部分であるシナプスの「刈り込み」が行われる。

未成熟で生まれた脳が、発達初期の学習によって休息に成長し、次のステップとして、この大量の結合の中から、不要な結合を刈り込むと同時に、遠くの神経細胞同士の結合を可能にする。

この結合が、意識を支えるトップダウン処理とかかわりがあるというのだ。(p79)

自閉症の人たちが、さまざまな感覚の未分化を経験し、一種の感覚過敏や共感覚を持っていることが多いのは、不要なシナプスが十分に刈り込まれなかったせいなのかもしれません。

また定型発達の人たちが大量の感覚を効率よくさばくトップダウン処理で思考するのに対し、自閉症の人たちは、大量の感覚をそのまま処理するボトムアップ処理で思考するのもまた、シナプスの刈り込みが不十分なことと関係しているようです。

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もっとも、定型発達の人たちが、社会に適応していくためには「不要」とみなして刈り込んでしまうシナプスが、自閉スペクトラム症の人には残っているということは、ユニークな個性にもつながります。よき理解者に恵まれた場合は、能力や才能として伸ばしていくことができるかもしれません。

トップダウン処理は、全体のおおまかな情報を効率よく抽出するのは得意ですが、細部にわたる正確さはボトムアップ処理のほうが勝るのです。

こうした自閉症の脳の機能に関する傾向からわかるのは、自閉スペクトラム症の人たちは、シナプスの刈り込みによる最適化が弱いために、新しい環境に適応していくのが難しいということです。

自閉スペクトラム症の子ども、大人は、変化の少ない繰り返し作業や慣れ親しんだルーチンワークを好みます。

周りの人たちは、自閉スペクトラム症の人が、通常よりも環境の変化に適応しにくい脳の傾向を持っているということを理解して、無理な変化を強制したりせず、その人の得意なことを伸ばしていけるよう支えるのがよいということでしょう。

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ADHDは脳がわずかに小さく、成熟が遅れている

一方で、別のニュースでは、ADHDの子ども・大人を対象にした、大規模な脳画像研究が報道されていました。

オランダ・ラドバウド大学のマーティン・ホーグマン(Martine Hoogman)らの研究では、4歳から63歳までのADHDと診断された1713人と、そうでない1529人の脳をスキャンしたところ、ADHDの人のほうがわずかに脳が小さいことがわかりました。

Subcortical brain volume differences in participants with attention deficit hyperactivity disorder in children and adults: a cross-sectional mega-analysis - The Lancet Psychiatry

ADHD、脳の大きさにわずかな差 大規模研究で確認 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News 

ADHDは脳障害で患者の幼少期の脳体積は健常者よりも小さくなることが判明 - GIGAZINE

 今回の研究では、4歳から63歳までの被験者らにMRIスキャンを受けてもらい、その結果を分析。脳スキャンの画像から、脳全体の体積とともに障害に関連すると考えられている7つの領域の大きさが測定された。

その結果、ADHDと診断された人の脳では、全体の体積および5つの領域がより小さいことが確認された。

 研究結果についてHoogman氏は「その差は極めて小さく、数%の範囲内だった。これらの差を見極めるうえで、研究が前例のない規模であったことが大いに役立った」と述べている。

脳の小ささが確認された5つの領域は、側坐核、扁桃体、尾状核、海馬、被殻で、頭蓋内全体の容積も少ないことがわかりました。一方で、淡蒼球、視床の大きさには違いがありませんでした。

また、ADHDの薬の服用は、脳の大きさには関連性が見られず、併存する精神障害もありませんでした。つまり薬は良くも悪くも脳の構造を変えたりせず、対処療法にすぎないということなのでしょう。

ADHDの脳の成長の遅れはやがて追いつく

この研究は、幅広い年齢層を対象にしていますが、参加者の年齢の中央値は14歳で、子どものADHDが大部分を占めていることがわかります。

子どもと大人の脳を年齢別に比較すると、脳の成熟の遅れ( a delay of maturation and a delay of degeneration)が示唆されているとも書かれていました。

同様の点は、2007年11月、アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)の小児精神部門フィリップ・ショー(Philip Shaw)らの446人の参加者(うちADHD223人)を対象にした研究でも報告されていました。

NIMH » Brain Matures a Few Years Late in ADHD, But Follows Normal Pattern

この研究では、ADHDの子どもは脳の成熟が同年代の子どもと比較すると遅れていて、特に行動のコントロールに関わる前頭前皮質には最大5年の遅れが見られたそうです。

しかしADHDの若者に見られるこうした脳の成熟の遅れは、多くの場合、成長していく中で最終的には追いつくともされています。

これは、自閉症のような通常の年齢より早く脳の体積がピークを迎えるパターンとは対照的だとも解説されていました。

They also noted that the delayed pattern of maturation observed in ADHD is the opposite of that seen in other developmental brain disorders like autism, in which the volume of brain structures peak at a much earlier-than-normal age.

彼らはまたADHDで観察された成熟の遅延パターンは、自閉症のような他の脳の発達障害に見られる、脳構造の容量が通常の年齢よりずっと早くピークを迎えるパターンとは対照的だと指摘している。

ADHDの人たちは、脳の成長が遅れるために、同年齢の子どもに比べて、子どもっぽいとか、社会的に未熟だと思われやすいかもしれません。

しかし、研究でも示されているように、若年者で脳の発達の遅れが目立っていても、脳は20代後半まで緩やかに成長していくので、次第に発達が追いついていくと言われています。

大人になると、多動性や衝動性といった子どもっぽさが和らぎ、落ち着きのなさが改善していくADHDの人が多いのは、次第に行動のコントロールに関わる前頭前皮質の発達がキャッチアップするからなのでしょう。

それでも、ADHDの人は、どこかしら成長の遅れの名残りが残っていて、子ども心を残したまま大人になったような雰囲気が見られやすいようにも思います。

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ストレスに過敏に影響されやすい

ところで、ADHDの大規模研究についてのニュースでは、「ADHDは身体的な疾患であり、単なる行動の問題ではない」ということが強調されています。

ホーグマンは研究結果についてこう述べていました。

「研究を通じて構造の違いが確認され、ADHDが脳の疾患であることが示された」

「この研究結果が、ADHDを『単なる難しい子ども』や『親の教育の問題』とするレッテル貼りをなくす一助になることを願う」

ADHDの子どもを持つ親は、ときに「しつけがなっていない」とか「子どもを甘やかしている」と非難されますが、それは不当なもので、子どもの遺伝的な脳の性質の影響が大きいことは確かです。

ADHD:母6割、確定診断で「原因分かり、ほっとした」 - 毎日新聞

ADHDの当事者であり、支援活動に取り組むNPO法人「えじそんくらぶ」(埼玉県)の高山恵子代表は

「育て方が原因ではないと分かることで、虐待防止につながる。

不登校や自尊感情の低下といった2次障害を防ぐには、投薬治療だけではないトータルな支援が必要だ」と話した。

とはいえ、気にかかるのは、今回の研究結果で、ADHDの子どもの脳の小ささが見出された部位が側坐核、扁桃体、尾状核、海馬、被殻の5つだということです。

側坐核被殻は、報酬系と関係している部分で、やる気や意欲に関係する部分です。

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尾状核は学習や記憶と関係していますが、脳のモードを切り替えるスイッチのような役割を果たしていて、たとえばバイリンガルの人が言語のフレームを切り替えるときに尾状核が働いているのがわかっています。

脳は奇跡を起こすによると、強迫性障害の人が強迫行為から抜け出せないのは、このスイッチが切り替わらない脳ロック状態になっているからではないかとも言われています。(p200)

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岡野憲一郎先生の 続解離性障害によると、もしかすると、尾状核は、解離性同一性障害やPTSDにおけるフラッシュバック(一種の制御不能な人格切り替え)にも関係しているのかもしれません。(p144)

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意欲の低下や慢性的な疲労感を特色とする小児慢性疲労症候群(CCFS)でも、尾状核や被殻などの報酬系に関わる領域がうまく働いていないことが報告されています。

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こうした側坐核、尾状核、被殻などは大脳基底核と呼ばれる領域の一部ですが、この部分はドーパミンによる時間感覚の制御と関係している可能性があります。

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ADHDの人は時間感覚が歪んでいる、ということが実験で証明されているそうです。「脳の中の時間旅行 : なぜ時間はワープするのか」という本から、なぜADHDの時間感覚は歪んでいるのか

また、扁桃体は、危険を察知するアラームのような機能を果たしていて、海馬は記憶などの学習に関係しています。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、扁桃体や海馬が小さいことは、PTSDをはじめ、しばしばADHDの人がなりやすいとされる境界性パーソナリティ障害でも確認されています。(p57-62)

ストレスホルモンのコルチゾールによって海馬が萎縮することはよく知られていますが、逆に海馬や扁桃体の領域が小さいことが、トラウマ経験の際にPTSDを抱えやすいリスクになるのではないかとも言われています。

Smaller hippocampal volume predicts pathologic vulnerability to psychological trauma. - PubMed - NCBI

Amygdala volume changes with posttraumatic stress disorder in a large case-controlled veteran group

睡眠不足の子どもでは海馬サイズが小さいことがわかっており、もしかすると、ADHDの子どもでは、乳幼児期から睡眠障害を抱えやすいことが、海馬を含む脳の発達の遅れにつながっているのかもしれません。

寝る子は脳もよく育つ 東北大チームが解明 :日本経済新聞(例外的に収録)

研究チームは2008年からの4年間で、健康な5~18歳の290人の平日の睡眠時間と、それぞれの海馬の体積を調べた。その結果、睡眠が10時間以上の子どもは6時間の子どもより、海馬の体積が1割程度大きいことが判明したという。

ADHDの脳の小ささが確認される部位は「その差は極めて小さく、数%の範囲内」だとされているので、環境に恵まれた場合、それほど大きな問題を生じないまま、成長とともに症状が和らいでいくADHDの子どもも多いのでしょう。

しかし、扁桃体や海馬が小さめであることから、普通の子どもよりストレスに敏感で、影響を受けやすい可能性がありそうです。報酬系が弱いことから、学業に集中しにくい傾向もあるでしょう。

そのため、学校生活で問題を抱えた場合に、普通の子どもよりも、概日リズム睡眠障害や慢性疲労症候群などによる不登校に陥ったり、機能不全家庭や犯罪被害にさらされた場合には、PTSDなどに発展したりするリスクがいくらか高いのかもしれません。

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愛着障害を研究している友田先生は、通常 ADHDの子どもは大人になるにつれて脳の発達が追いつくものの、それを妨げる要因としてトラウマなどの環境要素が足を引っ張ることがあるとも指摘していました。

つまり、大人になっても非常に強いADHD症状が残っている人の場合、生来の遺伝以外の、何かしらの環境要因の影響を考慮に入れる必要がありそうです。

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なお、ASDとADHDは、脳の発達においては、それぞれ異なる特徴を持っているとはいえ、厳密な意味で対称関係にあるわけではないことには注意が必要です。

寄生虫なき病に載せられているクールシェンヌの研究によれば、ASDは早期に脳が過成長して早くピークが訪れる反面、その後成長が鈍くなり、ウサギとカメでいえば、ウサギのような傾向を見せ、発達が追い抜かれるとも言われていました。

マラソンにたとえるなら、自閉症児の脳は最初は飛ばしていたが、途中で倒れてしまったということになる。(p320)

現に、ASDとADHDが合併する例があることは、両者が対称関係にあるわけではないことをはっきり示しています。つまり、早期に脳の過成長が生じることと、その後何かしらの要因で脳の発達が遅れることとは、重なり合う可能性があります。

ASD症状とADHD症状を両方持っている人の中には、遺伝的な傾向として、純粋な意味でASDとADHDを合併している人ももちろんいるのでしょう。

しかし、中には、ASDまたはADHDの片方と不安定型愛着を合併した結果、あるいは生まれつきの発達障害がないにもかかわらず、劣悪な環境要因によって発達が妨げられた結果として、両方の特徴を持っているように見える場合があることにも留意しておくべきです。

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ちなみに、ADHDで特に異常がみられなかったとされていた淡蒼球は、統合失調症で大きいことがわかっています。

阪大など、統合失調症患者の脳で左右の体積がアンバランスな部位を発見 | マイナビニュース

淡蒼球は大脳皮質下領域にある大脳基底核の1つで、運動機能や、動機付け、意欲、欲求が満たされる感覚に関与するとされる。

統合失調症患者では健常者に比べて体積が大きいことが知られていた。

やはりADHDや自閉症などの発達障害と統合失調症は、ひとまずのところ区別して考えたほうがよさそうです。

一人ひとり脳の構造が違う

これらの研究からはっきりわかるのは、自閉スペクトラム症、ADHDいずれにしても、環境への適応が難しかったり、ストレスに過敏に反応したりしてしまうのは、本人の心の弱さや気にしすぎのようなものではなく、れっきとした脳の構造の違いによるものだ、ということです。

そして、脳の発達や構造が違う、ということは、定型的な発達をした人に比べて、うまくできない短所がある一方で、非定型な発達をしたからこその長所があることも物語っています。

それぞれの脳の傾向が違うことを認めた上で、その人の良い特徴が出るような環境を整えていくことが、発達障害を「障害」ではなく「個性」へと変えていく第一歩だと感じます。

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ADHDの「片付けられない」とアスペルガーの「捨てられない」の違い―脳の発達は視覚によって導かれる

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溜め込み障害は強迫関連障害に属し、DSM-5で新たに登場した項目である。

これは子どもにないではないが、一般的には成人の問題である。それをあえてなぜ取り上げるのかというと、われわれ児童精神科医が遭遇することが稀ではないからである。

…われわれの経験では圧倒的にAD/HD(片付けられない)よりASD(捨てられない)のほうが目立つのであるが。(p55-56)

れは、臨床家のためのDSM-5 虎の巻という本で、児童精神科医の杉山登志郎が書いておられる「溜め込み障害」(Hoarding Disorder)についての一文です。

発達障害かどうかにかかわらず、部屋が散らかって片付けられないことに悩んでいる人は多いでしょう。本人よりも家族が頭を抱えることが多いかもしれません。

片付けられないことそれ自体は、病気や障害というほどではありませんが、ときどきメディアで報道されるゴミ屋敷のような、明らかに健康に支障を来たし、近隣の迷惑にもなるような状態は、医療の対象になるれっきとした病気です。

冒頭の説明が示すとおり、部屋が散らかるといっても、その原因には大きく分けて、どうやら2通りのタイプがあるようです。

きれい好きな人から見れば、概して同じに思えるかもしれませんが、かたやADHD(注意欠如多動症)に多い「片付けられない」と、かたやアスペルガー(自閉スペクトラム症:ASD)に多い「捨てられない」は、じつは別物なのです。

このエントリでは、「片付けられない」と「捨てられない」はどう違うのか。なぜそうなってしまうのか、という点を考えましょう。

そして、さらに視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)などの本を参考に、両眼視機能視覚性ワーキングメモリといった見る力が、発達障害のさまざまな個性が形作られていく上で、意外なほど大きな役割を果たしているということを分析してみたいと思います。

これはどんな本?

今回の記事では、脳の発達と視覚に関する様々な本を参考にしていますが、その中でも特に拠り所としたのは、視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)という一冊です。

この本は斜視のために立体視ができなかった神経生物学者スーザン・バリーが、自分に立体視の能力が欠けていることに気づき、50代になってからの視能療法を通して、生まれてはじめて立体視を経験するまでの道のりをつづった自伝的な物語です。

斜視のせいで臨界期までに立体視を獲得できなかった人は、大人になってから立体視を獲得するのは不可能である、という通説に反して、少しでも両眼性ニューロンが存在していれば、脳の可塑性を引き出すことで立体視を獲得できる、ということが数々の論拠や実体験によって論証されています。

彼女の感動的な体験談は、脳神経科医オリヴァー・サックスの心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界や、精神科医ノーマン・ドイジの脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線、さらには国内の両眼視の専門家藤田一郎の脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ (DOJIN選書)の中でも紹介されていて、脳と視覚のつながりを知りたい人にとっては必読の本となっています。

「片付けられない」と「捨てられない」

「散らかってるから片付けなさい!」

片付けるのが苦手な人たちは、子どものときから、親や先生にさんざんそう言われて育ってきたことでしょう。

近年、その原因として、よく聞かれるようになったのは、もちろん発達障害です。発達障害のうち、特によく知られているのはADHDとアスペルガーですが、それらは両方とも、物があふれて雑然とする問題を抱えることがあります。

まず、ADHD(注意欠如多動症)という発達障害が知られるようになったきっかけには、サリ・ソルデンの片づけられない女たちという本の存在がありました。

マスメディアで汚部屋やゴミ屋敷の問題が知られるようになるとともに、片付けられない=ADHDという認識は、強く印象づけられたのではないかと思います。

一方で、アスペルガー症候群(自閉スペクトラム症:ASD)は、ひたすらマニアックに特定の分野のものを集めるオタクと呼ばれる人たちの代名詞として知られるようになりました。

普通の人は興味を持たず捨ててしまうような こまごまとしたものまで、山のように収集しているといったイメージです。

もちろん、こうしたステレオタイプが、ADHDやASDの人すべてに当てはまるわけではありませんが、どちらも一般の人たち(定型発達者)から見て、散らかった部屋に住んでいるように思われやすいのは確かでしょう。

ADHDやASDは、同じ「発達障害」、同じ「片付けられない」として一緒くたにされがちですが、冒頭で杉山登志郎先生が述べていたように、散らかる原因は別のものです。

ADHDの人の部屋が散らかってしまうのは「片付けられない」ためであり、持ち前の新しい物好きや衝動性によって買い込んでしまった大量の物を管理できなくなって、どこからどう手を付けたら片付けられるのかわからず、途方に暮れてしまいます。

一念発起して片付けようとしても、段取り力がなく、押入れを掘り返しただけで余計に散らかってしまったり、集中力が続かずに、いつのまにか別のことをしていたりして、お手上げ状態になってしまいます。

よくわかる「大人のADHD」の10の特徴・チェックポイント
集中できないときと没頭しすぎるときの落差が激しい、計画を立てられない、いつも先延ばしににして期限に間に合わない…。この記事では大人のADHDの10の特徴をチェックポイントとしてまと

他方、ASDの人の場合、「片付けられない」と言われるのは心外かもしれません。集めに集めたコレクションの良さがわからない人からすれば散らかっているように見えるのかもしれませんが、本人からすれば、それぞれがあるべきところへ収まっていて片付いてはいるのです。

どちらかというと、きちんと整理整頓して片付けることについては、ASDの人たちは杓子定規なほど厳格で、だれかが勝手に持ち物の位置を動かしたり、秩序を乱したりするのに我慢ならないこともあります。

ASDの人たちの場合、問題はものを捨てられず際限なくマニアックに溜め込んでしまうこと、つまり、こだわりが強すぎて「捨てられない」ことにあるのであって、決して「片付けられない」わけではないのです。

大人の発達障害「自閉スペクトラム症/アスペルガー症候群」の5つの特徴と役立つリンク集
最近、大人の発達障害を疑って医療機関を受診する人が増えているといいます。その多くは、子どものときから困難を抱えながらも、なんとか学生生活には適応してきました。しかし社会人になると、

ADHDやASDの人たちは、理由は違うとはいえ、どちらも部屋が散らかりやすいのは同じです。しかし、発達障害の傾向のある人が、いつも散らかった部屋に住んでいると考えるのは大きな間違いです。

杉山登志郎先生は別の著書、発達障害のいま (講談社現代新書)の中で、大人の発達障害の特徴について、こう説明しています。

このグループにおける周囲に迷惑なパターンとは、逆に代償的に極度の整理魔が誕生したときである。

継続的に自分がものを散らかすことが分かっている。それを克服しようとして、不要なものが少しでもあると混乱してしまう。

すると少しでも散らかった状況が自分の能力の欠陥のように感じられてしまい、強迫的な片づけを繰り返すようになる。(p227-228)

発達障害の人の中には、代償的に人並み以上に片付けに勤しむようになる人もいます。

大人の発達障害を見分ける10のチェックポイント―キーワードは「代償」と「誤学習」
大人の発達障害の特徴は子どもの場合とは異なり「代償」と「誤学習」が関係しています。見分けるのに役立つ10のポイントを杉山登志郎の書籍「発達障害のいま」を参考にリストアップしてみまし

昔から一病息災などと言われますが、何か欠点があったほうが、人より余計に弱点に気を遣い、カバーしようと努力するものです。

いえ、欠点をカバーするくらいならともかく、子どものころからADHDやASDの傾向があり、さんざん「ちゃんと片付けなさい!」と怒鳴られてきたことで、逆の極端まで突っ走ってしまう人もいます。

「片付けられない」ADHDの人の中には、物が増えると管理できないことがわかっているので、物を持たない暮らしをしよう、ということで、シンプルライフやミニマリズムに凝って、極限まで持ち物を減らしてしまう人がいるかもしれません。

もともと、ADHDの人は騎馬民族や遊牧民族の血を引いていると言われますが、持ち物が少ない生活は遺伝子に刻まれたライフスタイルにもよく合っているのでしょうか。

持たない暮らしがあまりに快適なので、中にはそのままバックパッカーとして海外を放浪しはじめるワイルドな人たちもいます。

「捨てられない」ASDの人もやはり、極端なまでに質素な生活をするようになる人がいます。持ち物だけでなく衣食住を含めた生き方全体で、一種の精神修養として断捨離を追い求める人もいます。

片付け術で有名な人たちの中にも、もともと自分があまりに整理整頓ができないことに悩んだ結果、ある種の悟りの境地に達して、片付けの極意を習得して有名になった人がそこそこいるような気がします。

いずれにしても、発達障害の人たちは、どうやら、部屋が散らかりすぎるか、かえって整理しすぎる両極端な傾向があるようです。

しかし、なぜADHDの人は「片付けられない」問題に悩みやすく、ASDの人たちは「捨てられない」問題に悩みやすいのでしょうか。

両眼視機能で部屋の見え方が変わる

そもそも、「片付けられない」「捨てられない」といった性質が、発達障害者だけの問題かというと、わたしはそうではないように思えます。

最初に見たとおり、「片付けられない」「捨てられない」というのは、程度の差こそあれ、わたしたちのだれもが抱えうる、もっと身近な問題です。

単純に、ADHDだから「片付けられない」、ASDだから「捨てられない」とみなしてしまうと、本当の問題を発達障害という言葉にすり替えているだけで、なぜそうなってしまうのか、理由があやふやになってしまいます。

では、何が原因で、整理整頓が苦手になったり得意になったりするのか。

さまざまな理由が考えられますが、そのひとつは、意外にも、両眼視機能という目の機能にありそうです。

両眼視機能というのは、二つの目を協調して動かす能力のことですが、それは特に、両眼立体視、つまり、物を立体的に見る能力、3Dの奥行きを把握する能力に現れます。

わたしたちに目が二つあるのは、わずかに位置の違う2つの眼球に映る像の視差を利用して、物の立体感や距離感をとらえるためです。しかし、この両眼立体視能力は、人によって程度の差があります。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)によると、この立体感を認識する能力の強弱が、部屋の散らかり具合に大きな影響をもたらす可能性があります。こんな例が載せられていました。

先日、わたしは、車の事故で片目の視力を失った女性に会って体験談を聞いた。

彼女はいま、家のなかと机まわりがきちんと整理されて、ひとつひとつの物があるべき場所にないといやなのだと言う。

ある精神分析医から、極度のきれい好きは強迫症の一歩手前だと言われたそうだが、その心理学者は片目だけで物を見ることがどういうものか体験してはいない。

わたしは、この女性が極度のきれい好きになったのは、視力を失ったことへのひとつの順応ではないかと思う。(p120)

この女性の場合、事故で片目の視力を失った、つまり両眼立体視の能力を失ったことで、極度のきれい好きになりました。立体視が失われたことで、部屋の散らかり具合をより強く意識するようになったのです。

なぜ立体視がなくなると散らかり具合が気になるのか、例をひとつ考えてみましょう。

たとえば高層ビルが立ち並ぶ街を想像してみてください。その街を遠くから写した写真を見ると、ゴミゴミした都会で、ビルがひしめき合って、とても窮屈に感じられるかもしれません。

しかし、実際にその街の中を歩いて、空間の中に身を置いてみると、建物と建物のあいだにはスペース、つまり空間があるので、物が多いにしても、それなりにゆとりがあることを実感できます。

写真、つまり奥行きのない二次元の視覚情報では、空間を表現できないので、すべてがべったりと重なり合っているように見えてしまいます。一方、三次元の視覚情報では物と物の隙間が認識できるので、窮屈さが和らぎます。

この本の著者スーザン・バリーは生後幼いころから斜視のせいで、両眼立体視ができませんでした。その結果、彼女は、散らかっているのが気になって仕方なかったと述べています。

わたしは自分の視覚の使いかたを意識しだしてから、人々を、“近くを見る人”と“遠くを見る人”に分けるようになった。

いまはかなり安定した視覚を持っているとはいえ、わたしはまだ近くを見る人だ。すぐ目の前の空間については認識力がきわめて高く、そこを秩序正しく整えようとする。

他方、正常な両眼立体視の能力を持つ夫のダンは、散らかっているのが気にならないようでした。

夫のダンは正常な視覚の持ち主だが、やはり遠くを見る人だ。…ダンは家のなかがおそろしく散らかっていても平気でいられる。

わたしは最初のうち、妻がきれい好きなのを知っているくせに散らかすなんて、と腹をたてていた。

ずいぶん経ってからようやく、雑然とした状態が目に入らないだけなのだと気がついた。

もちろん、散らかっているのは見える。ダンの視力はすばらしくいい。だが、注意を払うのははるか遠くの対象だけなのだ。(p120)

斜視のせいで正常な立体視能力を持たなかったスーザンは、二次元的な視覚情報に頼っていたので、先程の事故で片目の視力を失った女性と同じように、物の視覚的な重なりが気になって、ごちゃごちゃしているように感じられました。

しかし正常な立体視能力を持っている夫のダンは、奥行きを認識できるおかげで、物と物との間にある空間を把握できていたので、物がたくさんあっても、あまり散らかっているとは感じませんでした。

では、この例からすると、正常な両眼視機能があるとダンのように物が散らかってしまい、斜視などで両眼視機能が欠けているとスーザンのようにきれい好きになるのでしょうか。

「空間」を認識できないとどうなるか

物事はそう単純ではありません。

冒頭に出てきた杉山登志郎先生や室内装飾家の岡南先生らによるギフテッド 天才の育て方 (ヒューマンケアブックス)では、やはり、両眼立体視と部屋が散らかることには関係があるとされていますが、その説明は、まったくの正反対です。

聴覚言語優位性に偏った子どもの場合、奥行き感のない見え方をしていることがある。

…自分の部屋が散らかったままでも、全体の関係性が見えていないために、子ども自身はそれを「散らかった」とは感じていないこともある。

家族が「散らかっているから、片づけなさいと言っても、らちがあかないのである。(p84)

この説明では、立体視能力が弱い子ども、つまり、物の奥行きが見えにくい人は、部屋が散らかっているのがわからない、と書かれています。

先程の本では、スーザン・バリーの経験や事故で片目の視力を失った女性の例から、両眼立体視が欠けていると部屋の散らかり具合が気になりすぎると書かれていました。しかしこちらの説明では、両眼立体視の弱い子どもは、散らかり具合がわからなくなりました。

一見するとこの二つの説明は正反対でまったく矛盾しています。立体視が難しい人は、部屋は散らかるのか、それとも片付くのか、いったいどちらなのでしょう。

この見かけ上の矛盾は、両眼立体視ができなければ何が失われるのか、という観点を見落としているために生じるようです。

さっきのビルが立ち並ぶ街のたとえで、写真で二次元的に見た街と、現地に行って三次元的に見た街との違いは何だったでしょうか。

それは「空間」を認識できるかどうかでした。つまり、立体視の有無は、片付けられる、片付けられない以前に、空間を感じられるか感じられないか、ということに結びついています。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)を書いたスーザン・バリーは、 生後3ヶ月で斜視の兆候が現れ、立体視の能力を発達させられませんでした。

しかし、50代になってから検眼医(オプトメトリスト)による視能療法を受けて立体視能力を獲得することができました。そのときに感じた変化についてこう書いています。

視覚が変化しはじめてすぐ、わたしは日課のジョギングに出かけた。そして、近所の茂みの葉っぱに注意を引かれた。

葉っぱの一枚一枚が固有の空間を占め、自分のものにしている。二枚の葉っぱが同じ空間を占めることはない。

というか、ふたつの物体が同時に同じ空間に存在することはありえないのだ。(p138)

彼女にとって、立体視を獲得する以前は、「空間」という概念がよくわかりませんでした。頭では空間という概念を知ってはいましたが、実感として感じることはできませんでした。

立体視力のある人と立体視力のない人の違いは、身の回りのものすべてを、三次元的に認識しているか、それとも二次元的に認識しているかの違いです。

この点においては、ギフテッド 天才の育て方 (ヒューマンケアブックス)の説明も一致していて、立体視が正常でない人が、身の回りのものを認識する方法について、こう書かれています。

物の「奥行き」が見えていないとするなら、空間そのもののボリューム感が異なるということにほかならない。

物が多くひしめき合っている空間でも、奥行きのない見かけだけを意識するなら、狭さを感じないということが生じる。と同時に、自分に向いた面しか見えていないということにもなる。

奥行きが認知できなければ、体が触れて落としたり、倒したりすることにもなるが、本人にはそうした感覚が事前にもてないのである。(p76)

立体視のない人は「奥行きのない見かけだけを意識」していて、「空間そのもののボリューム感が異なる」とされています。

正常な立体視のある人は、部屋の中を見回すとき、奥行きのある正確な位置関係を認識することができます。見かけより散らかっていると感じるわけでも、見かけより片付いていると感じるわけでもなく、ありのままの空間的位置を読み取れます。

一方、両眼立体視の能力が欠けていたり、普通より弱かったりする人は、部屋の中を見回すとき、「奥行きのない見かけだけ」しかわからないので、物と物の正確な位置関係を認識することができず、どれくらい散らかっているかは推量で判断することになります。

正確な数字がわからない場合、多めに見積もってしまうこともあれば、少なめに見積もってしまうこともありますが、散らかり具合についても同じです。

「空間」としての物の配置を認識できず、写真のような二次元的な視覚に頼って判断していると、散らかり具合の感覚が、実際より多めにずれることもあれば、少なめにずれることもあるのでしょう。

そうすると、散らかり具合に対する感覚が鈍麻して、散らかっていることに気づかないようになる人もいれば、反対に感覚が過敏になって、散らかっていることに過度に敏感になってしまう人もいると考えられます。両極端になりやすいのです。

木を見て森を見ずなASD

部屋が散らかりすぎるか、あるいは片付きすぎるか、というこの両極端は、さっきの何かと似ているのではないでしょうか。

そうです。ADHDやASDの人たちの、整理整頓に対する両極端な反応です。

脳がつくる3D世界:立体視のなぞとしくみ (DOJIN選書)によれば、1970年代の米国の調査で、両眼立体視ができない人は2~4%、問題を抱える人はその倍とされています。筆者の体感では1割近くが立体視の難しさを抱えているのでは? とも書かれています。(p105)

発達障害の子どもの視知覚認識問題への対処法によると、発達障害や学習障害の人では、両眼視機能の能力が弱さが見られることが多い、ということがわかっています。

視覚の問題は注意欠陥多動性障害(AD/HD)、ディスレクシア(読み書き困難)や非言語性学習障害といった学習障害(LD)にもよく見られます。

読み書きをする時に文字を裏返す、右と左の区別がつきにくい、位置関係の認識や視覚記憶の弱さといった典型的な問題は、視覚を効果的に使えていないために起こります。

特に両眼視がうまくできず、近くのものに視点が合わない子どもが多いのです。(p10)

発達障害で見られやすい両眼視機能の異常のなかには、はっきりと外見からわかる斜視だけでなく、ときどき症状が表れる間欠性斜視や、はた目には斜視だとわからず、本人すら気づいていない斜位(隠れ斜視)なども含まれます。

ADHDでもASDでも、両眼視機能の弱さからくる空間把握能力の低さが、発達性協調運動障害(DCD)と呼ばれる運動能力の不器用さとして現れることがあります。

両眼視機能は、通常の学校での視力検査(単眼視力の検査)ではまったくわからないので、発達障害の人たちは、自分が立体視力の問題を抱えていることに気づいていないことが少なくありません。

その結果、整理整頓ができないのは、根気や集中力が足りないとか、こだわりが強いせいだとか考えて、発達障害のせいにしがちです。しかし、実は、両眼視機能の弱さからくる空間認識能力の低さがおおもとにあるのかもしれません。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)によると、スーザン・バリーは、立体視能力がある人と、立体視能力がない人は、まったく違う方法で、身の回りの世界を認識していると説明しています。

立体的な奥行きをもった世界をわたしが想像できなかったのと同じで、正常な立体視力がある人は、つねに立体視がない人の世界観を体験することはできない。

こう話すと、あなたは驚くかもしれない。ただ片目を閉じるだけで、立体視がもたらす手がかりを消すことができるのだから。

ところが、実のところ、多くの人は片目で見た世界と両目で見た世界に大きなちがいを感じない。

正常な両眼視力のある人が片目を閉じても、生まれたときから培ってきた視覚体験が、欠けた立体視の情報を再現してしまうのだ。(p146)

立体視力がない人の物の見方、というのは、健康な立体視力がある人が、片目をつぶれば体験できる世界ではないのです。

立体視のない人は、健常な人から立体視力を差し引いた人ではなく、ずっと二次元的な視覚の世界に慣れ親しみ、正常な立体視のある人とはまったく別の仕方で適応している人たちです。

驚くべきことに、スーザン・バリーは、立体視のある世界に生まれ育ったか、立体視のない世界で生まれ育ったかは、思考パターンの違いにさえ現れると述べています。

何よりも驚きだったのは、視覚の変化が考えかたにまで影響をもたらしたことだ。

いままではずっと、段階を追うようにして物を見て考えていた。片方の目で見て、次にもう片方の目で見るというやり方だ。

人がたくさんいる部屋に入ったときは、ひとりずつ顔を見ていく方法で友人を探した。どうやれば、部屋全体とそこにいる人間をひと目で頭に取り込めるのか、さっぱりわからなかった。

大学で講義を行なうときはいつも、AがBをもたらしひいてはCをもたらしというふうに説明していた。

子どもたちの成長を観察するまでは、細部を見ることと全体を把握することはべつべつの過程だと思いこんでいた。

というのも、自分は細部を見きわめたあとでそれらを足しあわせて、ようやく全体像を作り上げることができたのだ。ことわざにあるとおり、木を見て森を見ずの状態だった。

…息子と娘は幼いころから、細部と全体像を同時に把握することができた。わたしがそのやりかたをようやく理解したのは、中年になって、ふたつの目で同時に見るやりかたを学んだときだ。

これができてはじめて、森全体とそこにある木々を同時に意識できるようになったのだ。(p182-183)

立体視がうまく機能せず、空間という概念を実感できないままに育ったスーザン・バリーは、「細部を見ることと全体を把握することはべつべつの過程だと思いこんで」いました。正常な眼球運動が難しく、遠くへ近くへ自在に焦点を変えることが難しかったからです。

一方、正常な両眼視機能を持っていた子どもたちは、「細部と全体像を同時に把握する」ことができました。

先に見たとおり、「空間」という概念がはっきりしていないと、物の見かけ上の位置しかわからないため、散らかり具合に対する感覚が麻痺したり、逆に過敏になったりします。

それは、周囲をバランスよく把握できず、細部に注意が向きすぎる(木を見て森を見ず)か、全体に気を取られすぎる(森を見て木を見ず)か、という偏りと言い換えることができます。

両眼視機能が十分でないために、全体が見えず細部に注目してしまう人たちは、ちょっとした物の重なりや汚れが気になって、実際より余計に散らかっているように見えていまい、きれい好きになりすぎるでしょう。

興味深いことに、以前の記事で紹介したように、近年の研究では、ASDの人たちは、赤ちゃんのころから、細部が見えすぎる視力を持っていることがわかっています。

顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 - 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)にはこう書かれていました。

そこで自閉症がある程度遺伝するという前提のもと、その妹・弟を対象にした赤ちゃんの研究が行われるようになった。

その中でわかったことは、この子たちの生後6ヶ月時点の視力が通常よりもよいことだった。

ちなみにこうした「グレーゾーン」と呼ばれる子がほんとうに自閉症になるのは3割強程度であることから、その他はこの特徴を持つものの自閉症にならない子たちであるということだ。

つまり、自閉症特有の見方は、逆説的にも見えるが、通常よりも視力がよいことにありそうだ。これが顔全体よりも細部に注目しがちな見方を生み出し、顔認知を疎外している可能性がある。(p149)

自閉症の人たちは、幼い時期は、他の子よりも視力が鋭い傾向があります。これはおそらく、自閉症の特徴である、早期に見られる脳の過成長と関係しているのでしょう。

自閉症は脳の過成長、ADHDは脳の成熟の遅れー脳画像研究による発達の違い
自閉症やADHDの脳の発達の特徴を調べた脳画像研究のニュースについてまとめました。

本来なら、視覚の発達は、全体をおぼろげに認知するようになってから徐々に細部が見えてくるという段階を経て進むものです。

しかしASDの赤ちゃんは、早期の脳の過成長のために、おぼろげに全体を見るという過程をすっとばして細部が見えるようになってしまうため、全体を見る力が養われないのかもしれません。

この本では、自閉症の子どもは乳幼児期から細部が見えすぎるせいで、人の顔のうち、特に白黒のコントラストの強い部分、つまり「目」がはっきりと見えすぎるため、過剰なコントラストから目をそらすようになり、視線が合わなくなるのではないか、とも推測されています。

そして、その結果、ASDの主症状である特定の狭い分野の物に対する強いこだわりや、場の全体に注意を向けられない空気の読めなさが生じるのではないか、ともされています。

なぜアスペルガー症候群の人はポケモン博士になれるのに人の顔が覚えられないのか
自閉スペクトラム症(ASD)の人が持つ「細部に注目する」脳の傾向が、どのようにマニアックな記憶や顔認知と関係しているのか、という点を「顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 -

ASDの人たちは、絵を描くときにも、細部から全体へ向かう傾向が見られる場合があるそうです。

絵の描き方から分かる自閉症スペクトラムの4つの特徴
アスペルガーを含め自閉症スペクトラムの芸術家は大勢います。その独特な認知特性は、絵を描くときにも表れるそうです。「芸術と脳: 絵画と文学、時間と空間の脳科学 」という本に基づいて、

一般に、ASDの人たちは、ものごとを視覚的に把握して、細部から全体へと向かうボトムアップ思考に秀でているとされています。有名なテンプル・グランディンも、「私は絵で考える」と述べました。

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明!
自閉スペクトラム症の子どもの視覚的思考力の強さやボトムアップ処理の脳活動を金沢大学が明らかにしました。

天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)では、アントニ・ガウディのような視覚優位のアスペルガー症候群の人たちが紹介されていますが、視覚優位であるからといって、必ずしも両眼視機能が優れているというわけではないことがわかります。(p82)

ガウディのような認知の偏りがある、あるいは発達障害を持つ人たちのたいへんさの一つに、健康の問題があります。

…眼球周辺の筋肉の弱さにより、机上の本の文字に焦点を合わせ続けることや、動くものを追い続けることが難しいといった眼球運動周辺の問題を抱えていることもあります。(p82)

こうした両眼視機能の問題は、スーザン・バリーのような、立体視ができない、という程度まで強いものでなくとも、スムーズに全体を把握することを難しくし、細部へと意識を向かわせるのかもしれません。

ASDの人たちのマニアックな収集癖は、周りの人からはごちゃごちゃして物があふれているように見えても、本人視点では整理整頓されて片付いている、ということをすでに考えました。

ASDの人は、全体像が見えず、一度にわずかな範囲にしか注意を向けられません。すると、彼らの見えている範囲、つまり部分部分だけ見れば片付いてはいるのに、彼らが見落としている部屋全体としては物があふれているという状況になりやすいのかもしれません。

ASDに限らず、先ほど出てきた事故のせいで立体視力を失った女性も、細部に関してはきれい好きなものの、全体のバランスは見えていなかったため、強迫的に片付けすぎていた可能性があります。

スーザン・バリーの場合も、おそらく細部に注目しすぎる視覚特性のせいで、実際よりも物が散らかりすぎているように見えていたのでしょう。

彼女は夫のダンが、なぜこんなに散らかった部屋で過ごせるのかイライラしていましたが、正常な立体視能力を持っていて、細部も全体も意識できるダンからすれば、ほどほどに物が点在しているだけだったのかもしれません。

森を見て木を見ずなADHD

他方、立体視力が十分でない人たちの中には、全体像はわりと意識できるのに、細部がおろそかになる、おおざっぱな認知に偏りすぎる人たちもいると考えられます。

そうした人たちの場合、部屋が雑然としていても、散らかっているという感覚が乏しくなるかもしれません。そもそも片付ける必要があることに気づかない人たちです。

細部が意識できないせいで、ごちゃごちゃしていて汚い部屋でも気にならず、まだ余裕があるように思えてしまうおおざっぱなタイプは、どちらかといえば、ADHD傾向を持つ人たちに多いのではないかと考えられます。

有名な認知神経科学者マイケル・ガザニガは、右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -の中で、自分はADHDだったかもしれないと述べています。

彼の部屋が散らかっていたかどうかはわかりませんが、「ひとつの課題に集中するのが私の性分に合わない」のに対し、「私は大局観のある人間」で、「詳細に圧倒されると抽象に立ち返る」傾向があるのだそうです。(p267,376)

ADHDの人たちは、視覚が鋭いどころか、「見落とし」の常連です。目が「節穴」だと言われてばかりです。細かい違いには無頓着で、うっかりミスだらけの不注意傾向を示します。

子どものPTSD 診断と治療によると、ADHDの原因のひとつと考えられるドーパミン関連の遺伝子の変異は、短期記憶(ワーキングメモリ)の容量と関係しているようです。

このドパミンによって、ヒトは注意が喚起されワーキングメモリーに貢献するといわれている。

ワーキングメモリーは、ある思考を保持し、行動に結びつけるまでその思考を慎重に分析する役割をもつ。

ある考えに基づいて推理し計画を立て実行することにはドパミンD2受容体の活動が必要とされる。

ADHDでは、このD2受容体遺伝子の変異やドパミントランスポーター遺伝子の変異により、ワーキングメモリーが十分に機能せず症状が起こるとされている。(p115)

興味深いことに、教養としての認知科学によると、短期記憶(ワーキングメモリ)には、聴覚性のワーキングメモリとは別に、視覚性のワーキングメモリが存在しています。

では、なぜ節穴になるのだろうか。これについては、視覚性のワーキングメモリが限定されているからという説明がある。一度にワーキングメモリ内に貯蔵できる視覚情報はどうやら四つくらいしかないと言われている。

つまり、いっぱい見てもどうせ保持できないから、限定されたところしか見ていないというわけである。(p110)

視覚系の情報と聴覚系の情報は独立して保持されるために、聴き取りで数字を覚える際に、視覚情報を使った処理課題を行っても、あまり干渉を受けないこともわかっている。(p79)

一般に、人のワーキングメモリの容量は、7つプラスマイナス2つほどで、「マジカルナンバー7±2」というインパクトある有名な論文のタイトルでよく知られています。

対して、視覚性ワーキングメモリの容量は、それよりも少なく、一度に4つほどしか覚えられません。

すると、ワーキングメモリが通常より限られているADHDの人の場合、細部か全体か、になると、見たものををおおざっぱに認識する「節穴」のほうに偏りがちなのかもしれません。

細部が意識できないので、こまごまとした片付けは苦手ですが、全体の空気感は読み取れるので、ものが増えすぎると余計に落ち着かなくなり、その反動で物を持たないシンプルライフを始める人もいるのでしょう。

たまに自分の興味のあることだけ脇目も振らずに過集中しますが、そのときもまた、一つのことしか見えなくなってしまうのはのは致し方なし、といったところでしょう。

ちなみに、先ほどのマイケル・ガザニガも、自分は大局観があるが詳細に圧倒される傾向があると述べている文脈で、「ワーキング・メモリに入る項目を増やす余地を作ること」に四苦八苦していました。(p376)

ここまでのところで、木を見て森を見ずの傾向に偏った結果、細部にこだわって「捨てられない」ようになる人と、森を見て木を見ずの傾向に偏った結果、全体をおおざっぱにしか見ずに「片付けられない」ようになる人がいるのではないか、と考えてきました。

けれども、この2つが同時に存在しないというわけではなく、「捨てられない」し「片付けられない」人も当然いるのでしょう。

問題となっているのは、木と森を同時に見られないことです。ある時は木だけに注目し、別の時は森だけに注目し、結局どちらか片方しか見ていないというバランスの悪い人もいるのではないかと思います。

スーザン・バリーの正常な子どもたちは「森全体とそこにある木々を同時に意識」できたわけですが、部屋が散らかる人は、一度にどちらか一方しか注意を向けられないことが問題なのです。

愛着障害と病的な溜め込み症

ところで、いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳によると、視覚性ワーキングメモリの容量低下は、虐待の後遺症として生じる視覚野の萎縮で引き起こされることもあるようです。

フリーサーファーで得られた結果は、性的虐待を受けた群が健常群に比べて左半球の視覚野の容積が8%も減少していた。…また右半球の視覚野の容積も5%減少していた。(p73)

オランダのアムステルダム大学のSuperは、外部からの視覚刺激を一番に取り入れる場所である一次視覚野は、視覚的な知覚(見ることで入ってくる外界からの情報)やワーキング・メモリなどの認知のプロセスに重要な役割を果たしていることを報告し、筆者らが行った視覚タスクによる記憶力の課題で、虐待歴のある者だけでなく、虐待歴のない対照群でも視覚タスクによる記憶力のスコアと一次視覚野の容積に強い関連が認められた。

このことから考えると、一次視覚野の容積は単に虐待による病的な結果と関連しているだけはなく、外界からの視覚的な知覚の許容量と何らかの関連があることが示唆された。(p77)

この記述によると、虐待歴があると、一次視覚野が萎縮する場合がありますが、それは視覚性ワーキングメモリの減少とも関連していることがわかります。

同様の結果は、国内における愛着障害の研究でも報告されていて、視覚野の萎縮は、視覚的な注意力や顔を見分ける能力に影響してくるようです。

愛着障害の子どもの脳の2つの特徴―左脳の視覚野が減少,ADHDより線条体が働かない

虐待の後遺症としての愛着障害は、ADHDと症状がよく似ていて、脳科学的にも見分けるのが難しいとされています。

よく似ているADHDと愛着障害の違い―スティーブ・ジョブズはどちらだったのか
アップルの故スティーブ・ジョブズはADHDとも愛着障害とも言われています。両者はよく似ていて見分けがつきにくいとされますが、この記事では(1)社会福祉学の観点(2)臨床の観点(3)

おそらくADHDでは、生まれつきのドーパミン関連の遺伝子変異のせいでワーキングメモリの容量が少ないのに対し、愛着障害では過酷な環境に対する適応のせいで、後天的に視覚性ワーキングメモリが縮小するのでしょう。

いやされない傷―児童虐待と傷ついていく脳では、虐待を受けた子どもの場合、なぜ視覚野が萎縮するのか、こう説明されていました。

これらの事実から、性的虐待を受けた被虐待児の脳、とくに視覚野の部分は細かい詳細な像を無意識下に“視ない”ようにするように適応していったのではないかと私は推測している。

残酷な性的虐待を繰り返し受けてきた子どもたちが、トラウマ的な出来事の詳細を“視る”ことに“ふた”をした表れではないだろうか?(p76)

愛着障害では過酷な虐待のせいで、物事の細部を見ないように適応してしまい、視覚性ワーキングメモリが弱くなってしまうのです。

そうすると、虐待などのせいで愛着障害を抱え、細部を見ることにフタをした人たちは、部屋が散らかっていても、散らかっていることに気づけず、「片付けられない」タイプへと発展していくかもしれません。

冒頭で、「片付けられない」や「捨てられない」は、ある程度はだれにでも見られる特徴ではあるものの、極端な汚部屋やゴミ屋敷の場合は、「溜め込み障害」のような治療を要する障害になりうる、ということに触れました。

臨床家のためのDSM-5 虎の巻で杉山登志郎先生は、そのようなケースには、単なる発達障害ではなく、幼少期の虐待など、愛着障害との合併例が多いことを指摘しています。

現在のところ、典型的な病理をAD/HD×虐待的育ち×強迫性と説明されているが、われわれの経験では圧倒的にAD/HD(片付けられない)よりASD(捨てられない)のほうが目立つのであるが。

自閉症スペクトラムの親が、虐待の既往と強迫性を抱えているときにしばしば溜め込み症の並存があるのである。(p56)

虐待による愛着障害は、ADHDに合併する場合もあれば、ASDに合併する場合もあります。

どちらの場合にしても、単なる生まれつきのADHDや、生まれつきのASDよりも、より重く混乱した症状が見られるため、「第四の発達障害」や「発達性トラウマ障害」として知られています。

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子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

ADHDにしろ、ASDにしろ、極端な「片付けられない」や「捨てられない」、さらにはその両者が混合して、生活が立ち行かなくなるような場合は、生来の脳機能だけでなく、愛着障害も含めた脳機能の問題として捉える必要があるかもしれません。

混乱した視覚情報に適応する

注目したいのは、愛着障害の子どもが正常な視覚能力を発達させられないのは、過酷な環境に適応するために、細部を見ないように適応した、言い換えれば、衝撃的な視覚情報が入ってこないように抑制した結果として、視覚野が十分に発達しなかった、という点です。

視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)を見ると、脳が自分を守るために視覚情報を意図的に抑制する、というのは、愛着障害に限らず、斜視でも似たような現象が起こっているようです。

どうして、斜視の乳児はたいてい、外に目を開くのではなく内に寄せているのか。

当時、ファザネッラ医師はこの問いに答えを与えられなかったが、最近の研究で、ごく幼い乳児は、たとえ正常な視覚を持っている場合でも、目を外に開くより内に寄せるほうがはるかに得意なことが判明した。

つまり、情報を抑制するために片目の位置をずらす必要がある場合、固視していない目を外側ではなく内側に向けるほうが簡単に行なえるというわけだ。

片目を内に向けることで、わたしは像のひとつを無視し、ひとつだけの世界を見ることができた。

この方法は問題のひとつを解決したが、代わりにべつの問題をもたらした。立体視に頼らずに奥行き感覚を発達させざるを得なくなったのだ。(p52)

斜視の子どもは、もともと生まれつき目の位置がずれているわけではありません。斜視が現れやすい時期は二回あり、 生後2~3ヶ月と2~3歳ごろ だとされています。(p45)

スーザン・バリーの説明によると、最初から目の位置がずれていることが斜視の根本原因なのではなく、目の位置がずれるのは、赤ん坊なりの適応戦略だということになります。

つまり、何かしらの原因で、両目を協調して動かすのが難しい赤ちゃんは、右目と左目の像が一致しない「視覚混乱」と呼ばれる状態に陥ります。二つの目が違う像を捉えるので、どちらが正しい情報かわからなくなってしまいます。(p47)

すると、その状況に適応するため、片目からの情報はわざとシャットアウトして、どちらか片方だけの情報を頼りにするようになります。その結果、抑制されたほうの目の位置がずれるので、「斜視」として認識されるということです。

ということは、愛着障害における適応も、斜視における適応も、種類は違えど、混乱するような視覚情報から脳を守るために、目から入ってくる情報を抑制した結果、という意味では共通しています。

もっと言えば、先ほど見た自閉症の赤ちゃんの場合もそうです。普通よりも早期に視覚が鋭く発達してしまうために、赤ちゃんの目にとってコントラストの刺激が強すぎる他人の目から視線をそらすようになり、表情の認識が難しくなります。

典型的な斜視の症状が現れるほど、両目の協調運動に問題があるわけではない人の場合も、似たような理由で、視覚情報の抑制が生じているのかもしれません。

たとえば、間欠性斜視では、疲れたときや集中力が切れたときなどに目の位置がずれます。また斜位では、目の位置はそろっていますが、常に努力して方向を揃えている状態なので、正常な両眼視機能を持つ人よりも疲労がたまります。

そうすると、通常よりもノイズが多い視覚情報にさらされるため、脳が刺激を抑制しようと適応した結果、一般とは異なった視覚認知、ひいては細部か全体かに偏った、発達障害特有の思考パターンへと発達するのかもしれません。

脳の発達は視覚によって導かれる

この記事では、部屋が散らかってしまう「片付けられない」「捨てられない」問題から始まり、その原因の一端が両眼視機能の問題にあるのではないか、ということを考えてきました。

通常より視覚が鋭かったり、眼球運動の協調が難しかったり、さらには虐待によって衝撃的な場面にさらされたり、といった例外的な状況に対して、脳が自己防衛のために適応していった結果、定型発達者とは違う物の見方が育っていきます。

そして、その延長線上に、それぞれの発達障害の特徴である、こだわりが強い、空気が読めない、見落としが多い、おおざっぱといった思考のくせが作られ、最終的に「片付けられない」や「捨てられない」といった行動問題へとつながっている可能性があります。

もちろん、ASDやADHDの症状がすべて視覚の問題から来ているわけではありません。すべての発達障害者に両眼視機能の異常が見られるわけではありません。明らかに、別の原因も絡んでいます。

たとえば、以前の記事で紹介したように、耳を通して入ってくる聴覚的な情報もまた、脳の発達や思考パターンの形成に大きな役割を果たしているようです。

「トマティス効果」―なぜ高周波音が聞こえてしまう人は感情がこまやかなのか
大半の人には聞こえないモスキート音やコイル鳴きのような高周波音が聞こえてしまう人は、もしかすると、こまやかな感情を読み取る力にも秀でているかもしれない、ということを「トマティス効果

しかし、よく言われるように、人が受け取る情報の大部分は視覚に依存しています。わたしたちが何かを認識し、注意を向け、考えるきっかけをもたらすのは、たいていの場合、目から飛び込んでくる視覚情報です。

脳の可塑性に詳しい精神科医ノーマン・ドイジは、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、スーザン・バリーの視覚はよみがえるを紹介したあと、次のような研究を紹介しています。

私たちが目を使ってすることは脳を形作り、その発達を導く。目には、脳の神経可塑性をオンにしたりオフにしたりする力がある。

事実最近の注目すべき研究で、視覚系における神経可塑的な変化は、脳ではなく目から始まることが示唆されている。

ハーバード大学医学部のタカオ・ヘンシュと、フランス高等師範学校に在籍するアラン・プロシアンツ博士の報告によれば、生まれたばかりのマウスの網膜は、Otx2と呼ばれるタンパク質を脳に送ることで学習を促進し、可塑的変化を可能にする段階に入るよう指示する。

ちなみに彼らは、ラベリングの技術を用いて、網膜から送り出されるタンパク質を追跡することができた。

ヘンシュが述べるように、基本的に「目は脳に可塑的になるタイミングを指示している」のである。(p345)

発達障害と呼ばれる人たちの脳機能が、定型発達者と異なる独自の方向へ形作られていくのは、「目を使ってすることは脳を形作り、その発達を導く」との言葉からすれば、脳そのものがそう発達していったというより、視覚に導かれてそう発達したのではないでしょうか。

外部からの情報の大半を受け取る視覚という窓から、普通とは異なる光が差し込んできたために、脳の神経系が普通と少し違った別のかたちへと成長していく、と考えるのは理にかなっているように思えます。

ADHDだから「片付けられない」、ASDだから「捨てられない」、と思っている人の中には、自分が気づいていない視機能問題に対する適応のせいで、そうした認知パターンに陥っている人が少なからずいることでしょう。

その場合、ちょうどスーザン・バリーが、視能療法を通して立体視を獲得した際に、「何よりも驚きだったのは、視覚の変化が考えかたにまで影響をもたらしたことだ」と述べたように、視覚に注目したアプローチによって、生まれつきの性格だと思っていたものが変化する可能性もあるのではないでしょうか。

発達障害の診断を受けている人は、一度、両眼視機能の検査を受けてみて、自分が正常な両眼視能力を持っているのかどうか、また自分の物の見え方は、他の人とどう違っているのか、という点を調べてみるなら、自身の特性に向き合う意外な道が開けるかもしれません。

一般的な検査でわかりにくい両眼視機能について知るには、今回紹介したスーザン・バリーの経験談視覚はよみがえる 三次元のクオリア (筑摩選書)や、以下の記事で紹介している書籍をご覧ください。

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ダニエル・タメットが語る「ぼくと数字のふしぎな世界」―人間の本質は無限の多様性の中にある

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10代のころぼくは、この数が大好きなんだ、と同級生に打ち明けたことがある。

…彼女は考えながら答えた。ぼくの質問の意味がよくわからないようだった。「数は数でしょ」と彼女は言った。

たとえば333と14は、君にはなんの違いもない? 違いはなかった。

じゃあπをどう思う? ぼくはなおも訊いた。この不思議な数についてちょうど授業で学んだばかりだった。美しい数字だとは思わない? (p149)

キュメンタリー「ブレインマン」で円周率π(パイ)を2万2514桁も暗唱して一躍有名になったアスペルガーまたサヴァンのダニエル・タメット。

彼は、冒頭に引用したぼくと数字のふしぎな世界の中で、自分が子どものころから抱いてきた数字に対する愛着、とりわけπという円周率に対する愛着について語っています。

「πをどう思う?」と聞かれたら、たいていの人は戸惑ってしまうでしょう。タメットのように、数字に対して、あたかも友だちに抱くかのような親しみを感じる人はなかなかいません。

数字や文字に色があるわたしからしたら、πの3.14という数字の組み合わせは、からりとした夏の屋台でひるがえる かき氷の旗の配色にそっくりなのですが、そんな突拍子もない連想はともかく、タメットは3.14から果てしなく続くπの数列の魅力についてこう熱弁します。

完全な円には、考え得るあらゆる数字の連なりが入っている。

πのどこかに、少数点以下何兆桁かのあたりに、五が100個も連続しているところがあるかもしれない。ゼロと一だけが交互に1000個も続くところがあってもおかしくない。

でたらめに見える数字の泥沼の、思いもよらないほど深いところには、ビックバンが起きてからいままでの時間より長い時間をかけて計算すれば、123456789……の連続が1億2345万6789回立て続けに現れるところが見つかるかもしれない。

…循環もせず、割り切れることのない唯一の数がπなのだ。(p150)

πという数字は、永久に割り切れることなく、循環することもなく無限に続いていきます。そこには特定のパターンはありません。あらゆる可能性が秘められていて、あらゆる多様性が含まれています。

もしも今わたしが書いているこの文章を暗号化して数列に置き換えたとしても、それとぴったり一致する数の並びが、無限に続くπの連なりのどこかに見つかることでしょう。

ぼくと数字のふしぎな世界は、そんな無限の可能性を秘めたπをこよなく愛するダニエル・タメットが、数字という窓を通して、この世界に満ちる無限の多様性をかいまみせてくれるエッセイ集です。

シェイクスピアが数字のゼロに心を奪われたこと、トルストイが微分積分の考え方を歴史に応用したこと、詩や俳句に素数が巧妙に織り込まれていることなど、今まで考えもしなかったような観点から想像力を刺激してくれる このユニークな本の感想を書きたいと思います。

これはどんな本?

ぼくと数字のふしぎな世界は、ダニエル・タメットによる三冊目の本です。

一冊目のぼくには数字が風景に見える (講談社文庫)は自伝、二冊目の天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界は自分探しの医学・心理学的な考察、という側面が強い本でしたが、今作は、タメットが大好きな数学をモチーフにしたエッセイ集です。

タメットは、この本を『「人生の中にある数学」にまつわる24篇のエッセイを集めたもの』と紹介しています。(p3)

三作目にしてはじめて、単なる自分史の振り返りでも、自分探しの資料のコラージュでもなく、数学をこよなく愛してきたタメットにしか紡げない、彼ならではの芸術的な感性のこもった独創的な作品が生み出されたのを感じました。

心理学の本などで時々見る話題が多いものの、そのどれもがタメット以外には思いもよらないような語り口から考察されているのがとても新鮮で、タメットがまぎれもなくザヴァン、つまり類例のないユニークな人であると感じさせてくれる すばらしい作品です。

文学と数学はつながっている

この本テーマの一つは、文学と数学とを橋渡しすることです。

ダニエル・タメットがサヴァンだと言われる理由のひとつは、彼が数学的な才能だけでなゆく、語学的な才能も持ち合わせている稀有な人だからです。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界の中でタメットはこう言っていました。

十二の言語に通じていて、新しい言語でも一週間あれば高度な会話がこなせるまでになり、しかも自分で言語まで作れてしまう(p167)

ふつう、語学は文系、数学は理系などと分けられ、互いに相容れない才能とみなされがちですがタメットにそれは当てはまりません。

それ以前に、タメットは、言語的能力と数学的能力は、世の中の人が思うほどかけ離れているものではないと考えています。

ぼくと数字のふしぎな世界で彼はこう書きます。

ネミロフスキーとフェラーラが言うように、作家と数学者には、(この二つの職業は比較できないと言われることが多いが)、考え方や創作法において共通点がたくさんある。(p4)

言葉を操る作家と、数字を操る数字者。この二つの職業は、「考え方や創作法において共通点がたくさんある」というのがタメットの意見です。

だからこそ、タメットのこのエッセイ集は、数学と文学を橋渡しする話題がとても豊富です。

0になったシェイクスピア

たとえば、タメットは、かの有名な劇作家、ウィリアム・シェイクスピアが、ゼロという数学的概念に魅了されていたことに注目しています。

ウィリアム・シェイクスピアは、小学校の算術の授業で数字のゼロを学んだ初めての世代だ。

幼いころにゼロを知ったことでどんな変化が起きたのか、それを考えるのは楽しい。(p67)

わたしたちにとって、ゼロという概念はごくごく当たり前のもので、幼いころから慣れ親しんできたものかもしれません。0という数字なくしては、簡単な算数さえ成り立ちません。

しかしシェイクスピアのより前の世代は、ローマ数字を用いていました。ローマ数字は現在でもナンバリングに用いられることがありますが、1,2,3,4,5はそれぞれI II III IV V…といった仕方で表記されます。

ローマ数字にはもともとゼロを表す特別な文字はなく、10はX、100はC、1000はMでした。だから3000はMMMと表記されました。0という概念の居場所はなかったのです。

そんな時代に、ゼロという概念を幼い時期に学ぶ最初の世代となったシェイクスピアは、その摩訶不思議な数字に強く心を揺さぶられたのではないか、とタメットは想像します。

タメットによれば、シェイクスピアは『冬物語』のポリクシニーズにこんな台詞をあてがいました。

したがって、ひとつのゼロが
桁を増やすように、私も
これまで述べた何千というお礼の言葉に、もうひとつ
「ありがとう」を加えよう。(p72)

ローマ数字では3と3000には何のつながりもなく、IIIがMMMに変わるだけでした。しかし0という概念を使えば、3の後ろに0を増やすだけで、3000にも30000にもなります。

この小さな魔術師のような数字に魅了されたシェイクスピアは、作品のなかで何度も0という役者を登場させました。しまいには、自分自身をさえ0にたとえました。

しかし、シェイクスピア少年がレコードから教わったゼロに強い衝撃を受けたことがはっきりと読み取れるのは、青年になって書いた詩の中からかもしれない。

ソネットの38番には、自分と彼の愛する恋人(ミューズ)の関係を書いていて、ふたりを10の数字にたとえている。詩人がゼロで、愛する恋人(ミューズ)は一だ、と。(p73)

シェイクスピアは、作家また詩人としての自分はゼロのような存在だと考えたのでしょう。自分一人だけでは何者にもなれませんが、創作を通して、だれかの魅力を引き立て、1を10に、また100にするかのような非凡な才能を持ち合わせていたのです。

タメットは、そのほかにも、数学と文学をつなぐ興味深い話題を次々に展開します。

ロシアの作家レフ・ニコラエヴィチ・トルストイは、微分積分の手法をヒントにして歴史を考察しました。特定の偉人が歴史を動かすのではなく、無数の名もない人が寄り集まってできた時代の波が歴史を動かします。

歴史家が選んだアプローチの仕方が間違っているとトルストイが主張するのは、大きな戦いがほんのわずかな原因に帰することはありえないように、船の航路がほんのわずかな波に帰することはありえないからだ。

フランスの港とロシアの港のあいだの海上には、無数の点がある。

船が港に到着したのは、海上の1万5403番目の点、あるいは7万1968番目の点があったからだなどとどうして言えようか。(p183)

歴史が特定の偉人たちによってコントロールされているのではなく、無数の普通の人たちによって形作られているというのは、小さな集団が寄り集まることで一つの意志を持っているように振る舞う群知能と相通ずるところがあります。

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あるいは、人の意識とは、脳の司令官にあたるコントロールタワーが生み出すものではなく、無数の神経細胞が寄り集まったボトムアップのアプローチで生成されているという神経ダーウィニズムもほうふつとさせます。

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タメットはまた、詩が心を動かすのは、神秘的な素数のリズムが組み込まれているからだと言います。

その証拠としてタメットは、セスティーナ(六行六連体)の単語の配置が、循環小数の数字の移動とよく似ていること、また日本の伝統的な短歌や俳句が素数からなっていることを例に挙げます。

詩と素数とに深い関係があることをぼくはいつも考えているので、多くの人がその関係を意外に思うことがぼくにとっては驚きだ。

この関係は、ある意味では完璧だ、詩と素数には共通点がある。両方とも、人生のように予想することも定義することもできず、多様な意味を含んでいる。(p210)

数学は一見、芸術とはかけ離れたところにあるかに思えますが、花びらの数やパイナップルの実などあらゆるところに顔を出すフィボナッチ数列や、自然界に組み込まれているフラクタルなど、数学的な調和と芸術の美しさとは、切っても切れない間柄にあります。

わたしたちはみなある意味でサヴァン

タメットに言わせれば、数学と文学に深いつながりがあるのは、まったく違った世界に見えて、じつは同じ脳の機能を土台としているからです。

彼は、複雑な数字をすぐさま素数に因数分解できますが、それはマジックでも天才的ひらめきでもなく、ごく普通のことだと言います。なぜなら、大多数の人は、母国語を話すときに、それと同じことを当たり前のようにやってのけるからです。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界のなかでタメットはこう説明します。

数字を意味のある形として視覚化できるおかげで、ぼくは、たちまち数字を因数分解することができる。

先ほどの掛け算で例として出した6253で考えれば、ぼくはすぐにこれが13×13(169)×37の組み合わせだと「わかる」。

数をたちまち素数に分解する力は、英語が母語の話者が「incomprehensibly」という合成語を「in」「comprehend」「ly」にたちまち分解できるのと同じだ。(p171)

複雑な数字を直感的に因数分解できるのは、複雑な言葉を直感的に操れる能力と同じです。

日本語を話すわたしたちは、「すうがくてきさいのう」というような ややこしい文字の羅列を見ても、一瞬でそれを「すうがく」「てき」「さいのう」という要素に分けて理解できます。

言ってみればタメットのサヴァン的な才能は、数学を母国語として扱っているようなものです。彼にとっては、数字はひらがな、数字の集まりは単語、そして数列は文章のようなものだ、ということなのでしょう。

ニューサウスウェールズ大学のピーター・スレザクは、わたしたちが言語を使いこなすときに使っている脳の機能を、サヴァンは数字に対して用いているにすぎないと述べたそうです。

われわれ全員が、ある意味ではサヴァンであり……難しい言語を理解している。

言語を使いこなす能力には極端に高いレベルの数学的複雑さがあり、その働きをわれわれはまったく理解していない……それにもかかわらずわれわれは、難なく、無意識に、本能的に直観的に言語を操っている。

サヴァンはこれと同じことを脳の違う領域でおこなっているのだ。(p166)

冒頭で引用した、タメットがさまざまな数字やπに対して抱く親しみについてのエピソードも、これと似たものとみなせるでしょう。

わたしたちは普通、身の回りの様々な人、家族や友だちを見分け、それぞれに異なった印象を持ち、近しい人にはひときわ親しみを覚えます。

タメットはどうやら、わたしたちが友人や家族一人ひとりに対して抱く親しみを、数字ひとつひとつに対して抱いているようです。

人に対する個別の感情を、人以外の動物や物に対して抱く、というのは何も現実離れしたことではなく、顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 - 「読顔術」で心を見抜く (中公新書ラクレ)にはこんな例が載せられています。

顔以外の、車や犬や鳥を大量に記憶しているカーディーラーやブリーダーやバードウォッチャー、これらの特異な能力を持つ人たちは、顔を処理する脳の部位をこれらの処理にも転用しているといわれている。

それが証拠に、相貌失認になったブリーダーは、人の顔だけでなく、ブリーダーとしての能力だった犬の個体識別もできなくなっていたそうだ。(p161)

多種多様な車を見分けるカーディーラーや、数多くの動物を見分けるブリーダーは、通常は人を見分けるのに使っている脳の機能を、車や動物ひとつひとつを見分けるために用いているようです。

そうであれば、通常は身近な人ひとりひとりに親しみを抱くために用いられる脳の機能が、タメットのように数字ひとつひとつ、またときには車や動物に対して転用され、あたかも友だちや家族に対するかのような親しみを感じることもあるのでしょう。

天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界で、タメットは特に脳の中において、言語に特化した領域(左前頭葉)と、数字に特化した領域(左頭頂葉)が隣接していることに注目しています。

彼の場合、生まれつきの自閉スペクトラム症やてんかん発作の体質のせいで、隣り合うそれらの領域に混線(クロストーク)や過剰結合が生じ、数字をあたかも言葉のように処理できるのではないかと述べています。(p167)

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いずれにしても、わたしたちの大半が言語を難なく操れることと、数学者が数字を魔法のように操れることはそれほどかけ離れた能力ではないのでしょう。

数学というと、無機質で機械的なイメージを持つ人も多いですが、タメットは、数字に対して、家族や友人のように温かい感情を抱いているがゆえに、もっと違う見方をしています。ぼくと数字のふしぎな世界の中で彼はこう言います。

文学作品と同じように、数学的な発想は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれる。

きちんと考えられた数は、ぼくたちをよりよい人間にしてくれるのだ。(p19)

わたしたちの当たり前は他の人の当たり前ではない

タメットは、数学は「一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれる」と述べました。彼によれば、すべての数列、無限の可能性を含む円周率πのように、数学は人類の多様性を覗き見る窓になります。

彼は、数と言語という二つの得意分野を手がかりにして、わたしたちとはまったく異なる物の見方をしている人たちの文化をめぐる旅へと、読者を連れて行きます。

大きな数の概念がない少数民族

たとえばスリランカのヴェッダ族には1と2だけを表す言葉しかありません。まるで二進法の世界のようにも思えますが、彼らにとっては指の数を超える大きな数を使う機会がないのです。

スリランカに昔から住むヴェッダ族には、一(エッカマイ)と二(デッカマイ)の二つしかないという報告がある。

その数より多いときには、オタメカイ、オタメカイ、オタメカイ…と続く。さらにひとつ、さらにひとつ、さらにひとつ、という意味だ。(p35)

他方、ブラジルのムンドゥルク族は、数字が大きくなればなるほど、それを意味する言葉の音節も増えていくという独特な言語を持っています。

ブラジルのムンドゥルク族は、数と音節の数を一致させるやり方で数を表している。

一はpug、二はxep xep、三はebapug、四はedadipdipというふうに。五より多い数の数え方はない。

数と音節とを一致させるやり方はわかりやすくはあるが、明らかに限界がある。(p35)

もし100まで数える必要があれば話す側も聞く側も疲れ果ててしまいそうですが、彼らの文化では、大きな数を扱う機会がありません。

わたしたちにとっては数とは無限に桁数が増えうるものであり、もし指の数ほどしか数えられなければ、お金のやりとりにさえ苦労してしまいます。年齢さえも数えられません。

でも、世の中には、お金や年齢など気にもせず、まったく違う文化の枠組みで日々を過ごしている人たちがいることがわかります。

写真や絵がわからない人たち

タメットはまた、このブログでも以前に取り上げたピラハ(ピダハン)族に注目します。過去や未来に関する時間の概念がなく、物語や神話も持たない人たちです。

この人たちは、時間や神のような抽象的な存在について考えもしません。それだけでなく、なんと二次元的に描かれた絵や写真を理解することができません。

ピラハの人たちに絵や写真を見せてもそれがなにかわからない。彼らは写真を横向きや反対向きにして手に持つ。写っているものがなにを表しているのかわからないからだ。

絵も描けない。一本の直線すら引けない。簡単な形を正確に真似して書くことができない。そういうことに興味がないのだ。(p39)

子供のときからイラストや写真、マンガやアニメに当たり前のように慣れ親しんでいるわたしたちからすれば想像もつかないかもしれませんが、二次元的な画像を現実の身の回りの物に対応させる、というのは、決して当たり前の能力ではないのです。

神経科学者オリヴァー・サックスも著書心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界の中でそのことに触れています。視覚失認に陥っていたリリアンは、立体的な物は認識できましたが、イラストや写真のような二次元的な物は認識できなくなりました。

絵に比べて立体的な物のほうがうまく名前を言えたことから、私はまたもや、リリアンには表象に対する失認症があるのではないかと思った。

表象の認識には、ある種の学習、つまり記号体系や伝統的表現法の理解が、物の認識の場合以上に必要だろう。

だから、写真に触れたことのない原始文明の人々は、写真がほかのものの表象であることを認識できないかもしれないと言われている。(p21-22)

わたしたちが三次元のものを二次元に対応させられるのは、子どものときから、二次元的な表現に慣れ親しんできたおかげです。

サックスが別の箇所で述べているように、ジャングルなどの環境で生きる民族は、日常生活の中で遠くのものを見る機会がないために、自分を取り巻く身の回りの立体的な風景の把握に特化して、遠くのほうの平面的な風景はうまく認識できないことがあるようです。

コリン・ターンブルは『森の民』で、ジャングルを出たことのなかったピグミーの男性とのドライブについて書いている。

数キロ離れたずっと下のほうで、のんびり草を食(は)んでいるバッファローが見えた。

彼は私のほうを向いて言った。「あれは何ていう虫だい?」。私は初め理解できなかったが、すぐに気づいた。

森では視野がごく限られているので、大きさを判断するときに無意識に距離を斟酌する必要がないのだ。

……その虫はバッファローだと話すと、ケンゲは大笑いして、そんなばかばかしい嘘はつくなと言った。(p167)

遠近感がつかめず、遠くの景色にいるバッファローが虫に見えてしまうというのは、わたしたちからすればとても奇妙に思えます。けれどもこのピグミーの男性にとっては、遠くの平面的な景色を見たり、写真や絵を楽しんだりする機会はなかったのでしょう。

その代わり、自分のまわりの三次元空間、つまりジャングルのただ中で感じる音の方向や、自分の位置の把握に関しては、きっとわたしたちには真似できないほど鋭敏な感覚を持っていて、ジャングルを自由自在に動き回れるのではないでしょうか。

彼らは知能が劣っているわけではない

タメットは、このような少数民族の人たちは、決して知能が欠けているとか、賢さが足りないわけではない、とぼくと数字のふしぎな世界の中で説明しています。

ピラハのような民族は知的能力が足りないのではないかと思う人がいるかもしれないが、そんなことはない。

それを証明するためにオーストラリアのクイーンズランド州北部に暮らすグーグ・イミディル族のことを話そう。

大半のアボリジニの言語に共通することだが、グーグ・イミディル語には数を表す言葉は三つしかない。

…しかしこの人々は、自分たちの土地の景色を幾何学的に説明することができる。磁北、南、東、西が直感的にわかるので、自分のいるところに関しては卓越した感覚を持っている。(p40)

タメットによると、グーグ・イミディル族は、やはり大きな数字を扱えません。それを扱う語彙がないので、大きな数字の足し算や引き算という概念もないのです。

しかし、その分、自分の位置感覚を正確に把握するという、わたしたちが持ち合わせていないコンパスのような能力を身に着けます。その結果、面白いことが起きます。

西洋の諸国では、子供たちはマイナスの数の概念を把握するのにかなり苦労する。2とマイナス2の違いは子供たちの想像力では理解しにくい。

その点、グーグ・イミディルの子供は生まれたときから恵まれている。2は「東の二歩進む」こと、マイナス2は「西に二歩戻る」ことだと考える。(p40)

彼らには数学という概念がありませんが、数字を距離や位置として幾何学的に理解しているため、マイナスの概念を理解しやすいのです。

数字を抽象的な概念として学校で学ぶわたしたちの社会の子どもたちは、2引く3の答えを知るには、マイナスの概念を学び、-1という数字があることを知らねばなりません。

しかし数字を日常生活の中で空間的に理解しているグーグ・イミディル族にとっては、2引く3とは、2歩進んで、それから3歩戻った位置のことなのです。

タメットが、こうした例を通して明らかにしているのは、わたしたちにとっての当たり前は、別の文化で育った人の当たり前とはまったく異なるということです。

ある文化から見れば、別の文化が劣っているように思えるかもしれません。数学が発展した文化からすれば、数字を数える語彙さえもほとんどない文化は劣っている、とみなす短絡的な人もいるでしょう。

しかし、本当は別々の環境に適応して特化してきただけで、そこに優劣はありません。彼らの文化では大きな数字や二次元的画像を扱う必要がない代わりに、立体的なジャングルで生き抜く空間把握能力が求められます。

もし彼らの文化を基準にしてわたしたちの文化を見れば、ジャングルでは何の役にも立たない技能はあれど、生きていくために必須な当たり前の能力が欠けているとみなされてしまうかもしれません。

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覚えておきたいのは、文化によって当たり前が異なり、そこに優劣はない、という、相対的な視点は、わたしたちと少数民族との違いにだけ当てはまるわけではないということです。それは、もっと身近な、この社会においても役立つ考え方です。

たとえば教養としての認知科学には、学校教育を受け読み書きのできる人と、そうでない人との考え方の違いについて書かれています。

たとえば、「綿は暖かく乾燥した地域に育つ。イギリスは寒く湿気が多い。イギリスに綿は育つか?」と尋ねられたとき、学校教育を受けた人は「育たない」と答え、読み書きができない人は「わからない」と答える傾向があるそうです。

一見したところ、学校教育を受けた人は賢く問題に正解し、読み書きのできない人はごく簡単な論理でさえもわからないのか、と感じられるかもしれませんが、そうではありません。

なぜなら、この調査が行われた当時、イギリスはインドを植民地にしていました。厳密に言えば、「わからない」と答えた人のほうが正解に近かったともいえます。

まるでひっかけ問題のようですが、冷静に考えてみて、この世の中には、一問一答の正誤問題のような状況と、複雑なひっかけ問題のような状況のどちらが多いでしょうか。

論理学は前提自体を疑うことは許されない。P→Qと言われれば、P→Qなのであり、「イギリスは寒い」と言われれば、「イギリスは寒い」なのである。

一方、日常生活では確実な前提が得られることはほぼない。こうした世界では前提を疑ったり、棄却したりすることは、けなされるどころか、慎重な態度として尊重される。

読み書きができない人が行った思考は、論理学の仮定する世界とは別の世界の中で行われたのである。(p208)

つまり、学校教育を受けた人は、一問一答の正誤問題をたくさんこなす必要がある、学校という特殊な環境に適応して、能力を特化させた人たちだったといえます。

他方、学校教育を受けておらず読み書きのできない人たちは、知力が劣っているどころか、自分たちがいる環境、つまり学校の外側にある世界、もっと複雑な問題に直面することが多い日常世界に適応して、能力を特化させた人たちだったとみなせます。

小、中学校ではそもそも論理などは教えない。何を教えるかといえば、先生が言ったことは黙って聞く、疑わない、余計なことは考えない、そういうことである(これは隠れたカリキュラムと呼ばれる)。(p208-209)

そうすると、テストの成績が高く、よい大学に進んだ人たちこそ頭が良く知力が高い人たちなのだ、とみなすロジックの誤りに気づけます。そうした人は、テストで知能を測る学校という特殊な環境に適応したにすぎません。

現に、大学を一歩出て、現実社会に足を踏み入れると、テストで好成績を収めていたエリートよりも、学校では落ちこぼれだったものの実生活に役立つスキルを磨いてきた人のほうが、より柔軟に仕事をこなせたりするものです。

学校で勉強ができる子どもは賢くて、それができない子どもは「学習障害」。本当にそうでしょうか。

じっと授業を聞ける子どもは正常で、落ち着きのない子どもはADHDという「発達障害」。本当にそうでしょうか。

学校や会社で円滑にコミュニケーションできる人は定型発達で、空気の読めない人はアスペルガーという「発達障害」。本当にそうでしょうか。

数字を何十桁も数えられる先進諸国の人たちに比べ、指の数ほどしか数えられない少数民族は知力が劣っている。決してそんなことはありませんでした。

そうであるなら、現代社会で学習障害や発達障害とされている子どもたちも、実際には、学校という特殊な環境や、多数派が作り上げた現代社会という環境に適応してきた人と異なっているだけで、それとはまったく別の環境に適応し、異なる能力を発達させてきた子どもたちなのではないのでしょうか。

わたしたちは、たったひとつの物差しで優劣を測定できる直線上に並んでいるのではなく、もっと幾何学的な立体感のある世界に散らばっています。

優等生か学習障害か、健常者か発達障害か、といった良いか悪いか二極しかない物差しで人々を測ることなどできません。それぞれが異なる環境に適応し、異なる才能を伸ばしてきたがため、ある点では劣っていても、別の点では優れているだけなのです。

学校と私:勉強の仕方見えた聞き書き=詩人 アーサー・ビナードさん - 毎日新聞

タメットの言うとおり、「数学的な発想は思いやりの輪を広げてくれ、一元的で偏狭な見方を強いる世界からぼくたちを解き放ってくれ」ます。

「平均的な人間」などいない

人は健常か障害か、健康か病気か、優れているか劣っているか、などという単純な二極に分けられるわけではなく、本質的にもっと多様で複雑なもの。

それは、ほかならぬダニエル・タメット自身の人となりからも感じ取れます。

タメットは、自分は自閉スペクトラム症(ASD)、いわゆるアスペルガー症候群であると公言しています。

しかし、タメットの本を読むたびに、あまりに情緒あふれる文章なので、本当にアスペルガーなのだろうか?と思ってしまうことがありました。

わたしが当初抱いていたアスペルガー症候群のイメージは、タメットとはどうにもかけ離れていました。

わたしが初めてアスペルガー症候群についてこのブログにまとめたのは、こちらのNHKの放送内容だったかと思います。

【7/2 あさイチ!】大人の発達障害(ASD、アスペルガー症候群)に対処する
NHKのあさイチで取り上げられた、「子どもも大人も増加!発達障害」という番組のまとめです。特に大人の発達障害が特集されています。ASDとは何か、なぜ子供のころ見過ごされてしまうのか

その中で、アスペルガー症候群の人は「心の目が見えない」などと言われていました。今から思えば、まったくひどい話で、そんなことを言う定型発達者の心の目のほうが曇っていないか検査したくなります。

アスペルガーという少数民族

もちろん、ダニエル・タメットの、アスペルガーらしさを物語るエピソードは、彼が書いた三冊の本のそこかしこに見られます。

今回のぼくと数字のふしぎな世界では、子供のころ母親の行動が理解できなかったので予測モデルを作った話が印象的でした。

全体像を認識するのが苦手で、代わりにボトムアップ思考を得意とするアスペルガー症候群らしさを最も如実に示す、「らしい」エピソードでしょう。

数学者は「データを表にしろ」とよく言う。数学者はそういう言い方をする。そしてそれが正しいのだ。

不可解な物事は長時間かけて観察し、前後のつながりを把握する必要がある。

子供のころぼくは、もし記憶をきちんと整理して、分析に必要な変数(パラメーター)をいくつか設定しさえすれば、母の行動の予測モデルを作ることができるかもしれないと思った。(p225)

アスペルガー症候群など、自閉スペクトラム症の人たちは、ある意味で異文化を持つ異なる民族のようなものだと言われますが、物事をトップダウンで概観してばかりのわたしにとっては、母親の行動の予測モデルを作るといった発想は、まさに考えもつかない異文化でした。

そういえば、親子の立場は正反対ですが、やはりアスペルガーだったのではないかと言われているダーウィンは、書きたがる脳 言語と創造性の科学によれば、子どもの感情を知るために表情の変化を観察して分類した、なんてエピソードもありました。

ダーウィンも感情を理解するうえで表情を重視した。彼はさまざまな実験をやってみて、子どもがいまにもわあっと泣き出そうとするときのわずかな顔面の筋肉の変化について、とり憑かれたように長々と詳細に記している。(p246)

自閉スペクトラム症(ASD)の子どもの視覚的思考力とボトムアップ処理のメカニズムが解明!
自閉スペクトラム症の子どもの視覚的思考力の強さやボトムアップ処理の脳活動を金沢大学が明らかにしました。

またタメットは、自身の記憶力がとてもいいことを記しています、ブレインマンとして円周率を2万桁も暗唱したことを思うと言わずもがなですが、記憶を正確に保持でき、細かい数値や表現まで覚えていられるのはアスペルガー症候群らしいでしょう。

じつは、ぼくは昔から「物覚え」がよかった。そのおかげで、電話番号や人の誕生日や記念日、本やテレビ番組に溢れる数字や事実などを正確に簡単に覚えて思い出すことができる。

…学校の試験で苦労したことはなかったし、先生に教わった知識は、ぼくの記憶力にとってはとりわけ覚えやすいものだった。(p152)

記憶力がザルで、Evernoteなどの外付け脳に頼りっぱなし、学んだことの輪郭や印象しか覚えておらず、自分が書いた文章さえすっかり忘れていて、学校のテストの暗記は大の苦手だったわたしからすれば羨ましい限りです。

なぜアスペルガー症候群の人はポケモン博士になれるのに人の顔が覚えられないのか
自閉スペクトラム症(ASD)の人が持つ「細部に注目する」脳の傾向が、どのようにマニアックな記憶や顔認知と関係しているのか、という点を「顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 -

けれども、ダニエル・タメットが、アスペルガー症候群のステレオタイプに当てはまるかといえば、わたしは全然そうは思えません。

空気が読めない? 確かに彼の話題は独特ですが、子どものころの回想の中には、ぶしつけな来客のせいで、部屋が白々とした空気で満ちていたことを振り返っているものがあります。(p30)

これは、近年言われているように、自閉スペクトラム症の人たちは、人の心を想像する「心の理論」が欠けているわけではなく、大半の人と視点が違う「心の理論」を持っているだけだとする見方を思い出させます。

アスペルガーは「共感性がない」わけではない―実は定型発達者も同じだった
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)の人は「共感性がない」と言われていますが、実際にはそうではなく、むしろ定型発達者も共感性に乏しいという研究を紹介しています。

想像力の障害? これほど文才にあふれたタメットにそんなことを言えるほど想像力のある人が世の中に果たしてどれほどいるのでしょうか。

タメットは子どものころ、アンデルセンの「王女さまとえんどうまめ」を読んで、王女がマットレスをどれだけ増やしても、マットレスの下のごろごろした豆の感触から逃れられないだろうという分数計算をして「おまえは想像力がありすぎるよ」と父親に言われたくらいです。(p22)

やはり自閉スペクトラム症のニキ・リンコさんが 自閉っ子におけるモンダイな想像力の中で書いているように、彼らは想像力が欠けているのではなく、想像力の方向性が大半の人とは異なる、という意見が正しいのでしょう。

独創的なアスペルガーの芸術家たちの10の特徴―クリエイティブな天才の秘訣?
童話作家アンデルセン、哲学者カント、音楽家ベートーヴェン、画家ゴッホなど、さまざまな天才的なアスペルガーの芸術家たちに共通する10の特徴を、マイケル・フィッツジェラルド博士の「天才

コミュニケーションの障害? 確かに彼は人付き合いが苦手だと吐露していますが、子どもたちや生徒に、数学の話題をわかりやすく楽しく教える才能にはずば抜けています。

主婦を相手に一時間以上も分数の話題で盛り上がれるほど話術が巧みな教師はなかなかいません。(p65)

こうしてタメットの人となりを見てくると、やはり、さっきのタメットの少数民族についての話のとおりだと感じます。

タメットを含め、自閉スペクトラム症の人たちは、空気が読めないコミュ障の発達「障害」者ではなく、大半の人と違う文化を持ち、異なる認識を発達させた少数派にすぎないのです。

自閉症は個性の一種である。現在活躍中の7人の自閉症の人々が語る自閉症に関するメリット : カラパイア

熊谷晋一郎先生による自閉スペクトラム症(ASD)の論考―社会的な少数派が「障害」と見なされている
当事者研究の熊谷晋一郎先生が、ASDは障害ではなく少数派であるという考察をしていました。
アスペルガーのミュージシャンに役立つ「少数派」という才能の活かし方―ゲイリー・ニューマンやスーザン・ボイルから学ぶ
アスペルガー症候群を抱えるミュージシャンが抱える生きづらさを通して、「多数派」の中で「少数派」が才能を活かすにはどうすればいいか、なぜ多様性を尊重することがアーティストの創造性を伸

「平均や中央値は幻想にすぎない」

わたしがこの本を読んで強く感じたのは、タメットのような人を、特定のステレオタイプに当てはめることそのものが不可能なのではないか、ということです。

以前の記事に書いたとおり、わたしはアスペルガー症候群というステレオタイプにそっくりそのまま当てはまるアスペルガー症候群の人はほとんどいないと思っています。

アスペルガーから見たおかしな定型発達症候群
定型発達症候群(Neurotypical syndrome)は神経学的な障害である。「アスペルガー流人間関係 14人それぞれの経験と工夫」という本では、定型発達の人は、とても奇妙に

タメットはこの本の中で、数学的観点から「平均的人間」、つまりステレオタイプという偏見を打ち崩しています。

ベルギーの数学者アドルフ・ケトレーは、人々のさまざまな性質を平均化すれば、より真実に近い理想的な特徴をあぶり出せると考えました。

かくしてケトレーは千や万にのぼる人々から集めたデータを平均し、男性の「平均」身長は167センチであるとか、新聞を読む「平均」時間は12分だとか、タマゴとジャガイモと肉のスープが「平均的な」食事だとかいった結果を手にした。

162センチや185センチの身長は異常であり、新聞を五分しか読まない人や30分も読む人は普通ではなく、魚をたくさん食べて卵を食べない人は変わり者だ、と。

今日でも平均寿命とか、平均体重とか、平均睡眠時間といった言葉をそこかしこで耳にしますが、それは「近代統計学の父」アドルフ・ケトレーの平均化の取り組みから始まったのです。

ケトレーの統計的な分析そのものはとても有用で、わたしたちが複雑なデータを把握する助けになっていますが、平均化してしまうことは、困った副作用を引き起こします。

このデータから、ケトレーはある規則性を見出した。それは、大半の男性の身長は、平均より五センチ高すぎるか低すぎるかする。

大半の新聞の読者は、新聞を読む時間が平均より三分ほど長すぎるか短すぎるかする。

大半の主婦は、ジャガイモを一週間に六回料理するより多すぎるか少なすぎるかする、ということだった。(p260)

平均いくら、という数字が示されると、わたしたちは、平均値の頻度が高いと錯覚します。たとえばある病気で平均余命が4年だと言われると、あと4年ほどが寿命だろうとみなして計画を立て始めるものです。

しかし、平均4年、というのは、4年で亡くなった人が多いということを示しているわけではありません。極端に言えば、1年で亡くなった人が5人、7年で亡くなった人が5人いても、全部合わせて平均すると4年になります。誰一人として4年きっかりの人は存在しなくてもです。

現実はこれほど極端ではありませんが、よくある正規分布曲線を見てみても、ぴったり平均に一致している人は全体のごく一部です。

とすると、大勢の人を平均して導き出された典型的な人物像、つまりステレオタイプがぴったり当てはまる人もまた、そうそう存在しないことになります。

たとえばエンジニアたちの顔写真を集めて、すべての画像の特徴を平均化して、平均的なエンジニアの顔というステレオタイプを作ったところで、それと瓜二つの顔の人などまずいないでしょう。

それなのに、わたしたちは「平均的な人間」という、さまざまな種類のステレオタイプを見るとき、それにそのまま当てはまる典型的な人間が多くいるのだと錯覚しがちです。

人々は、それにあてはまる平均的な男性を面白がり、嘲笑し、非難し、笑い物にした。

しかし最悪なのは、そういう男性が実際にいると人々が思い込んだことだった。(p261)

「平均的な人間」、ステレオタイプがそこかしこに存在するという錯覚は、行動経済学者ダニエル・カーネマンのファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか? (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)に書かれている代表性ヒューリスティックと呼ばれるものでしょう。

代表性ヒューリスティックとは、実際の統計や頻度を無視して、目の前の人や物をステレオタイプに当てはめて直感的に判断してしまうことです。しかしそんなステレオタイプどおりの人などまずいません。

ちまたにあふれるさまざまなステレオタイプ、たとえばA型人間の特徴とか、ADHDやアスペルガー症候群の特徴などにぴったり当てはまる人がいないのはある意味当然で、それは平均値が生み出した架空の人物の特徴なのです。

ケトレー(とその追随者たち)は、人間の本質は平均値の中にあると信じていたが、それは間違っていた。

人間の本質は無限の多様性の中にある。

スティーヴン・ジェイ・グールドは、後にこう述べている。

「進化生物学者はだれもが、多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質だということを知っている。

多様性は厳然たる事実であり、中央の値を知るための不完全な測定の中にあるのではない。

平均や中央値は幻想にすぎない」と。(p263)

「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」

「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」であることを思いに留めれば、タメットのようなユニークな人が、特定のステレオタイプや医学のカテゴリに当てはまらないのも当然といえます。

そもそも彼は、一般的なステレオタイプからかけ離れているために、サヴァン症候群だとみなされてもいます。多様性の極致にいるわけです。

けれども、タメットは、自分だけがユニークで特殊な存在であるとは思っていません。

タメットの三冊の著書の中で貫かれているのは、人は一人ひとり、だれもがユニークで唯一無二の存在である、という見方です。天才が語る サヴァン、アスペルガー、共感覚の世界の中でタメットはこう述べます。

ぼくは、才能とはその語源の意味の通りだと思っている。

つまり、「talent」がラテン語の「talenta(重さ)」からきているように、人をある特別な方向へと押しやる重みが才能なのだと。

だれもがある種の才能を持って生まれ、献身的な懸命に努力をすることでその才能が実を結ぶのだ。(p73)

ひとりひとりに才能がなければ、ぼくたちはみな白紙のようなもので、生まれた環境に大きく左右されてしまう。

しかし実際は、ぼくたちひとりひとりがこの世界に貢献できるかけがえのないものを持っているということを知れば、だれもが自信を抱くことができる。(p74)

彼にしてみれば、自分だけがサヴァンなのではなく、だれもが驚くべき才能を秘めています。彼自身が説明していたとおり、サヴァンとは多くの人が気に止めずに使っている能力が、たまたま別の分野で使われているにすぎないからです。

平均的人間やステレオタイプ、という尺度からすると、あたかも、「正常」な人間や「普通」の人間がいるかのように思えます。タメットのようなサヴァン症候群の人は「特殊」または「異常」ということになります。

しかし、人間は本当に普通か特殊か、正常か異常かにばっさり二分できるものなのでしょうか。ここまで見てきたタメットのエッセイの数々は、そうした二極的な考え方は幻想だと明らかにしています。

「平均的な人間」など存在せず、スティーブン・ジェイ・グールドが述べていたように、「多様性そのものが自然がもつ唯一の最小限の本質」なのであれば、わたしたちの中に一人として同じ人はいません。皆が皆、根本のところで違っています。

ぼくと数字のふしぎな世界によれば、フランスの哲学者、ミシェルド・モンテーニュは、あるとき、シャム双生児の子どもに会いました。けれどもモンテーニュはその子を差別的な目で見ませんでした。

「神の広大無辺なる想像力の中では、あの子供も子供のひとりであって怪物ではない。ただ人間には未知なだけだ」とモンテーニュは考える。

「われわれは習慣に反して起こることを、自然に反することだと称する。しかし、なんであれ、自然に従わないものなどないのだ。

新奇なものがわれわれにもたらす、驚愕の念による誤謬を、ぜひとも、自然という普遍的な理性の力で、われわれ人間から追い払ってほしいものである」と。(p147)

たとえシャム双生児やサヴァン症候群のように、他の人との違いが目立つ人がいるとしても、その人たちが極めて異常なわけではありません。

おそらくはわたしたちの誰もが、あまり目立たないところで、あるいは自分でも気づいていないところで、極めて異例な多様性を有しているのですから。

31歳で天才になった男 サヴァンと共感覚の謎に迫る実話という本では、ダニエル・タメットのように生まれながらにしてサヴァンだったわけではなく、31歳で脳に外傷を負って、たまたま後天的にサヴァンの能力が現れたジェイソン・パジェットの経験が書かれています。

彼の経験したことがダニエル・タメットの能力とよく似ているのはとても興味深い点です。彼自身タメットに親近感を感じていますが、彼の共感覚、数学を直感で幾何学的に理解するところ、そして円周率πに対する愛着などはタメットにそっくりです。(p83,246)

ジェイソン・パジェットのように、後天的にタメットと似たような能力が現れるケースがあることは、タメットだけが異例なわけではない、ということをはっきり物語っています。

πの視点から人類の多様性をを見る

モンテーニュは、すべての可能性を熟知している「神の広大無辺なる想像力の中では」「自然に従わないものなどない」と述べました。どれほど奇妙にみえることでも、それは単に「人間には未知なだけ」です。

これは、ダニエル・タメットが愛してやまないπという数字を思い起こさせます。円周率であるπはどこまで行っても、円を描き続けるように割り切れず、特定のパターンを繰り返すわけでもなく、決して終わりのない唯一の数でした。

πの無限に続く数列の中には、あらゆる数の並びが含まれています。極めて異例で、一度も現れない数の並びなど、そこにはないのでしょう。

すべての可能性を知る「広大無辺なる想像力」を持ったモンテーニュの述べる神と、πに内包された無限の可能性はよく似ています。

タメットもこの本の中で、無限という数学の概念は、神学と結びついて発展してきた歴史があると述べています。(p272-280)

「無限」に魅入られた天才数学者たち (〈数理を愉しむ〉シリーズ)に書かれているように、無限を解き明かそうとする数学者の探究は、神を証明したいという熱意に支えられていました。

ですから、無限の可能性を含むπという数字に思いを馳せることは、あたかも無限の想像力を持つ神の視点から物事を見るようなものなのかもしれません。本当にそれができる人間は一人もいませんが、そうするよう努めることは誰にでもできます。

ダニエル・タメットのこの ぼくと数字のふしぎな世界は、πをこよなく愛するダニエル・タメットだからこそ気づけるπの視点へとわたしたちを案内してくれます。全部で24篇のエッセイを収めたものですが、どれも今までにない着眼点で、世の中を眺めさせてくれるものでした。

これまでに読んだどんな本とも違う独特の切り口の数々に、思考を深く刺激され、視野が広がったように感じました。数学や文学に興味のある人のみならず、新しい世界に触れたいすべての人におすすめしたい一冊です。

自閉症はなぜ方言ではなく共通語を話すのかーHSPの脳機能との違いを考察する

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「自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ(話さないよねぇ)」

妻のこの一言で始まった研究は思わぬ展開を示すこととなりました。

…調査をすればするほど湧いてくる課題、考えれば考えるほど解けない疑問と向き合った結果、方言というローカリティそのものと考えていた問題が、私たちをASDのことばの謎へと誘っていきました。(p246-247)

閉スペクトラム症(ASD)の人たちは方言を話さない?

弘前大学の松本敏治先生のこの不思議な研究について知ったのは、2015年のニュース報道でした。

自閉スペクトラム症(アスペルガー)の人は方言を話さない、表情模倣が乏しいなどの傾向
自閉スペクトラム症(ASD)の人は表情模倣が少なく、方言も使わない傾向があるそうです。

本当だろうかと怪訝に思いつつも、身の回りのアスペルガーの人たちを思い浮かべると、たしかにあまり方言を使わないことに気づきました。

それ以来、この不思議な研究のことはずっと頭の片隅に残っていたのですが、なんと今年になって、一冊の本自閉症は津軽弁を話さない 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解くにまとめて出版されたので、さっそく読んでみました。

冒頭に引用した文中で著書が述べているように、単純なコミュニケーションの特性かと思いきや、じつは定型発達とASDの学習方法の違いや、解釈の能力にも関わってくる極めて深いテーマだということがわかりました。

この記事では、本の内容を概観するとともに、自閉スペクトラム症の対極にあるとも言えるHSPのコミュニケーション能力と比較してみましょう。

さらに、過剰同調性や多重人格といった解離現象との意外なつながりにも光を当ててみたいと思います。

これはどんな本?

この本は、弘前大学の松本敏治先生の、およそ10年にわたるASDと方言をめぐる不可思議な研究をまとめたものです。

冒頭に引用したように、この研究は、松本先生の妻の何気ない一言から始まりました。

特別支援教育に携わっていた松本先生は、「自閉症は津軽弁をしゃべらない」という妻の観察をはじめは真に受けていませんでした。

しかし、調査を重ねるうちに、全国的傾向として自閉スペクトラム症の人たちが方言を話さないという意外な実態が明らかになり、既存の理論では説明できないことに気づきます。

次々と予想外のデータが出てきて、それを解き明かすために仮説を積み重ねていく様子は、心理学の本と言うよりあたかも推理小説のようで、わくわくしながら最後まで読み通すことができました。

あたかも推理小説のような本だ、と形容していながら、この記事であれこれ要約してしまうのは、真相のネタバレをしているようで心苦しいのですが、興味を持った人はぜひ本書を直接読んで10年間の思考の積み重ねを追ってほしいと思います。

自閉スペクトラム症(ASD)は方言を話さない

自閉スペクトラム症は方言を話さない。

もしもそんな際立った特徴があるとすれば、もっと広く知られていても良さそうなものですが、自閉症と方言についての研究は、国内外に少数しか存在していないようです。

理由のひとつは、自閉スペクトラム症の人は、方言を話す話さない以前に、独特の話し方をする人が多いということです。

ASDの話し方が独特であることはよく知られています。

一本調子であったり、奇妙なアクセントやイントネーションであったりします。

彼らのもつ独特の口調については、ASDの特徴としてよく記載されています。

言語や障害について詳しくなくても、他の子どもたちとは違う独特の話し方は、少しでもASDの子どもとかかわった経験がある人なら誰もが気づくものです。(p13)

ここに書かれているとおり、自閉スペクトラム症の人たちは「他の子どもたちとは違う独特の話し方」をすることが多く、ASDの人と関わる機会が多ければすぐに気づきます。

感情的に平板で抑揚のないする話し方をすることもあれば、一定のリズムで周期的に抑揚をつけて話す人もいます。聞き手のことを考えないで自分の興味のあることをマシンガンのようにしゃべる人や、逆におっとりマイペースすぎる人もいます。

いずれの場合も共通しているのは、本来なら相手の反応に合わせて変わるはずの抑揚やリズムが反映されていないことです。

こうした独特の話し方には、以前の記事で考えたように、低周波帯の音に対する感覚過敏のせいで、声にこめられた感情の読み取りが難しいことが関係しているのかもしれません。

「トマティス効果」―なぜ高周波音が聞こえてしまう人は感情読み取りがこまやかなのか
大半の人には聞こえないモスキート音やコイル鳴きのような高周波音が聞こえてしまう人は、もしかすると、こまやかな感情を読み取る力にも秀でているかもしれない、ということを「トマティス効果

この独特の話し方があまりによく知られているせいで、自閉症は方言を話さないという現象が覆い隠されてしまい、著者の研究も最初のころはあまり注目されなかったようです。

ASDの人たちが方言を話さないような印象を受けるのは、方言に含まれるようなイントネーションが見られない話し方をするせいだ、というわけです。

しかし本当にそうでしょうか。自閉スペクトラム症の人たちは方言を話さないのか、それとも独特のイントネーションのせいで見かけ上方言を話さないように感じるだけなのか。

著者はその点を明らかにするために、ASDの人たちが方言の語彙を用いているかどうか、という調査を行いました。

発音・イントネーションの偏りであれば、ASDの人は周囲のことばを学んで使用しているが、音声的特徴が独特ということで説明はすみます。

しかし、もしも、方言語彙を使用していないとなるとASDは、周囲の人びとのことばを学ぶことや使うことに困難があるとなり、これは厄介な問題になります。(p35)

もしも方言の語彙を使っていないとしたら、ASDの人は単に見かけ上 方言を使っていないように見えるのではなく、本当に方言を使っていない、ということになるはずです。

しかして、その調査結果はまぎれもなく、ASDの人たちが方言の語彙をあまり使っていないこと、しかも全国的に方言を話さない傾向がある、ということを疑問の余地なく示していたのでした。

これは、ASDが単に独特の話し方をするだけでなく、そもそも方言を身に着けない、あるいは対人コミュニケーションの中で方言を使用しないという不可思議な事実を指し示していました。

方言と共通語は学習経路が違う

ではなぜ、ASDの人たちは方言を使用しないのか。この不可思議な現象をめぐる考察の流れは読み物としてもとても面白いところです。

無粋を承知で結論だけ整理すると、その原因は大きく2つに分けられるようです。ひとつは、ASDの学習経路、もうひとつは切り替え能力です。

まず、ASDの学習経路については、ASDの子どもは幼児のころから方言を学習しない傾向がわかっているようです。言い換えれば、定型発達の子が方言と共通語を身につける時期に、なぜか共通語しか学習しないという偏りが見られます。

同じ環境で育ちながら、方言を学ばず、共通語だけを選択的に学ぶなんてことがあるのだろうか?と首を傾げざるを得ませんが、それが成り立つトリックがありました。

カギを握るのは、方言と共通語とでは、学習経路が違う、ということでした。方言と共通語が両方話される中で、共通語だけを選択的に学習しているのではなく、それぞれが別々の経路で学習されるということが影響していたのです。

子どもを取り巻く環境を思い描いてみると、方言と共通語は、それぞれ違うルートで接することがわかります。

子どもの周りで方言を話すのは、家族や友だちなど、身近に接する隣人だちです。

では子どもの周りで共通語を話すのはだれかと言うと、リアルに接する隣人たちではありません。共通語は、テレビやアニメの登場人物、また本などの教材を通して学ぶ言語です。

身の回りの人が話す言語と、メディアや教材を通して学ぶ言語、これらはそれぞれ「自然言語」「学習言語」と区別することができます。(p155)

自然言語と学習言語は、どちらも同じ言語の習得過程のようでいて、習得に使われる脳機能はかなり異なっています。

私たち、発達障害、特にASDにかかわる者は、子どものことばの学びには少なくとも二つの道筋があることに注意を向けなければならないのではないでしょうか。

一方には、他者とのやりとりのなかで相手と注意を共有し、意図を読み取り、他人をモデルとしてその人を自分のなかに取り入れるようにことばや表現方法を学んでいく道筋と、もう一方には機械的あるいは連合学習的にことばを学んでいく道筋の二つです。(p217)

自閉スペクトラム症の人たちが方言を話さないのは、自閉症の脳機能が、学習の偏りを生み出していることに起因しています。

つまり、自閉スペクトラム症の人たちは、身の回りの隣人が話すような自然言語の習得が難しく、逆にメディアや教材を通して入ってくる学習言語の習得は得意なので、結果として方言は学ばず共通語だけを選択的に身に着けていってしまうというわけです。

これは発達障害に関わってきた人たちにとって、それほど意外なことではないはずです。

自閉スペクトラム症の人たち、アスペルガー症候群の人たちの よく知られている特徴の中に、身近な人とのコミュニケーションが難しいこと、また教科書や辞書の丸暗記や、視覚記憶に秀でていることなどがあります。

なぜアスペルガー症候群の人はポケモン博士になれるのに人の顔が覚えられないのか
自閉スペクトラム症(ASD)の人が持つ「細部に注目する」脳の傾向が、どのようにマニアックな記憶や顔認知と関係しているのか、という点を「顔を忘れるフツーの人、瞬時に覚える一流の人 -

方言を学ぶときに必要とされる能力は、前者の身近な人とのコミュニケーション能力です。他方、共通語を学ぶときに求められるのは、教科書やテレビから暗記する能力です。

定型発達の子どもたちは、どちらの学習経路もバランスよく使えるので、方言と共通語を当たり前のように両方身に着けていきますが、ASDの子たちは得意不得意がはっきりしているため、共通語ばかり身に着けるという偏りが生じてしまうのです。

ASDの人びとは、意図読みに困難を抱えるために、自然言語を学ぶことが難しく、結局、意図理解なしの模倣や連合学習によって学んでしまいます。

そのため、方言主流社会にあっても共通語が優勢となるテレビやビデオ、そして組織的な言語学習場面から言語習得をしていくことになると考えられます。(p169)

これは詰まるところ、コミュニケーションを通して学ぶか、メディアや教材を通して学ぶかの違いなので、必ずしもASDの人たちが方言を話さず共通語を話すようになるとは限りません。

もしも仮に、身近な家族や友人が共通語を話し、テレビや辞書では関西弁が話されるという、特殊な状況で育つことがあれば、家族でひとりだけ関西弁を話すようになる、ということを意味しています。

つまり、共通語か方言かということよりも、どこからことばを学んだ化、それが決定的なようです。

たまたまビデオのほとんどが共通語でつくられているから、かず君は共通語を話していたのであって、もし関西弁ビデオを繰り返し視聴をしていれば、関西弁を話していたでしょう。(p189)

また、首都圏のように、身近な人たちが共通語を話し、テレビなどのメディアでも共通語が話される家庭で育った場合は、自然言語と学習言語がほとんど一致しているせいで、こと言語習得においては、それほど偏りが目立たなくなるだろう、ということもわかります。(p216)

逆に、かず君が共通語圏に住んでいたとします。そして家族が共通語を話していたとしたら、どんなことが起きるでしょう。

家族は共通語を話しています。かず君はビデオから共通語を学び、そのセリフをいろんな場面に当てはめて話すようになります。

そうなれば、かず君を含む家族全員が共通語を話すということになったでしょう。

かず君は、家族と同じ共通語を話すけれど、「ことば使いがちょっと変わっていてビデオやテレビみたいに話す」と言われたかもしれません。(p189)

以前の記事で、自閉スペクトラム症の人たちの創作スタイルは、厖大な知識を組み合わせたコラージュのような形式をとる、ということを考えました。

ASDの人たちは正確な記憶に優れているがゆえに、特定のフレーズやイメージをパズルのように組み合わせて用います。有名な不思議の国のアリスもそうした方法で創作されています。

自閉症・アスペルガー症候群の作家・小説家・詩人の9つの特徴
「作家たちの秘密: 自閉症スペクトラムが創作に与えた影響」という本を読みました。自閉症スペクトラムは小説家や詩人の作品にどんな影響を与えたのでしょうか。9つのポイントにまとめてみま

言語学習においてもそれと同じで、テレビや辞書で学んだフレーズを、そのまま活用する傾向があり、成長するとともに、その組み合わせが複雑になって、コミュニケーションの幅が広がるようです。

最初は元ネタがバレバレという感じだったのが次第に複雑になり、どのビデオのシーンからの流用かわからなくなっていきました。それでも、お母さんの印象では、〈自分のビデオの記憶のストックのなかから、一瞬にして引き出して言っている〉という感じだったそうです。(p185)

自閉スペクトラム症の人たちが方言を話さないというのは、あくまで認知特性の偏りの結果であって、共通語に比べて方言のほうが複雑で難しいといった問題ではないのです。

方言を話せても使い分けに苦労する

これまで見てきた学習経路の違いは、ASDの人たちにとって、まず方言を習得することからして難しいということを明らかにしていました。しかしASDの人たちがみな方言を習得すらしないかというと、そうではありません。

特に、言語能力の高いアスペルガー症候群の人たちは、定型発達の子どもより遅れはするものの、方言の語彙を覚えていくようです。

そうすると、アスペルガー症候群の人たちは方言は話せるようになりますが、それでもやはり、普段のコミュニケーションの中では、方言をあまり使わない傾向が見られるそうです。

言葉としては方言を知っていて、意味もわかるのに、普段の生活で積極的に使わないのはなぜてしょうか。

私が主催している発達障害の会(ガジュマル)にきているASD(最初の診断はアスペルガー)の方も、方言を話しています。

ただし、その方は、相手によってことば遣い(表現様式)を変えるのには苦労しているそうです。

シンポジウムで質問された先生に「でも、(方言を使っているアスペルガーの方も)相手によって方言と共通語を使い分けるっていうのは苦手じゃないですか」と尋ねると、頷いていました。(p212)

ここで書かれているのは、たとえ方言を話せるアスペルガー症候群の人であっても、共通語と方言の「使い分け」に苦労するということです。

これは、単に方言を話さない/話せない、という意味ではなく、方言を使う場面を見極めるのが難しい、ということを物語っています。

何かを知識として知っているのと、それを実生活のなかで実践できるのとは異なります。

たとえ学習言語として言葉を身につけることができたとしても、自然言語のように場面を見極めて柔軟に使いこなせるわけではない、という点は、ASDの作家 東田直樹さんが自閉症のうたの中で明快に指摘していました。

重度の自閉症者のように言葉が出ない人の中には、言葉のつかい方がわからないのではなく、小さい頃の僕みたいに、気持ちを言葉で表出する方法がわからない人もいると思います。

言葉を道具のようにつかってコミュニケーションをとることを目標といる指導方法は、そういう人に対してはあまり意味のないことのように感じるのです。

僕も昔、状況に合う言葉が話せるのを目標に練習しましたが、いくつかの単語が言えるようになっただけでした。

結局、いまだにそれらの単語を思い通りにつかいこなすことはできず、パターンとして記憶にインプットされただけです。

似たような場面になれば、その言葉は勝手に僕の口から飛び出しますが、状況や気分によって、人の気持ちは変わるものです。

けれども、僕はパターンとしての返事しかできないために、自分の口から出てしまう言葉を耳にするたび辟易しています。(p30-31)

自然言語が身近な人たちとのやりとりの中で身につけていく実践的な言語だったのに対し、学習言語は、テレビや辞書などを通して知識として身につけていく語彙でした。

これはいわば、英語を学ぶとき、ネイティブの家庭にホームステイして見よう見まねで学んでいくか、日本にいながら教材を使って学ぶかの違いと似ています。

教材を使って学んだ場合、テストでは高得点を取れるようになるかもしれませんが、実際に英語を話す人たちの中に入ってみるとほとんどまともに話せないことに気づきます。

自閉症の人たちが言語を用いるときの、記憶したフレーズをパズルのように組み合わせる方法は、複雑な日常会話にはあまり向いていません。

方言を話せるアスペルガーの人たちも、方言の語彙は知っていますが、それを普段の生活で適切に使うのが難しいようです。

このように考えると、軽度のASDの人びとが方言を話しながらも、相手によって話し方(共通語と方言)を変えることが困難であるのも了解できます。

ASDの人びとは相手によって話し方を変えるのが苦手だったり、親しくなったとこちらが思っていても距離感を感じるような丁寧なことばで話し続ける人がいます。(p215)

言われてみれば、わたしの身の回りのASDの人たちの場合も、長年付き合っているはずなのに、いつまでも敬語だったりします。あるいは逆に、初対面からタメ口で話しかけてきた人もいます。

わたしたちは普通、無意識のうちに、相手に応じた適切な話し方を選んで使っているものです。考えて判断するというよりは、「空気を読んで」瞬時に最も適切と思える話し方を選んでいます。

佐藤先生によれば、人は人間関係を維持したりするのに、どのようなことばを使うのが好ましいか瞬時に判断して、グラデーションのようになった表現形式から最適な言い方を選び出しているということでした。

つまり、相手との心理的距離に応じて、もっとも居心地のよくなりそうな表現を使っているのだということです。(p95)

このとき、その場の空気によっては、丁寧な共通語を使うのがふさわしいときもあれば、くだけた地元の方言を使うのがふさわしいこともあるでしょう。

この本によれば、共通語と方言は、単にイントネーションや語彙が異なっているだけでなく、社会における機能そのものが異なっています。

共通語がどれだけ普及しても方言が廃れないのは、共通語と方言は、それぞれ別の役割を持っていて、場面によって共通語がふさわしいこともあれば、方言がふさわしいこともある、という相互補完的な機能があるからです。

方言を使うか、それとも共通語を使うかは、相手との距離感によって判断されます。

方言主流社会においては、方言の使用は相手と自分の距離が近しいものであること、つまりポジティブ・ポライトネス〈親しくしたい〉となります。

一方、共通語を使うことは、ネガティブ・ポライトネス〈あまり近づかないでください〉になります。(p100)

簡単に言えば、方言はタメ口に近い役割を持っていて、共通語は丁寧語に近い役割を持っています。相手との心理的な距離感が近いときや、仲良くなりたいときに使うのが方言で、一定の距離感を保ちたいときに使うのが共通語だということです。

もちろん、距離感に応じた表現の仕方には、共通語か方言かの二通りしかないわけではありません。

「グラデーションのようになった表現形式から最適な言い方を選び出している」とあったとおり、語彙の選択や態度によって、さまざまなレベルの親しさを表現できます。

たとえば、かなり親しい間柄だけれど、相手は目上なので、方言やタメ口では距離が近すぎて失礼にあたると判断した場合は、方言に敬語を入り混ぜたり、砕けた表現にです・ます調の語尾をつけたりするかもしれません。

相手との距離感に応じて、無数のコミュニケーション方法があるはずですが、以前の記事で紹介した研究が示しているように、ASDの人たちは、他の人との物理的・心理的な距離感を判断するのが難しいようです。

自閉スペクトラム症(ASD)の人は会話するとき顔が近い―東大の研究
自閉スペクトラム症、アスペルガー症候群の人は定型発達者に比べて、会話するときの距離感が近く、相手のパーソナルスペースまで接近しすぎることがわかったそうです。

言葉のコミュニケーションにおいても無意識のうちに「どのようなことばを使うのが好ましいか瞬時に判断」するのが難しく、結果として方言を話すほうが好ましい場面でも、無難に共通語を使ってしまうのかもしれません。

このように、ASDがあまり方言を話さないことには二通りの理由が関係しているようです。著者は以下のように簡潔にまとめています。

ASDの障害が重い場合には、単純な意図および心的状態の読み取りができず、自然言語の段階から習得に困難を示します。

対して、ASDの障害が軽ければ、自然言語は習得できるものの、複雑な意図および心的状態の読み取りに困難を抱えるために、相手に合わせたことば遣いは難しくなります。(p214)

ASDの人たちがあまり方言を話さないのは、第一に身近な人たちが話す自然言語の習得が難しいこと、第二にたとえ方言の語彙を習得できたとしても、その使いどころが見極められないことによるのです。

解釈システムと感覚システム

ここまでが自閉スペクトラム症と方言の使用をめぐる研究のおおまかな概観です。

この本では、方言にまつわる謎が、あくまで自閉症のことばの学習や使い方を中心に解き明かされていますが、この話題は、単に自閉症にとどまらず、このブログで扱ってきたHSPや解離とも密接に関わっているとわたしは思っています。

HSPとは、人一倍感受性が強く、気持ちの読み取りに長けた人たちのことですが、自閉スペクトラム症とは多くの点で真逆の性質を持っています。

自閉スペクトラム症は空気を読むのが難しく、他の人に同調する脳のミラーニューロンシステムが弱いのに対し、HSPでは空気を読みすぎてしまう傾向があり、ミラーニューロンシステムが活発であることが確かめられています。

また自閉スペクトラム症は記憶の正確な保持が得意で、細かい数字や定義の取り扱いに長けているのに対し、HSPは記憶の改変が起こりやすく、丸暗記よりもあれこれと類推することに長けているという違いもあります。

こうした違いは、過去の記事で説明したとおり、脳の解釈システムと感覚システムの違いによって説明することができます。

生まれつき敏感な子ども「HSP」とは? 繊細で疲れやすく創造性豊かな人たち
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わたしたちの脳には、見たもの、感じたものをそのまま取り入れて記憶する感覚システムと、さまざまな情報を加工し結び合わせる解釈システムとが備わっています。

自閉スペクトラム症の人たちは、当事者であるドナ・ウィリアムズが自閉症という体験で指摘しているように、感覚システムの働きが強く、見たもの聞いたものをそのまま取り入れて記憶する傾向があります。

他方、HSPの人たちは、解釈システムの加工力が高いために、背後にある意味や関係性を推理したり、情報を組み合わせて物語をつくったりするのが得意です。

ここまで見てきた自閉症が方言を話さない2つの理由は、どちらも感覚システムが優位で解釈システムが弱いという脳機能の観点から説明がつきます。

まず、自閉症では自然言語の習得が難しく、学習言語の習得が得意だとされていましたが、自然言語を学ぶときに重要なのは解釈システムであり、学習言語を学ぶときに重要なのは感覚システムです。

この本には、自然言語の習得がどのように行われるかを示した、トマセロとバートンによる「トーマを探しにいこう」という面白い実験が載せられていました。(p160)

この実験の「トーマ」とは架空の物で、子どもにと「トーマをさがしに行こう」と告げます。それから、興奮した様子でバケツの中からある物を取り出して子どもに渡します。

そうすると、子どもはバケツの中に入っていたものが「トーマ」だとは一度も教えられていないのに、その状況から類推して、手渡された物が「トーマ」だと覚えます。

自然言語の習得には、このような文脈を読む能力が大いに関わっています。はっきりと、これは◯◯という物である、と教えられなくても、そのときの状況や様子、前後の出来事を総合して、子どもは親の話す言語を学んでいきます。

このとき重要な役割を担っているのは「解釈システム」であり。前後の文脈を手がかりとして、はっきりと教えられたわけではない意味を推理し、解釈します。

他方、学習言語は、教科書や辞書、テレビなどを通して定義や語彙を直接覚えていきます。解釈したり類推したりすることは必要なく、これは◯◯である、という対応関係を記憶していきます。

場面ごとに空気を読んで、目に見えない意図を解釈する必要はなく、決まったパターやフレーズを覚えていくことで習得していきます。このとき役立つのは、ありのままを正確に覚える「感覚システム」のほうです。

以前の記事で考察したように、解釈システムの弱い自閉症の人たちは、身の回りの物事の、文脈やつながりを読み取るのに苦労するようです。

たとえば、自閉症の人たちがアイデンティティの不連続性を感じるのは、過去の自分、今の自分、未来の自分を、ひとつながりのものとして解釈するのが難しいからでしょう。

空気を読めない、と言われるのは、今この瞬間での相手の気持ちを読み取ることはできても、前後の文脈を考慮に入れた解釈ができないからだと思われます。

これは本を読むとき、「行間を読む」こととよく似ています。行間を読むとは、何もない行と行の隙間に注目する、という文字通りの意味ではなくて、文脈を考慮に入れて、書かれていない書き手の意図を読み取るということです。

どこにも書かれていない意図を文脈から類推するには、前後の状況を考えて、情報と情報の隙間を埋めて解釈する必要があります。

同様に、対人コミュニケーションの場面でも、空気を読むには、前後の状況や、バラバラに存在する手がかりを統合し、まとめ上げて解釈することが必要です。

ASDの人たちは、個々の言葉や、個々の手がかりという細部に注目するのは得意ですが、それらをひとつの全体像、ひとつながりの物語としてつなぎあわせ、全体像を見るのが苦手です。

解釈システムとは、いわば、本来はつながっていないバラバラの情報をつなぎあわせ、隙間を埋めてまとめ上げる能力なのです。

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むろん、解釈システムの解釈は間違っていることも多いので、元の情報を正確に取り扱うのが得意なASDの人と、断片的な情報をまとめ上げて自分なりに解釈するのが得意なHSPの人のどちらがより優れているという比較は無意味で、互いに一長一短です。

解釈システムが強ければ、前後の文脈を読み取る能力、たとえば心境を類推する国語の成績や、心理学の研究に秀でるでしょう。数学や科学の分野に進む場合は、大局を見て個々の研究をつなげたり、まとめたりする役割に秀でると思われます。

他方、感覚システムが強ければ、前後関係を考慮に入れない正確なデータの取り扱いに優れ、数学やプログラミングなどで能力を発揮するかもしれません。また全体をみわたす必要がある読解よりも、細部にわたる定義づけを得意とするかもしれません。

たとえば、科学の世界にはASDが多いと思われますが、そこにHSPの研究者が入ると、心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会までに書かれているジャニス・モアのような立場になるかと思われます。

彼女は別の点でも、はみ出し者だった。科学は本質的に還元主義だ。大きい問題を小さく切り分け、取り組みやすくして解決していく。ところがモアはいつでも大局的な考え方をする。

わかったことのほとんどすべてのあいだでつながりを考え、情報をまとめることを好む。(p25)

科学者たちは動物界のほとんどすべての系統にわたる宿主に影響を持つ、数十種類の寄生生物の操作を明らかにすることに成功した。

モアはつねにとりまとめ役で、2002年にはそれまでわかった事例をすべて集めた著書『寄生生物と動物の行動(Parasites and Behavior of Animals)』を出版している。今もまだこの分野のバイブルとみなされている本だ。(p32)

推理小説に例えると、ASDの思考方法は、徹底的に証拠を洗い出す現場捜査に向いていて、HSPの思考方法は、見つかった断片的な証拠を結び合わせて全体像を明らかにする探偵推理に向いているといえるでしょう。

前者の徹底的に細部に着目する思考方法は学習言語の習得に向いているため、結果として自閉スペクトラム症の人たちは、方言をあまり話さず、共通語を話すという偏りが見られるようになるのでしょう。

方言の不使用は、一見すると言語機能の問題であるかに思えますが、突き詰めていくと、脳の特性の違いにたどりつくのです。

バイリンガルとしての過剰同調性、多重人格

解釈システムは、空気を読む能力とも関わっているということを考えましたが、ASDの人たちが「空気が読めない」と言われるのに対し、HSPの人たちはしばしばその対極「空気を読みすぎる」過剰同調性に陥ります。

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「空気を読めない」ASDの人たちは、その場の状況に応じた、方言と共通語の切り替えに苦労していました。

他方、「空気を読みすぎる」HSPの人たちは、その場その場の状況に応じて、過剰に切り替えをしすぎる傾向があります。

方言と共通語の切り替えは、一見 ことばの問題のように思えますが、実質はそうではなく、相手に接する態度の切り替えです。

前述のように、方言と共通語は、それぞれ異なる社会的機能を持っています。そして、わたしたちは、無意識のうちに、どんな言葉を使うのがその場にふさわしいかを判断し、相手に応じて接し方を変えています。

人は人間関係を維持したりするのに、どのようなことばを使うのが好ましいか瞬時に判断して、グラデーションのようになった表現形式から最適な言い方を選び出しているということでした。

つまり、相手との心理的距離に応じて、もっとも居心地のよくなりそうな表現を使っているのだということです。(p95)

この「相手との心理的距離に応じて、もっとも居心地のよくなりそうな表現」を切り替えるのがASDの人たちにとっては困難でした。どんな相手に対しても同じように振る舞ってしまったり、敬語を使うべきときに普段の言葉で話してしまったりします。

いっぽう、コミュニケーションの得意な人たちは、相手によって対応を変化させ、目の前の相手が好みそうな表現を使い分けています。たとえば上司といるとき、部下といるとき、まるで別人のような態度をとる人もいます。

この態度の使い分けは、どんな相手に対しても一貫性をもって同じように接するASDの人から見れば、裏表があるように見えてしまうことがあります。

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これが極端になったケースが、相手によって態度を切り替えすぎて、もはや同一人物とは思えないほどころころと性格が変化する過剰同調性です。

さらに、極端どころか病的な域に突入し、無意識のうちに場面ごとにまったく別の人格に切り替わってしまうようになるのが、過剰同調性が発展した先にある解離性同一性障害(多重人格)だということになります。

興味深いことに、以前の記事で取り上げたように、解離の専門家の岡野憲一郎先生は、解離性同一性障害において無意識のうちに人格が切り替わるのは、バイリンガルとよく似ていると指摘していました。

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解離性同一性障害(DID)、つまり多重人格について、さまざまな専門家の本から、原因やメカニズムについて理解が深まる8つのたとえ話と治療法についてまとめました。

バイリンガルの人たちは、同郷の人と話すときには勝手に母語の思考モードになり、外国人と話すときは意識せずとも第二言語の思考モードになります。

これは当然ながら、方言と共通語の切り替えとまったく同じです。母語は自然言語、第二言語は学習言語なので、方言と共通語の使い分けができる人はちょっとしたバイリンガルだとみなせます。

家族と接するときにはと勝手に方言が出てきて、仕事先などでは共通語が出てくるのは、バイリンガルにおける言語の切り替えと同じものです。

さらには家族の前と上司の前で態度を切り替えることや、無意識のうちに空気を読む過剰同調性、そして多重人格におけるモード切り替えも、やはりバイリンガルと同じようなものなのです。

近年の研究では、バイリンガルにおいてモード切り替えを担っているのは脳の尾状核という部分だとされています。

これもまた興味深いことですが、脳は奇跡を起こすによれば、強迫性障害では尾状核のモード切り替えがロックされた状態にあると言われていました。

尾状核が自動的にギアチェンジをしないために、眼窩前頭皮質と帯状回がずっと信号を発しつづけ、まちがったという感情と不安がどんどん強くなってしまう。(p200)

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強迫性障害(OCD)は強迫観念にとらわれて、やめたいと思いながらも、ずっと同じ行動を繰り返してしまいます。

自閉スペクトラム症では同じ行動を延々と繰り返す常同行動が見られ、強迫性障害にもなりやすいことがわかっています。

ということは、自閉スペクトラム症の人たちが、場面に応じて共通語と方言の切り替えに苦労するのは、ただ単にふさわしい言葉を選択できない、というような言語機能の問題ではなく、状況に応じて行動のパターンを切り替えられないことから来ているのでしょう。

本来、尾状核が適切に働いていれば、その場その場の状況に応じて、自分の意思をしっかり保ちつつ、適度に対応を切り替えられるはずです。

ところが、モード切り替えのスイッチがゆるゆるすぎて、場面ごとに めくるめく態度が切り替わってしまい、自分がだれなのかわからなくなってしまうのがHSPの過剰同調性や解離の多重人格の人たちであり、逆にモード切り替えのスイッチが重すぎて、融通が利かなくなってしまうのが、ASDや強迫性障害の人だということになります。

この場合もやはり、一見すると言語の問題と思えたものは、実際には脳の特性に関わっていて、方言と共通語の切り替えどころか、日常のさまざまな苦労とも関係していたのです。

同調性とはリズム取り入れ能力

このモード切り替えの能力は、おそらくは相手のリズムを「取り入れ」る能力だと思われます。

以前の記事で扱ったように、解離性障害の人たちは「取り入れ」という防衛機制が強く、外部の人の人格を内在化する傾向があります。

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先に見たとおり、自然言語の習得とは、「他人をモデルとしてその人を自分のなかに取り入れる」能力のことでもありました。

一方には、他者とのやりとりのなかで相手と注意を共有し、意図を読み取り、他人をモデルとしてその人を自分のなかに取り入れるようにことばや表現方法を学んでいく道筋と、もう一方には機械的あるいは連合学習的にことばを学んでいく道筋の二つです。(p217)

相手に同調するとは、言い換えれば、その人のクセや話し方、ジェスチャーなど、特有のリズムを読み取り、相手のニューロン発火パターンを内在化することなのでしょう。

自閉スペクトラム症の人たちが「空気が読めない」と言われるのは、相手のリズムに同調せず、いつも自分のリズムで行動しているマイペースさからくるとみなすこともできます。

そして過剰同調性の人たちが「空気を読みすぎる」のは、自分のペースを捨て去って、その場その場の相手のリズムに完全に同調し、相手のリズムを自分に取り入れてしまうからでしょう。

最初に出てきた自閉症の人たちの独特なしゃべり方は、相手のリズムに同調しないことからくるとも考えられます。

本来、人はコミュニケーションしているうちに、無意識のうちに相手と言葉のリズムが似てきて、抑揚やイントネーションやテンポに同調してしまうものですが、自閉スペクトラム症の人たちはリズムを取り込まないがために、常に平板だったり、周期的に抑揚をつけたりする独特な話し方をしてしまうのです。

解離は引き込み・共鳴現象と関わるリズム障害かもしれない

日本語を第二言語のように話している?

ところで、方言と共通語の併用がちょっとしたバイリンガルであるという観点から考えると、自閉スペクトラム症の人たちは、日常使う言語を母語ではなく第二言語に近いかたちで習得しているのではないか、と考えることができます。

興味深いことに、バイリンガルの人の場合、相手の心を推測する心の理論の働きは、母語を話しているときと第二言語を話しているときとでは異なる、ということが知られています。

Switching language switches mind: linguistic effects on developmental neural bases of ‘Theory of Mind’ | Social Cognitive and Affective Neuroscience | Oxford Academic

言わずもがな、第二言語ではコミュニケーションの行き違いが生じがちです。さらに、母語は心を揺さぶるのに対し、第二言語では心に響かないと述べるバイリンガルが大勢います。

とすれば、ASDの人たちが空気を読めないとか、比喩を理解しづらいとか、感情表現に乏しいと言われるのは、母国語をあたかも第二言語のようにして習得するからではないでしょうか。

生まれ育った国の母語を話しているにもかかわらず、あたかも第二言語としての外国語を話しているかのような状態なので、感情の読み取りが甘かったり、フレーズを組み合わせてしゃべったり、感情のこもらない平板な話し方をしてしまったりするのではないか、ということです。

方言の問題は氷山の一角だった

この記事では、自閉症は津軽弁を話さない 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解くの研究を中心に、自閉症の脳の特性と、その対極にあるHSPや過剰同調性を持つ人たちの脳の特性について考えてきました。

こうして考えてみると、自閉スペクトラム症の人たちが、あまり方言を話さない、という不可思議なデータは、自閉スペクトラム症の本質に迫る手がかりだったことがわかります。

前後の文脈をつなぎ合わせて解釈するシステム、場面ごとにモードを切り替える能力、相手のリズムを取り込んで同調する能力など、自閉症の人たちが苦手とする脳の特性が重なり合って、言葉の問題として表にあらわれていたのです。

この本には、ほかにも興味深い事例や調査の数々が載せられていますし、次々と謎を解き明かしていく推理小説のような読み物としても楽しめます。

自閉症の脳の特性を考えるのに、とても役立つ一冊なので、興味を惹かれた人はぜひ読んでみてください。

光や音の「感覚過敏」を科学する時が来た―線維筋痛症や発達障害,トラウマなどに伴う見えない障害

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 弱い光の下でも眼痛、頭痛をはじめ全身の症状が出現するので、二重にサングラスを装用し、帽子を深くかぶり、中には、光を通しにくい布地を顔に何重にも巻いたり、袋を 被 ったりと完全防御の状態でしか通院できない症例もあります。

こうした重度の症例は、私の外来には少なくとも10例は存在し、こうした病態は決して珍しいことではないことがわかったのです。

 その原因はさまざまでも、この状態を「眼球使用困難症」と呼びたいと考えています。

おそらく、大半の症例は、無理やり測れば視力などは正常に記録されるでしょうが、日常生活の上では目を当たり前に使用することは困難ですから、明確な視覚障害者です。

れは、今年2月9日付でヨミドクターに載せられた、井上眼科医院の若倉雅登先生による記事目がいいのに使えない「眼球使用困難症」の方、患者友の会に集合を! : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞) からの引用です。

井上先生は、このコラムの中で、極めて明るさに敏感で、まぶしさに耐えられず、ときに痛みも感じるような人たちの症状を、便宜上「眼球使用困難症候群」と名付けて、該当する人たちからの連絡を募っています。

その後、この9月に入って、歌手のレディー・ガガが線維筋痛症を公表したことをきっかけに、再度記事を挙げておられ、線維筋痛症や慢性疲労症候群、化学物質過敏症などの関係を示唆しておられました。

線維筋痛症と「眩しさ」 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

感覚過敏は、検査に異常として出ないため、「心の問題」「気にしすぎ」「仮病」扱いされがちです。

しかし、このブログで取り上げている多種多様な病気や発達障害を理解するには、感覚過敏抜きに考えることはできません。この機会に、感覚過敏とは何なのか、どのように原因不明のさまざまな疾患とつながっているのか、という点を考察してみました。

これはどんな本?

この記事では若倉先生の記事をはじめ、さまざまな資料を参考にしていますが、とりわけ精神科医ノーマン・ドイジによる脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線を参照しています。

この本は、これまで難治性とされていた慢性疼痛や多発性硬化症、外傷性脳損傷、パーキンソン病、自閉症といったさまざまな脳の機能異常に対して、脳の可塑性(柔軟に変化する力)を引き出す最先端の治療法を用いた取り組みが紹介されています。

従来の医学の枠にとらわれない最新の脳科学の発見が盛り込まれており、検査に異常が出ない感覚過敏の実態を理解し、どんな治療法でアプローチできるか知るのにとても役立つ一冊です。

検査で異常が出なくても「心の問題」ではない

冒頭で若倉先生が記事で書いておられたのは、感覚過敏のうち、光過敏、明るさ過敏といった視覚系と関係しているものです。こうした過度の明るさ過敏症状は、一般には「羞明」(しゅうめい)と呼ばれています。

決して少ない症状ではないはずですが、今のところ様々な病気に現れる不定愁訴のひとつとして扱われているだけで、独立したひとつの病態としてカテゴライズされてはいません。

その理由について、若倉先生は、眼科的検査をしても異常がみられないこともあり、心因性や気の持ちようとみなされてきたのだろうと書いています。

従来、そんな状態は人間の身体(目)には起こりえないと医師たちは考え、そのような症例に出合っても、詐病(病気として偽る)や心因性などとして無視してきたのです。

多分、私も20年前は、その仲間であったかと思います。

検査で異常が出ないのに過度のまぶしさを訴える「羞明」症状はさまざまな病気に出現しますが、この記事で先生は、線維筋痛症や慢性疲労症候群、化学物質過敏症などとのつながりを指摘しています。

私がこの病気に注目しているのは、眼球そのものに問題はなくても、 眩 しさや目の痛みのために目を開けて見ることができない 眼球使用困難症候群 の重症例に、しばしば体の痛みが起き、線維筋痛症と診断されている例があるからです。

…また、線維筋痛症は、慢性疲労症候群や化学物質過敏症などと臨床症状に類似点が多いようで、これも、そういう解釈ができるということなのかもしれません。

確かに、わたし自身の経験に照らしてみても、周囲にいるこうした病気の患者たちのうち、全員が全員ではないものの、過度のまぶしさや音過敏などの感覚過敏を抱えている人たちが数名思い浮かびます。

これらの病気も、やはり、一般的な検査で異常が出ることが少なく、長らく心因性、詐病、気に持ちようなどと言われ、患者たちが苦しめられてきた歴史を持っており、検査に出ない眼球使用困難症候群との類似性があります。

たとえば最近の記事で、小学校のころに線維筋痛症を発症した男性の経験談が取り上げられていました。

ガガさんと同じ「線維筋痛症」 一宮の闘病男性が歌自作 | 1面 | 朝夕刊 | 中日新聞プラス

 小学四年のころ、体に異変が現れた。慢性的な頭痛や肩こりに悩まされるようになり、痛みが出てきた。だが、病院では「心の問題」とだけ指摘された。

 中学になると痛みは広がり、学校も休みがちに。病気をうまく説明できず、同級生に仮病扱いされた。小児科などに通い、漢方薬の治療やカウンセリングを受けた。「痛みだけでなく、痛みを理解してもらえないことがつらかった」

線維筋痛症に限らず、検査に出ない異常を抱える人は、みなこのような苦悩を経験してきたことでしょう。

先ほどの記事で、若倉先生は、検査に異常が出ない明るさ過敏、線維筋痛症、慢性疲労症候群、化学物質過敏症などの共通項として、次のような特徴を指摘しています。

 いずれも感覚系が過敏な状態にあり、感覚をコントロールする神経機構に不調が存在するという共通項があります。

言ってみれば、明るさ、まぶしさといった光刺激に過敏なのが今回取り上げている眼球使用困難症候群であるのに対し、慢性疲労症候群では「疲労」に、線維筋痛症は「痛み」に、化学物質過敏症は「におい」に過敏であるといえます。

こうした病気は、いずれも中枢性過敏症候群(中枢感作症候群:CSS)という感覚過敏の症候群の概念に含められています。

CSSに含まれる病気は、いずれも刺激そのものが過剰なわけではありません。

たとえば、眼球使用困難症候群の患者は、日中、他の人が普通に出歩いているような明るさの場所でも外出が困難です。

慢性疲労症候群では、疲労因子FFの測定をしても、実際には身体は休まっているという結果が出るようです。人並み外れた過労状態にあるわけではないのに、疲労を敏感に感じ取ります。

最近の研究によって慢性疲労症候群(CFS)について分かった8つのこと
2011年の疲労学会で発表された研究成果をもとに、慢性疲労症候群(CFS)について分かったことを、8つのポイントに分けて紹介しています。

線維筋痛症でも、やはり刺激が過度に強いわけではないのに、衣服が触れただけ、風が吹いただけで激痛を感じるアロディニアが見られます。

風が吹くだけで激痛が走る「アロディニア」のメカニズム解明―アストロサイトが異常な神経回路を造る
線維筋痛症などに伴う異常な慢性疼痛「アロディニア」の発症メカニズムが解明され、アストロサイトという細胞が神経ネットワークを作り変えていることがわかったそうです。

化学物質過敏症もまた、基準値以下とされるにおい刺激を強く感じ取ったり、ブラインドテストをすると本人の意識が気づけないような微量の化学物質に対して、身体が敏感に反応したりします。

水城まさみ先生による化学物質過敏症(CS)が難治化する原因
化学物質過敏症(CS)の重症化の要因や検査について書かれています。

いずれも、他の人から見れば、まったく問題にならないような微量な刺激を気にしすぎているように見えてしまうので、周りから理解が得られず、仮病や心理的なものだとみなされてきた、という点で一致しています。

「医学の力不足であって、あなたの気の持ち様などではない」

では、これらの症状はみな気の持ちようであり、気にしすぎる性格を直せばよくなるような、実態のないものなのか。

決してそのようなことはありません。

「気のせい」「心因性」といった言葉が意味するところは、もとをたどれば心身二元論に行き着きます。身体的な異常が検出されないなら、それは実態なき心の問題だと主張しているからです。

現代の科学の進歩を考えれば、わざわざ説明するまでもないことのように思えますが、いまだに、心と身体は別物であるかのようにみなす人たちがいます。

脳科学の研究により、かつては「こころの問題」とされてきたような病気でも、必ず脳科学的な基盤があることが明らかになってきました。

不登校の子どもや、機能不全家庭で傷ついた子どもでさえ、傷ついているのは「心」などという得体のしれないものではなく、脳、さらにいえば物質から作られている身体であることがわかっています。

トラウマや愛着でさえ、生物学的な基盤が解明されつつある今この時代に、身体を別にした「心の問題」などというものを語るのはナンセンスであり、まっとうな医学でさえありません。

虐待も不登校も「心の問題」ではなかった 
発達途上にある若い時期に、慢性的に異常な環境に置かれるなら、脳に“いやされない傷”が刻まれる。小児慢性疲労症候群(CCFS)と児童虐待の問題には共通点があります。最初のエントリでは
だれも知らなかった「いやされない傷 児童虐待と傷ついていく脳」(2011年新版)
子どもの虐待は、近年注目を浴びるようになって来ました。しかし、虐待が脳という“器質”にいやされない傷を残すことを知っている人はどれだけいるでしょうか。友田明美先生の著書「いやされな
身体に刻まれた「発達性トラウマ」―幾多の診断名に覆い隠された真実を暴く
世界的なトラウマ研究の第一人者ベッセル・ヴァン・デア・コークによる「身体はトラウマを記録する」から、著者の人柄にも思いを馳せつつ、いかにして「発達性トラウマ」が発見されたのかという

それと同時に、現在の医療は決して万能のものではありません。わたしたちは数世紀前の文明の医療を未熟だと思っているかもしれませんが、現代の医療もはるか未来から見れば非常に原始的なレベルにすぎません。

ガンをはじめ、治療できない病気がこれほど多くあるのに、検査できない病気はひとつもない、と考えるのはひどくばかげたことです。

現時点では治療できない病気があるのと同様、現時点では検査で異常を見つけられない病気も山ほどあるとみなすのは、至極まっとうな考え方です。

つい先日も、これまで一般的な検査で異常が見られなかった新しいタイプの腎炎が発見されたというニュースがありました。検査に出ないからといって「心因性」「気のせい」といったレッテルを貼る医師は、いずれ医学が進歩したときどう言い訳するのでしょうか。

福井大:新たな腎炎発見 見逃された患者発掘も - 毎日新聞

そのようなわけで、不登校と子どもの慢性疲労症候群を専門とする三池輝久先生は、不登校外来ー眠育から不登校病態を理解するの中で、検査で異常のでない症状を安易に心の問題とみなすことを批判して次のように書いていました。

筆者としては安易に“こころの問題”などという言い方をやめるべきだと思っている。

“こころ”とは「そう簡単に科学されるようなもののではない」、あるいは「科学を超えるものだ」という意見も承知しているが、深い意味があるゆえに軽々しく“こころの問題”ということはやめたいと思う。

いつまでもあいまいにしたままで、責任を受診者のこころの脆さにあるかのように説明するのは小児科医として納得できない。

少なくとも、「今、私たちの知識や力ではあなたの訴えや問題を科学的に十分解説することはできないが、そのうちに私たちがもっと勉強すれば明確に説明できる日が来ると考えています。

医学の力不足であって、あなたの気の持ち様などではないと考えています」と伝えるべきだと思う。

これらの自律神経機能を背景とした不定愁訴の問題は比較的表にみえるものであるが、その他にも深く潜行する医学生理学的問題点が多く存在する。

腎疾患に対しては腎機能を、肝疾患に対しては肝機能を評価しなければ診断にはつながらない。

“こころの問題”を気持ちの持ち様であると受診者に丸投げして深く追求することをせず、匙を投げて、何一つ評価システムを持たないのであれば、“こころ”の診療などできるはずがない。(p23-24)

ここで述べられているように、検査で異常が出ない、というのは、「気の持ちよう」だという意味では決してないのです。それはむしろ、「医学の力不足」を意味しているにすぎません。

以前の記事で、若倉雅登先生は、「心因性」というのは医学用語どころか、異常を発見できない医師が患者をゴミ箱行きにする世迷い言にすぎないと述べています。

「心因性」は医学的用語?「キツネが憑いた」と大差なし : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

心因性とはいっても、特定の心因があって病気を起こしていることを証拠だてることはできるはずはなく、ただ、視機能低下を説明できる病変が見つからない場合、「心因性」として、いわばゴミ箱に整理してしまうのです。

 「心因性」はいかにも立派な医学的用語に見えますが、何らそのメカニズムは語られておらず、昔の人々が言った「キツネが憑いた」というのと大して変わらない言葉だと私は思っています。

そして、「心因性」とみなされていたある視覚異常をもつ患者について、何十年も追跡調査して詳細な検査を行い、最新の検査機器で確かに異常を探り当てたことを述べています。

 私は彼の状態を、当時の医学の検査法、診断法のレベルでは検出できない異常が隠れている視機能低下だと考えて、その後20年以上追跡してきました。

その間、だんだん視力低下は進み、ついに冒頭のように富士山も見えなくなっています。

 今もって、眼底検査では正常ですが、この間に進歩したOCTや網膜細胞の神経活動の様子をとらえる電気生理検査でわずかな変化が捉えられ、錐体ジストロフィーという病名をつけるに至りました。

今回の記事のテーマである「眼球使用困難症候群」のような感覚過敏も同様で、従来の眼科的検査で異常がないという事実は、そこには未知のメカニズムがひそんでいることを意味しています。

記事で呼びかけられているように、同様の症状を持つ患者たちが名乗りを上げ、病態としての概念ができ、専門的な調査が開始されれば、やがて見逃されていた実体ある原因が明らかになるときが必ず訪れるでしょう。

感覚異常の原因はどこに?

現時点では、まだ研究が十分進んでいないため、眼球使用困難症候群の原因について、確かなことは何も言えません。

しかしそれでも、このブログで過去に扱ってきた内容のいくつかは、手がかりを与えているように思います。

生まれつきの感覚過敏―ASDとHSP

眼球使用困難症候群のような極度の感覚過敏の原因として、まず思い浮かぶのは、自閉スペクトラム症(ASD)です。

ASDはかつてコミュニケーションや社会性の障害だと思われていましたが、近年、テンプル・グランディンやドナ・ウィリアムズをはじめとした当事者たちの自伝を通して、おおもとの原因が感覚過敏にあるのではないか、ということがわかってきました。

その経緯について、今年発売された  自閉症と感覚過敏―特有な世界はなぜ生まれ、どう支援すべきか?には次のように整理されて書かれていました。

感覚とは人々の内にあって外からは捉えにくいものである。

だから感覚過敏の問題が人々によく知られるようになったのは1990年代になって、自閉症の当事者が自伝を著し、内に抱えている問題について詳しく語るようになってからである(ウィリアムズ 1993、グランディン 1994など)。

…感覚過敏があると、先に述べたように、刺激に対する反応が大きくなり、好きな物は非常に好んで求め、嫌いな物は恐れて避けるようになる。

また、強い感覚を伴う経験の記憶が強まる一方で、感知しなかった刺激に対しては鈍感になる。

…だから、感覚過敏があると、外界の捉え方が通常と異なり、行動の仕方も通常と異なってくる可能性がある。すると、人々と共に生活することや学ぶことがむずかしくなってくる可能性がある。

だが、人間は他の人々とかかわることなしで発達することはできない。ことばを学び、人々とコミュニケーションができないと、社会に参加することができなくなる。

だから、感覚過敏は発達全体に影響を及ぼす可能性をもつものであり、それだけを単独に取り出して対処法を検討するだけではすまないものになっているのである。(p iv)

自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)によれば、テンプル・グランディンは、自分の体験を振り返って、自閉スペクトラム症の人たちは強烈な感覚過敏を抱えているのに、通常の検査でそれがわからないために、不可解な異常行動をしているように見えてしまう、ということを明らかにしました。

続いて彼女は、障害の根幹にかかわる知覚過敏をとらえるにあたり、既存の経験に基づく方法では不十分であると指摘した。

子どものころに受けた聴覚検査では、グランディンは聴力に何の異常も見つからなかったけれども、「耳に『超大音量の』補聴器をくっつけられた」みたいにある種の音で攻めたてられていたのだと表現した。

彼女の説明によると、幼い頃に教会でしょっちゅう不作法なふるまいをしたのは、日曜日に無理やり着せられる不慣れなペチコートやスカートやストッキングが、肌にチクチクしたからであった。(p553)

当事者たちの告白を通して、これまでASDの特徴と思われていたコミュニケーションの弱さや、こだわりの強さ、かんしゃく、優れた記憶力などは、それぞれ別個の症状として独立しているのではなく、すべて感覚過敏から派生しているのではないか、ということがわかってきたのです。

このブログで取り上げたところでは、たとえば、視覚刺激が強すぎるために、人の目を見て話すのが難しかったり、聴覚刺激が強すぎるために会話が心地よく感じられなかったりして、コミュニケーションに関わる脳機能の発達が妨げられる可能性が示唆されていました。

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そのASDの感覚過敏のなかに、強い明るさのコントラスト過敏などの視覚症状が含まれていることがわかり、ASDの視覚世界を体験できるヘッドセットが開発されたことは、以前に取り上げたとおりです。

自閉スペクトラム症の独特な視覚世界を体験できるヘッドマウントディスプレイを大阪大学が開発
自閉スペクトラム症の視覚世界を体験できる装置が開発されたそうです。

また、おもに女性のASDについての調査では、さまざまな感覚過敏が見られるとともに、学童期に慢性疲労症候群や線維筋痛症といった原因不明の体調不良を発症しやすいことも示唆されています。

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それで、明るさ過敏を含めた「感覚をコントロールする神経機構に不調が存在する」原因が、生まれつきの自閉スペクトラム症にあるケースは十分に考えられるでしょう。

以前も紹介しましたが、こちらの アスペルガー症候群・高機能自閉症における「感覚の過敏・鈍麻」 の実態と支援に関する実態調査のPDFのp299-308には、アスペルガー症候群を対象とした感覚過敏の調査リストが掲載されています。

さっと見てみるだけでもものすごい数の項目があり、きっと今まで考えたこともないような感覚過敏があることに気づくと思います。感覚過敏という分野が、いかに複雑なのに、これまでまともに研究されてこなかったかが一目瞭然です。

また、自閉スペクトラム症とは別に、近年注目されている別のタイプの感覚過敏としてHSP(Highly Sensitive Person)があります。

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こちらはさまざまな刺激を深く処理する傾向があり、うつ病や不安障害などとも関係するセロトニントランスポーター遺伝子や、ドーパミンD4受容体遺伝子の多型が関係するとも言われています。

こうした遺伝子の多型は、良くも悪くも環境からの影響を強く受ける“感受性の遺伝子”だとされていて、環境に恵まれればより良く適応できるのに対し、ストレス状況下では、人より強い負担を感じてしまいます。

HSPの人たちも、光や音、においなどへの感受性が強いことが多く、とりわけ慢性的なストレスにさらさられている場合には、さまざまな刺激に対して過敏に反応してしまう傾向があるでしょう。

光の感受性障害アーレンシンドローム

今回テーマとしている「眼球使用困難症候群」は、「眼球は正常なのに、強烈な眩しさのために目を開けられない、目を開けると強い痛みが出て開け続けられないといった症状」だと定義されていました。

この説明から思い出されるのは、このブログで過去に取り上げた、光の感受性障害「アーレンシンドローム」という症候群です。

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アーレンシンドロームを提唱したヘレン・アーレンは、 アーレンシンドローム: 「色を通して読む」光の感受性障害の理解と対応の中で、自閉スペクトラム症や慢性疲労症候群、線維筋痛症などに同様の症状が見られることを書いていました。

おそらく、アーレンシンドロームと眼球使用困難症候群は、互いにオーバーラップしている概念で、重なり合う領域を扱っているとみなして差し支えないと思われます。

違いはといえば、アーレンシンドロームは学習障害の研究過程で発見された経緯があり、読み書き困難(ディスレクシア)との関係が中心に研究されてきたのに対し、眼球使用困難症候群は、もっと強い苦痛を伴う明るさ過敏に軸足を置いていることです。

アーレンシンドロームによる学習障害を持つ子どもの場合、自分の症状の原因が明るさやまぶしさだと自覚していないことが多く、保護者や教師がその徴候に気づいてあげることが必要です。

どちらかといえば、典型的なアーレンシンドロームの人たちは、物心つく前から明るさ過敏が強く、その状態があまりにも普通なので感覚が麻痺してしまい、何が異常なのかはっきりと気づけていない傾向があるかもしれません。

他方、眼球使用困難症候群の症例として挙げられていた人たちは26歳から67歳の成人で、みな明るさ過敏の問題を強く自覚している人たちでした。子どものころから感覚過敏があったのか、ある時点から二次的に過敏性が強くなったのかはわかりません。

また、アーレンシンドロームは、単なる光の感受性障害ではなく、特定の色に対する感受性が強すぎるという特徴もありました。どの色に感受性が強いかは人によってまったく異なるため、厳密なフィッテングテストで最も効果のある色のメガネが作成されます。

そのため、アーレンシンドロームの人たちは、それぞれ個別の色付きメガネをかけることになりますが、メガネの色は濃いものから薄いものまでさまざまです。ほぼ真っ黒のサングラスをかける必要のある人もいれば、一見おしゃれな色付きレンズをかけるだけでよい人もいます。

それに対し、眼球使用困難症候群は、特定の色というより、光そのものに対する感覚過敏のように思われます。

重症になると、「部屋を暗くして両眼を閉じ、それだけでは足りずにアイマスクや遮光眼鏡をかけ、外光が入る部屋ではカーテンや帽子が欠かせない」ほどになるとのことでした。

ここまで光過敏が強すぎるからこそ、アーレンシンドロームの子どものように原因がわからない、というようなことはなく、はっきり光が苦手だと自覚せざるを得ないのかもしれません。

とはいえ、眼球使用困難症候群のために真っ黒な遮光眼鏡をかけている人でも、アーレンのフィッティングをすれば、実際には特定の色への過敏性が強いことがわかるかもしれません。そうする選択肢がなかったために全色遮光をしている可能性もあります。

アーレンシンドロームも眼球使用困難症候群も、定義上はそこまで明確な区別はされていないので、現時点でははっきりとした切り分けはできないのではないかと思われます。

ところでアーレンシンドロームや眼球使用困難症候群は眼科的検査に異常が出ないのが特徴ですが、近年、視力以外の視知覚機能が注目されています。

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 たとえば両眼立体視機能や眼球運動機能は、一般の眼科ではテストされませんが、検眼医(オプトメトリスト)のいる施設で検査を受けると、普通の検査では出なかった異常が見つかることがあります。

眼科検診では正常なのに、学校での成績が振るわなかったり、不器用すぎたりする発達障害や学習障害の子どもは、両眼視機能の問題を抱えているケースが多いようです。

こうした多角的な観点から検査することで、従来あまり顧みられてこなかった高次の視覚機能の異常が見つかる場合もあるかもしれません。

交通事故や病気による脳損傷

眼球使用困難症候群を提唱している若倉雅登先生と、アーレンシンドロームを提唱しているヘレン・アーレンは、いずれも、外傷後のむち打ち症(脳脊髄液減少症)や軽度外傷性脳損傷に光過敏症が生じることがあるとも述べています。

前に扱ったように、外傷性脳損傷の子どもたちに見られる高次脳機能障害は、能力が低下したというよりも、さまざまな刺激に対して過度に敏感になってしまったことが原因のようです。

「子どもたちの高次脳機能障害-理解と対応」に配慮する教え方
高次脳機能障害を抱えた子どもとコミュニケーションを図り、上手に教えるにはどうすればいいでしょうか。後天性脳損傷、特に軽度外傷性脳損傷について書かれた「子どもたちの高次脳機能障害―理

こうした症状は、外傷性に限らず、様々なかたちの脳損傷で起こりうるものだと思われます。

たとえば以前に脳卒中から生還した科学者ジル・ボルト・テイラーの経験談を取り上げましたが、彼女は左脳の脳卒中の直後、光や音が異常に大きく耐え難くなりました。

脳卒中から生還した科学者が語る「奇跡の脳」―右脳と左脳が織りなす不思議な世界
37歳で突如脳卒中に倒れ、左脳の機能を一度失い、リハビリによって再び科学者に復帰したジル・ボルト・テイラー博士の体験談「奇跡の脳」から、右脳の左脳の役割の違いや、アスペルガー症候群

また、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線という本には、良性の脳腫瘍のために脳外科手術を受け、その後遺症として脳損傷を負ったガブリエルという女性の次のような体験談が出ています。

脳損傷を負った人にありがちなのだが、音は彼女に特殊な問題を引き起こした。

音が耐えられないほど大きく聴こえ始めた彼女は、あらゆる音に極度に敏感になった。

有線放送の音楽がひっきりなしに流され、喧騒と不協和音に満ちたショッピングモールに出かけると、気が狂いそうになった。(p212)

また、交通事故によって外傷性脳損傷を負った別の女性ジェリについても、次のように語られています。

彼女は小さな音にも敏感になり、ナイフやフォークや皿の立てる音に驚いてしまい、食事をすることさえ困難になる。

さらに悪いことに、一度でも物音に驚くと、過剰反応はとどまるところを知らなかった。

「誰かが少しでも物音を立てると、みんなは私をなだめなければならなくなりました。私はひきつり、抑え切れずにすすり泣いてしまうようになり、眠る以外にそれを止める方法はなかったのです」。

光にも過敏になった彼女は、暗い部屋にこもらなければならなかった。それはあたかも、彼女の脳が音、動き、光、あらゆる種類の混乱を濾過できなくなったかのようで、それを無理に正そうとするとひどい頭痛に襲われた。

この状況では並行作業を行なうことなどもってのほかだった。(p385)

彼女の場合、事故の後遺症によって、両眼視機能にも異常が生じました。前述のように、発達障害ではときに通常の検査では出ない両眼視機能の異常が見られる場合がありますが、脳損傷でもやはり両眼視機能の異常がしばしば生じます。

彼女は走行中、地面の状況を感じ取ることができなくなった。だからたとえば、坂を歩いているとき、彼女は、「上り」「下り」などと叫んで、転倒しないよう注意させる必要があった。

絨毯の模様や活字は動いて見えた。両目の輻輳(対象をとらえる際に両目が連動すること)を司るシステムが機能不全に陥ったために、目の焦点を合わせられず複視が生じた(外傷性視覚症候と呼ばれる)。(p386)

いずれの場合も、ASDやHSPのように生まれつき過敏性があったわけではなく、典型的なアーレンシンドロームのように子供時代から明るさ過敏で苦労していたわけでもなく、病気や事故で脳を損傷した後、後天的に過敏性や視機能異常が現れました。

この本によれば、そのとき脳に起きていたのは、感覚の統合障害だとされています。

損傷した脳は、入ってくるさまざまな感覚刺激を統合できなくなることが多々ある。

…脳の感覚領域が損なわれると、その領域のニューロンはいとも簡単に発火を始め、その人は感覚に圧倒されているように感じるのである。

感覚系は、外部の感覚入力によって興奮する興奮性ニューロンと、脳が圧倒されない程度に適量に感覚刺激を取り込むべく入力を抑える抑制性ニューロンから成る。

(たとえば、目覚まし時計が鳴ると、興奮性ニューロンが発火するために脳は強く刺激される。しかし刺激があまりにも強い場合、圧倒されないよう「ボリュームを下げる」抑制性ニューロンを備えていたほうが都合がよい)。

抑制性ニューロンが損なわれると、その人は感覚の過負荷を経験し、実際に危害を被ることもある。(p215)

脳に入ってくる刺激は、通常、「興奮性ニューロン」を発火させ、「抑制性ニューロン」で適度に調整されることで統合され、ちょうどよいレベルのボリュームに加工されます。

ところが、先天的にこの機能がうまく働いていないのがASDの人たちであり、後天的に この統合機能が損なわれてしまったのが、先ほどの脳損傷の人たちだということになります。

この本の中では、こうしたタイプの感覚過敏を治療する方法として、PoNS(ポータブル神経調節刺激器)という装置が試されています。

PoNSは、ウィスコンシン大学の「触覚コミュニケーションと神経リハビリテーション研究室」によって開発された興味深い装置で、口の中に含んで、電気刺激を舌に与えることで、脳に刺激を送り、ニューロンの働きを調節することを目的としています。(p353)

舌は身体のあらゆる器官のうちでもっとも鋭敏な器官のひとつであり、舌の背後には脳幹に直接接続する脳神経系があることを利用しているといいます。

研究チームでは、PoNSを口に含んで脳に神経パルスを送りながら、一人ひとりの症状に応じた適切なリハビリに取り組んでもらうことで、リハビリの効率を高め、脳損傷や神経疾患の回復に成果を上げているそうです。(p358-359)

脳の損傷による感覚過敏と言うと、ちょうど事故で手や足を失った場合のように、まるで取り返しのつかない不可逆的なものであるかに思えてしまうかもしれません。

しかし、この本は、さまざまな研究成果を通して、もっと前向きな見通しをはっきり示しています。

PoNSを開発したウィスコンシン大学「触覚コミュニケーションと神経リハビリテーション研究室」の創設者ポール・バキリタは、「脳の神経可塑性を動員する治療を最初に指示した一人」ですが、晩年、次のような論文を発表しました。(p354)

ポールによる最後の業績の一つは、「2パーセントの神経組織が残存するだけでも機能を回復できるか?」と題する論文である。

この論文で彼は、それまでの自分の業績に加え、人間や動物を対象に行なわれた他の著者による業績を再評価し、興味深い一致を見出している。

父ペドロは、大脳皮質から脳幹を経て背骨に至る神経の97パーセントを失った。また、シェリルは、医師の診断によれば前庭器官の97.5パーセントにダメージを受けていた。

さらに他の症例は、神経組織の2パーセントが残存していただけでも、失われた機能の回復が可能であることを示していた。

ポールはペドロに関して言えば、リハビリテーションによって「負傷以前は回復した機能と特に関係のなかった既存の経路が有効化(アンマスク)された」という理論を立てた。既存の経路の有効化は、神経可塑的な再配線を説明する。(p370)

数多くの研究が一致して示すところによれば、脳はわずか2パーセント残っているだけでも柔軟に適応して機能を取り戻すことが可能です。

ここに出ている、ポール・バキリタの父ペドロの例については、別の本 脳は奇跡を起こすに次のように詳しく書かれていました。

1959年、65歳になるポールの父ペドロは脳卒中に見舞われ、顔と半身が麻痺し、話すことができなくなった。医師はポールの兄ジョージに、回復の見込みはないと告げた。

医学部の学生だったジョージは、「変化しない脳」という教義を叩き込まれるにはまだ若かった。だから彼は、先入観を持つことなく父の治療を開始した。集中的かつ段階的な脳と動作の訓練を二年間毎日続けると、ペドロは完治したのである。

ペドロが72歳で登山中に死亡した際、ポールが父の検死解剖を要請したところ、脳幹の主要経路の神経の97パーセントが破壊されていることがわかった。

このときポールは一つの洞察を得た。ペドロの行なった訓練は、脳を再配線、再組織化し、脳卒中による損傷を迂回する新たな処理領域や結合を形成したのだと思い至ったのである。つまり、高齢者の脳でさえ可塑的なのだ。(p366)

65歳のときの脳卒中であっても、さらには脳幹の神経の97%が破壊されていても、ペドロは72歳で死ぬ直前、登山を楽しんでいるほどに回復していたのです。

前述の脳卒中で倒れ、ひどい過敏性に悩まされるようになったジル・ボルト・テイラー博士も、やはりリハビリによって見事回復し、体験記奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)を書き、今ではTEDで自分の経験をパワフルに語っているほどです。

回復のために重要なのは、どれほど脳損傷が重いかということよりも、脳の可塑性を引き出すために最適化された必要な専門医療(たとえばPoNSや拘束運動療法〈CI療法〉など)を受けられるかどうかなのです。

トラウマ条件付けによる「学習された痛み」

このブログで繰り返し扱ってきたトラウマ後の後遺症でも、感覚過敏は極めて頻繁に生じます。

じつは、トラウマ後の後遺症として最も有名なPTSD(心的外傷後ストレス障害)も、中枢性過敏症候群(CSS)に含まれている概念のひとつなので、慢性疲労症候群や線維筋痛症と近縁の病気だということになります。

トラウマの中には、幼少期の虐待や犯罪被害、機能不全家庭での不適切な養育が含まれますが、広い意味では、病気の手術や、災害、事故などの壮絶な経験も含まれています。

その意味では、交通事故や外傷後の軽度外傷性脳損傷と呼ばれているものの中には、トラウマ障害に該当するものも数多く存在していると思われます。

いずれの場合も、緊急事態を経験した脳が、危機が去った後でも警戒を解くことができず、永遠にサバイバル状態が続いていることで過敏性が生じます。

だれしも危機的状況下では、脳は過敏状態になります。たとえばいつ猛獣に襲われるかもしれないジャングルで一夜を過ごすとしたら、一晩中、物音に敏感に反応してしまうことでしょう。

トラウマ障害とは、あたかも戦時下で生きているかのように脳が適応してしまうことで生じるものなので、トラウマの専門家ベッセル・ヴァン・デア・コークによって「サバイバル脳」と呼ばれています。

人への恐怖と過敏な気遣い,ありとあらゆる不定愁訴に呪われた「無秩序型愛着」を抱えた人たち
見知らぬ人に対して親しげに振る舞いながらも、心の中では凍てつくような恐怖と不信感が渦巻いている。そうした混乱した振る舞いをみせる無秩序型、未解決型と呼ばれる愛着スタイルとは何か、人

このとき、脳では過剰な条件付けによる学習が起こっていると考えられています。

条件付けというと、餌やりの合図を聞くだけでよだれを垂らすようになったパブロフの犬の条件反射を思い浮かべる人もいるでしょう。

トラウマ障害では、特定の刺激が強く脳に刻まれることで、その刺激と身体の反応とが結びついてしまう、「身体の記憶」が形成されます。

たとえば、ちょっとしたトラウマを想起させる音を聞くたびに、冷や汗が出たり、パニックになったりすることもあれば、特定の場所に行くだけで、あるいはそれを思い起こさせるような雰囲気を感じ取るだけで、身体が硬直したり動けなくなったりします。

特定の音やにおいや雰囲気は、もともと身体症状とは何の関係もないはずですが、脳の中でセットになって結びついてしまい、片方が起こるともう片方が自動的に誘発されてしまうようになるのが条件付けなのです。

このメカニズムは、線維筋痛症などの慢性疼痛にも関係していると考えられており、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で「学習された痛み」と呼ばれています。

たとえば椎間板ヘルニアになり、椎間板が神経根を繰り返し圧迫するようになると、その領域に対応するペインマップは過敏になり、おかしな動きによって椎間板が神経に当たったときのみならず、椎間板がそれほど神経を圧迫していないときでも痛みを感じるようになってしまう。

…モスコヴィッツは、慢性疼痛症候群が発達し、脳が悪循環に陥っていることに気づく。激痛が走るたびに、彼の可塑的な脳はいっそう敏感になり、次に痛みを感じたときには、その強度がさらに増したのである。

こうして、痛覚信号の強度、痛みの持続時間、痛みが身体に「占める」範囲のすべてが増大していった。

…モスコヴィッツは、慢性疼痛を「学習された痛み」と定義している。

慢性疼痛は疾病の徴候を示すだけではなく、身体の警報システムが「オン」になったままになってしまう。こうして「ひとたび痛みが慢性化すると、その治療はさらに困難になる」。(p34-36)

条件付け反応のトリガー刺激と症状の結びつきは、その経験を繰り返すたびに増強され、強化されていきます。いわば、反復学習をしているようなものだからです。

幼少期のトラウマによって線維筋痛症が発症するケースがあることが知られていますが、その場合、たとえば次のような「学習」が生じているかもしれません。

養育者や隣人に繰り返し怒られたり、恥をかかされたりする。そのたびに緊張して身体をこわばらせることを繰り返す。

それを何年も何年も毎日無意識のうちに幾度となく繰り返していると、やがて怒られるときだけでなく、その人の顔を見たり声を聞いたりするだけで条件反射的に身体の筋肉が緊張してこわばるようになる。

さらに繰り返すうちに、その人に似た顔を見たり似た声を聞いたりするだけで反応するようになる。ヒトを含め、生物は生存率を高めるために、たとえば特定の毒ヘビに危害を加えられたとき、その毒ヘビだけでなく、似た形のものすべてに反応して身を守るようできている。

やがて、四六時中、身体が緊張して身構えたままになってしまう、昼間だけでなく一日中、筋肉がこわばったままになると、血行が悪くなり、筋肉がけいれんして痛みを起こすようになる。そして慢性疼痛が発症し、時とともにどんどん学習が強くなり、強化されていく。

この説明からわかるように、トラウマ障害とは、厳密に言うと、「障害」というより、過剰すぎる「適応」また「学習」なのです。

以前の記事で考えたように、同様のことは、おそらく不登校の慢性疼痛症候群や、化学物質過敏症でも生じていると思われます。

特定の場所(学校など)や特定のにおいで経験した強い不快な刺激が、最初は一過性の自律神経反応を引き起こすだけだったのが、繰り返し経験しているうちに結びつきが強化されていきます。

そうするうちに、トリガーの種類が増えて汎化・拡散していき、四六時中、さまざまなものに反応して、一日中不快な症状が誘発される体質になってしまうのでしょう。

とりわけ、幼少期に衝撃的な経験をして、それがあまりに慢性的に続いたがゆえに、脳が常時サバイバル状態に適応して発達してしまうと、学童期にはADHDのような多動性や衝動性を示し、ときにASDのような感覚過敏も抱えるようになります。

あまりに感覚過敏が日常的になりすぎてしまうと、今度は意識から切り離される解離が生じるので、感覚過敏の対極にある感覚鈍麻も起こります。

これら一連の症状は発達性トラウマ障害(DTD)と呼ばれており、若くして様々な心身の原因不明の異常を抱える人たちにしばしば見られます。

発達性トラウマ障害(DTD)の10の特徴―難治性で多重診断される発達障害,睡眠障害,慢性疲労,双極II型などの正体
子ども時代のトラウマは従来の発達障害よりもさらに深刻な影響を生涯にわたってもたらす…。トラウマ研究の世界的権威ヴァン・デア・コーク博士が提唱した「発達性トラウマ障害」(DTD)とい

また、前述のように、生まれつき感受性の強いHSPの人は、良くも悪くも環境を敏感に反映する遺伝的素質を持っているとされています。これは言い変えれば、適応する力、学習する力が高いということです。

そのため、おそらくはHSPの人たちは、「学習された痛み」のような、過剰適応、過剰学習による過敏症状を発症しやすいのではないかと考えられます。

今回 線維筋痛症をカミングアウトしたレディー・ガガは、過去の性的被害によるPTSDや解離症状についてもカミングアウトしており、トラウマ後遺症としての過敏症状なのかもしれません。

レディー・ガガ、PTSDについて長文のテキストを公開。全文訳を掲載 | NME Japan

HSPには芸術的才能を持つ人も多く、アーティストとして成功することと、PTSDや線維筋痛症を抱えてしまうことは、どちらも同じ能力を土台としている可能性があります。

すなわち、生まれつきの遺伝的素質に由来するたぐいまれな適応力が、かたやアーティストとしての学習に、かたやトラウマ反応の学習に、いずれも無意識のうちに強力に作用したのかもしれません。

敏感な感受性の強さがあれば、アーティストとして独自の感性を発揮できるのはもちろんですが、同時に、人一倍、トラウマや中傷に傷つきやすく、恥やショックを反復して経験しやすいことをも意味しているからです。

HSPの人が知っておきたい右脳の役割―無意識に影響している愛着,解離,失われた記憶
HSPの子は右脳が活発、という知見にもとづき、右脳と左脳の役割や二つの記憶システム、愛着、解離など、HSPの人が知っておくと役立つ話題をまとめました。

こうした無意識の条件付けと条件反射によって引き起こされる慢性症状はひときわ厄介なものですが、この本では、視覚イメージや、フェルデンクライス・メソッドという手法を用いて、結びつきを解除する治療法が試されています。(p42,268)

フェルデンクライス・メソッドは、前に詳しく扱った身体志向のセラピーの一緒で、注意深く自己観察し、融合してひとまとまりになってしまった「身体の記憶」に気づき、無意識のうちに生じる条件反射を、意識的に別の反応へと置き換えていく手法です。

HSPの人が持つ「差次感受性」―違いに目ざとく脳の可塑性を引き出す力
敏感な人は打たれ弱く、ストレスを抱えやすい。そんなデメリットばかりが注目されがちですが、人一倍敏感な人(HSP)が持つ「差次感受性」という特質が、個人にとっても社会にとってもメリッ
「からだの記憶」の治療法―解離と慢性疲労のための身体志向のトラウマセラピー
解離やPTSDは「からだの記憶」によって引き起こされる「からだ」を土台として生物学的な現象である、という理解にもとづき、身体志向のトラウマ・セラピーについて考察しました。

視覚イメージを用いた技法もこれと同様のもので、ある刺激がトリガーとなって痛みが引き起こされているのに気づいたら、痛みに乗っ取られてしまう前に、意識的に特定のイメージを思い浮かべて、無理にでもそれを考え続けるようにします。

脳科学の見解によれば、痛みなどの過敏性に関係する脳領域と、視覚イメージを思い浮かべるときに用いる脳領域は互いに競合関係にあり、一方を働かせているときは他方が抑制されるため、学習された痛みを、学習された別の視覚イメージに置き換えることが可能になります。

痛みが始まったとき、引きこもって横になり、急速し、思考を停止し、自分の身体を保護しようとする自然な傾向を抑えたら、いったい何が起こるのだろうか?

モスコヴィッツの考えでは、脳は反対刺激を必要とする。つまり彼は、慢性疼痛を引き起こしている神経回路の勢力を弱めるために、対応する脳領域に痛み以外の処理を強制的に行わせればよいと考えたのだ。(p40)

これはいってみれば、激痛のときまともに考えられなくなることを逆手にとったものです。激痛を感じることと、頭を働かせることは同時にできないので、必ずどちらかがどちらかに打ち負かされます。

ふつうは激痛が打ち勝って、何も考えられなくなってしまうものですが、そこを強靭な意志力で視覚イメージを想起し続けることで、まったく逆の状態に持っていこうというわけです。

容易にわかることですが、この手法は一筋縄ではいかず、長い目で見られる動機づけ、意志力、集中力がなければ難しいことがわかっています。(p64)

この手法の実践が難しい人でも脳の条件付け学習を上書きできる治療法が模索されていて、たとえばVRを用いた治療が有望視されているようです。

最近のニュースでは、サイモンフレーザー大学の慢性疼痛研究所(Chronic Pain Research Institute -Simon Fraser University )で、ダイアン・グローマラ(Diane Gromala)らが、没入型VRを治療に用いて成果を上げていることが報道されていました。

Could a VR walk in the woods relieve chronic pain? - Health - CBC News

感覚過敏の2つのタイプ―「強すぎる」か「長すぎる」か

このように単に感覚過敏と言っても、その原因は多種多様で、治療法もまた多岐にわたります。

生まれつきの遺伝的素因と、その後の後天的な環境要因が複雑にからみあって、興奮性ニューロンと抑制性ニューロンのバランス異常が引き起こされているようです。

脳はいかに意識をつくるのか―脳の異常から心の謎に迫るという本には、興奮性ニューロンと抑制性ニューロンのバランスについて、もう少し詳しく説明されています。

神経活動は、神経の興奮と抑制のバランスによって成り立つ。

神経の興奮は、錐体ニューロンと呼ばれる特殊なニューロンと、神経伝達物質のグルタミン酸によって引き起こされる。

錐体ニューロンは、タイプの異なるニューロンである介在ニューロンと、神経の抑制を媒介する伝達物質ガンマ-アミノ酪酸(GABA)と密接に関連している。

つまり私たちが観察している神経活動は、ニューロンの興奮と抑制の、言い換えるとグルタミン酸とGABAの相互作用とバランスの結果なのである。(p190)

興奮性ニューロン(錐体ニューロン)を刺激するのはグルタミン酸であり、抑制性ニューロン(介在ニューロン)によってボリュームを調節するのはGABAです。

ちなみに、よく使用されるベンゾジアゼピン系などの睡眠薬はたいてい、このGABAの受容体を作動させて抑制性を強めることで眠気をもたらしています。

脳機能が損なわれ、これら神経伝達物質のバランスが変化してしまうと、感覚のボリュームが調整されず、過負荷に陥ってしまいます。

興奮性ニューロンと抑制性ニューロンは互いに協力して感覚刺激を適切に処理していますが、先ほどの脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によれば、そのバランス異常にはいくつかのタイプがあるようです。

まず、感覚のボリュームを抑制する抑制性ニューロンが死滅したり、機能不全に陥ったりすると、外傷性脳損傷後の光や音の過敏性のような症状が現れます。

脳の疾患は、この介在ニューロンに悪影響を及ぼすことが多い。脳細胞が生きているにもかかわらず、適量の神経伝達物質を生産できなくなる脳の疾患がある。

それに対し、脳卒中や脳損傷では、脳細胞は死ぬ。

いずれのケースでも、介在ニューロンによって構成されるシステムは、ホメオスタシスを維持できるよう脳の他の部位を支援する能力を失いかねない。

信号のレベルが低すぎて、脳が重要な情報を取りこぼすかもしれない。あるいは高すぎて信号が脳全体に広がり、本来刺激を受けるべきではないニューロンまで影響を受けてしまうかもしれない。

ジェリが音や光や動きに過敏になったとき、まさにこの現象が生じていたのである。(p408)

この場合に起きているのは、GABAが関与する抑制性ニューロンの機能低下であり、入ってくる感覚のボリューム調節ができなくなっている状態です。

前述のように、自閉スペクトラム症の人たちは、感覚のボリュームを調節して適度な大きさに調整することが生まれつき難しいようです。その結果、ある刺激は過剰すぎ、ある刺激は弱すぎるという極端な感覚過敏と感覚鈍麻が生じます。

近年の研究では、出生前の慢性炎症が自閉症の原因ではないかと言われていますが、マサチューセッツ工科大学が今月出した論文によると、炎症によりサイトカインが分泌されると介在ニューロンが減少することがわかっています。

後天的な脳損傷を経験した場合も、ときにこれと同様の状態に陥り、光や音、動きなどの刺激のボリュームを調整できず、過度に敏感になってしまいます。

先ほど出てきた脳卒中によって感覚過負荷になったジル・ボルト・テイラーも同様の状態にあったと思われますが、彼女の場合、失われたのは左脳の機能でした。

31歳で天才になった男 サヴァンと共感覚の謎に迫る実話という本によれば、自閉スペクトラム症やサヴァン症候群で感覚過敏が起こるのは、左脳のフィルター機能に異常が生じるからではないかとされています。

スナイダー博士や他の専門家たちも、脳が検知した生感覚データの多くをフィルタリングにかけ、排除しているのは左脳だと言っている。

だから、脳の左側に問題が起これば、そのフィルタが故障する可能性がある。

英国王立協会発行の学術論文誌、フィロソフィカル・トランザクションズ誌に発表された2009年の論文で、スナイダー博士は、この故障が起こると、フィルタに排除されなかったものに意識が気づくと主張している。(p256)

おそらく、感覚の入力を担っているのは右脳で、感覚の調整を担っているのは左脳なのでしょう。

先天的に左脳のボリューム調整機能に問題があるのが自閉スペクトラム症であり、後天的に脳損傷などを経験した場合も同様の問題が生じ、「フィルタに排除されなかったものに意識が気づく」、つまり、本来意識されないはずの明るさや音や痛みなどに敏感になってしまうのだと思われます。

これらは、感覚のボリュームを調整する抑制機能の問題ですが、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の続く説明によれば、別のタイプの感覚過敏もあります。

それは感覚が「強すぎる」のではなく、感覚が「長すぎる」タイプの感覚過敏で、例として慢性疼痛に関連づけられています。

また信号が長すぎて、後続の信号と混ざり合い、どちらの信号も不明瞭になってシステムにノイズを引き起こす場合もある。

慢性疼痛症候群に見られるように、(わずかな動作によって、何時間あるいは何日も続く痛みが引き起こされる)、神経回路が過敏になり、それ自身をオフにできなくなることもある。(p408-409)

こちらの場合は、感覚刺激によるニューロンの興奮は、極端に大きくなりすぎるわけではありません。ボリューム調整のメカニズムはしっかり働いていて、適度な大きさに調整されてはいます。

しかし、本来時間が経てば弱まるはずの興奮が収まらず、長々と持続し続けます。たとえボリュームがそれなりに調整されていても、痛みや疲労、明るさ、音が延々と続くのは極めて苦痛です。

これは、感覚刺激のボリューム調整が働いていない自閉スペクトラム症とは別タイプの感覚過敏であり、メカニズム的にはHSPと近いのかもしれません。

HSPの感覚過敏は、ひとつにはセロトニントランスポーター遺伝子の多型がベースにあるのではないか、ということでしたが、HSPにみられるトランスポーター遺伝子の型は、神経伝達物質を運び去る機能が弱いタイプのものです。

脳科学は人格を変えられるか?によれば、この型の遺伝子を持っている人は、感情や刺激を伝える神経伝達物質が、長らく同じ場所にとどまり続けてしまうため、一度の刺激で興奮性ニューロンの発火が長く続き、そのせいで深く刺激を感じるようです。

この遺伝子は、脳細胞とその周辺から余剰のセロトニンを運搬し、再吸収にまわす役目を果たす。

弱いタイプの遺伝子はこのはたらきが弱く、シナプスを追いかけてそこから余分なセロトニンを運び去るのに長い時間がかかる。

このため、短いタイプがふたつのSS型、つまりセロトニン運搬遺伝子の「発現量が低い」人は、余分なセロトニンが脳細胞の周辺に長時間とどまりつづけ、再吸収にはまわらないことになる。(p169)

つまり、刺激が大きすぎて感覚があふれてしまうほどではありませんが、感覚刺激のオンオフが適切に行われず、切り替えが難しいということです。

「学習された痛み」のところで考えたように、『慢性疼痛は…身体の警報システムが「オン」になったままになってしまう』、つまり一過性であるべき刺激がずっとオンのままになって切り替わらないことで生じるものでした。

近年の線維筋痛症の研究によると、線維筋痛症では興奮性ニューロンを刺激するグルタミン酸の濃度が一部の脳領域で高いことがわかっていて、グルタミン酸受容体を遮断する薬であるメマンチンが効果があると言われています。

島領域のグルタミン酸濃度変化は線維筋痛症の疼痛変化と関連する | Nature Reviews Rheumatology | Nature Research

線維筋痛症にメマンチンが有望|医師・医療従事者向け医学情報・医療ニュースならケアネット

本来、一時的なアラームであるべき痛みや疲労が、役目を終えても延々と続いてしまう人の場合、感覚が「長すぎる」ことによる問題を抱えているのかもしれません。

脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の続く説明によると、この二つのタイプの感覚過敏、つまりボリューム調整ができず刺激が「強すぎる」タイプと、神経伝達物質が一箇所にとどまりすぎて刺激が「長すぎる」タイプは併発する場合があります。

さらに言えば、信号が長すぎかつレベルが高すぎると、ネットワークが飽和する恐れが生じる。

ひとたびネットワークが「飽和」すると、入ってくる信号に処理が追いつかなくなるために、情報はとりこぼされ、個々の情報間の区別ができなくなる。

(おそらくそのために、この種の問題を抱えているほとんどの人が途方もない疲労を感じ、最低限のものごとを行うだけでも厖大な労力を要し、脳に過剰な負荷がかかっているという感覚を覚えるのではないだろうか。)(p408-409)

刺激が強すぎ、かつ長すぎると、神経への過負荷が強くなりすぎるため、処理が追いつかなくなり、感覚が飽和してしまいます。

その結果、「途方もない疲労を感じ、最低限のものごとを行うだけでも厖大な労力を要し、脳に過剰な負荷がかかっているという感覚」に陥ります。

これは、線維筋痛症や外傷性脳損傷にしばしば合併する慢性疲労症候群と類似しています。また、耐えられないほどの激痛が持続する重度の線維筋痛症も、両方の感覚過敏を併発しているのでしょう。

どちらの感覚過敏も、生まれつきの性質としても、後天的な脳の変化としても生じる可能性があり、抑制と興奮のバランスが損なわれることで、さまざまな問題につながるとみなすことができます。

脳の覚醒レベルが低いと中枢性過敏になる?

個人的にもうひとつ気になる感覚過敏として、むずむず脚症候群(レストレスレッグス症候群)として知られるものがあります。

脚以外もむずむずする「レストレスレッグス症候群」とは? 7つの症状と治療法まとめ
脚をはじめ、全身のさまざまな部分に、むずむずするような耐えがたく、形容しがたい不快感を感じることがありますか? それはレストレスレッグス症候群かもしれません。このエントリでは、レ

以前に詳しくまとめましたが、この病気は近年、病名の改名運動が行われ、発見者の名前をとって「ウィリス・エクボム病」(WED)と呼ばれることが正式に決まりました。

改名運動があったのは、英名の「レストレスレッグズ」という名称が症状を的確に表していないからです。

製薬会社の大々的なキャンペーンもあって、日本では「むずむず脚」という病名がよく知られるようになりましたが、こちらの病名もまた問題を抱えています。

上記のレストレスレッグス症候群の記事にも追記しておきましたが、極論で語る睡眠医学 (極論で語る・シリーズ)という本によると、この名称には二重の問題点があります。

第一に、この病気の症状は「むずむず」と表現できるたぐいのものとは限らず、「むずむず脚」という病名を知らない人はまず「むずむず」とは表現しないような不快感であること。

第二に、この病気の症状は、脚(下肢)にだけ現れるとは限らず、レストレス「レッグズ」や、むずむず「脚」という表現は不十分であること。

この病気の形容しにくい不快感は、脚だけでなく、身体全体、手や顔などにも現れる場合があり、「むずむず脚」という病名だと、脚以外の部位に主に症状が出ている人が見逃されてしまうというわけです。

そして、ここからが重要なのですが、レストレスレッグス症候群(ウィリス・エクボム病)は、慢性疲労症候群や線維筋痛症、化学物質過敏症、PTSDと同じ、中枢性過敏症候群(CSS)、つまり感覚過敏を特徴とする病気のひとつにカテゴライズされています。

これらの病気の患者の中には、「むずむず脚」という病名にはピンと来なくても、全身に広がることもある、なかなか表現しにくい不快感が特徴だといえば、もしかしたら私も…? と感じる人がいるのではないでしょうか。

睡眠の教科書――睡眠専門医が教える快眠メソッドによれば、むずむず脚症候群は、特に今回話題にしている線維筋痛症に合併するケースがとても多いとされています。

また、むずむず脚症候群は、線維筋痛症を患う人によく見られます。実は、線維筋痛症の女性の3分の1がむずむず脚症候群を発症しています。

共通する要因として、ドーパミン系の異常が原因ではないかと疑われています。調査によって、むずむず脚症候群の成人患者の25%が、10歳から20歳までに発症したことがわかりました。(p66)

RLSは、線維筋痛症患者にとても多く見られます。というより、〈臨床睡眠医学ジャーナル〉誌に最近発表された報告書によると、RLSの発症は、線維筋痛症患者で10倍も多かったのです。(p251)

線維筋痛症の場合、症状が脚だけにとどまらず、全身に広がりやすい、という傾向もあるようで、「むずむず脚」「レストレスレッグス」が脚に症状が出る病気だという先入観を取り除けば、線維筋痛症への合併例はもっと多くなる可能性もあります。

これはもう、線維筋痛症にウィリス・エクボム病が合併しやすいというよりも、同じ病気の別の側面を見ているといったほうがよいのかもしれません。

レストレスレッグス症候群のメカニズムは現在のところ不明であり、少なくともパーキンソン病のようなドーパミン神経の減少は確認されていないようです。

しかしドーパミン産生の日内変動が認められ、不安定な状態になっているらしいという研究報告があるようです。これは、レストレスレッグス症候群に高率に合併するADHDとよく似た特徴です。

前に紹介したようにADHDを対象としたドーパミン系の治療で線維筋痛症や慢性疲労症候群が改善する例が報告されています。

ADHDの子は慢性疲労症候群や線維筋痛症になりやすい?
ADHDの子どもの脳機能の低下が友田先生により報告されています。

不安定なドーパミンレベルは、不快刺激を隔離する役割をもつ脳のA11神経群の機能不全につながっているのではないか、という説もあり、ドーパミン不均衡がさまざまな感覚異常の引き金となっている場合がありそうです。

また、つい先日、国立精神神経センターの睡眠障害の専門家の三島和夫先生が、モディオダールという覚醒レベルを引き上げる薬で、疼痛が和らいだという研究を紹介していました。

痛みと眠りの不思議な関係 専門家も想定外の新発見|ナショジオ|NIKKEI STYLE

モディオダールは、しばしばADHDの治療に使われている薬です。以前はヒスタミン系に作用するとされていましたが、最近になってドーパミン系に作用していることが判明しました。

ドーパミンなどの神経伝達物質は、脳を覚醒させる効果がありますが、睡眠不足などで覚醒レベルが下がっている状況では、感覚過敏が強まる傾向があります。

たとえば、睡眠不足の状態にある子どもや大人は、あたかもADHDのような症状を示すようになりますが、これは、もともとADHDだったわけではなく、睡眠不足によって脳の処理能力が低下し、感覚刺激に過敏になって、結果として多動性・衝動性・不注意傾向が誘発されてしまうからです。

「私って大人のADHD?」と思ったら注意したいことリスト―成人ADHDの約7割は違う原因かも
大人になってからADHD症状を示す人の少なくとも7割近くは、子どものころにはADHD症状がなく、従来の意味での発達障害ではないと考えられます。近年のさまざまな研究から、大人のADH

逆に、ドーパミンレベルが上がると、過敏性は和らぎます。たとえば線維筋痛症などの慢性疼痛を抱える人でも、好きなことに熱中している間は痛みが一時的に和らぐはずです。何かに熱中するとドーパミンが分泌され、覚醒レベルが上がるからです。

そうすると、ある種の感覚過敏の原因は、脳の覚醒レベルが慢性的に低いために、脳の処理能力が低下して、感覚刺激をさばききれず、過敏に反応してしまうことから生じているのではないでしょうか。

そこへモディオダールなどの薬を使って、一時的に覚醒レベルを上げてやると、何かに熱中しているときと同じように目が覚めて、脳の処理能力が高まるために過敏性が和らぐのかもしれません。

興味深いことに、脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線によると、先ほど紹介した舌に電気刺激を与えて治療効果を上げるPoNSは、「アンフェタミンやリタリンなどの医薬品のように、刺激を与えて覚醒度を高めるものもある」そうです。(p364)

最近書いた別の記事で考慮したように、脳の覚醒レベルの低さは、先天的なADHDやHSPによって生じていることもあれば、幼少期のトラウマ経験が引き起こす解離によって生じているものもあるようです。

とはいえ脳の覚醒レベルの低下は、必ずしもドーパミン不足が原因とは限りません。覚醒状態の維持にはドーパミン以外にもオレキシンやヒスタミンなど様々な神経伝達物質が関与しており、複雑で多様な原因が潜んでいる可能性があります。

そのとき脳は自らを眠らせる―解離の謎を睡眠障害から解き明かす
解離とは慢性的な低覚醒状態であるというポリヴェーガル理論の考え方や、ナルコレプシーやADHDとの比較を手がかりにして、解離と睡眠のつながりを探ってみました。

今回考慮してきたように、感覚過敏にも複数のタイプやその合併が存在しているようです。覚醒レベルの異常だけではなく、この記事で概観してきたような複数の要因を組み合わせて考えなければ、感覚過敏の謎は解けないでしょう。

検査に出ない異常と向き合う時が来た

この記事では、眼球使用困難症候群と線維筋痛症のつながり、という話題から初めて、さまざまな観点から感覚過敏の問題を考えてきました。

正直なところ、感覚過敏についてはまだわからないことだらけなので、この記事の内容は非常に大ざっぱですが、内容をまとめると、以下のようになります。

■線維筋痛症や慢性疲労症候群には光や音への過敏性が併存することが多い
■光に対する過度の過敏性「眼球使用困難症候群」と、光の感受性障害「アーレンシンドローム」はオーバーラップしていると思われる
■先天的な過敏性の原因としては自閉スペクトラム症(ASD)やHSPが関係している
■事故などの脳損傷をきっかけに後天的な過敏性が生じることがある
■トラウマ後遺症としての過敏性は、不快な刺激とそれに対する身体的な反応を繰り返し経験するうちに、脳の中でその二つが条件付けされ、感覚過敏が条件反射として学習されてしまうことで強化される
■過敏性は脳の興奮性ニューロンと抑制性ニューロンのバランス異常が原因。抑制性ニューロンが働かないと刺激のボリュームが調節されず、興奮性ニューロンのオンオフが切り替わりにくいと刺激を長い時間感じ続ける
■むずむず脚症候群(ウィリス・エクボム病)は線維筋痛症やADHDに高率に合併し、ドーパミン系の異常が共通していると考えられている
■脳の覚醒レベルが低いと過敏性が強くなる。ドーパミンなどを補って覚醒レベルを上げると過敏性は和らぐ

最初に考えたように、感覚過敏という非常に大きな問題がこれまで見逃されてきたのは、検査で測定することができないからでした。

客観的な検査で測定できないと、それが本人にとってどれほど苦痛なのか伝わらないので、鈍感で無神経な人たちから「気のせい」「仮病」「心の持ちよう」呼ばわりされるのは避けられません。

近年はペインビジョンのような機器で、線維筋痛症の痛みがどれほど深刻かわかるようになりつつありますが、我慢比べのような原始的な方法でしか測れないのは嘆かわしいことです。

線維筋痛症をカミングアウトしたレディー・ガガは、その後、大げさすぎる、などといった誹謗中傷を浴びせられ、心を痛めたというニュースもありました。もし客観的な検査が普及していれば、と思わずにはいられません。

自閉スペクトラム症の人たちの自伝を通して、ようやく感覚過敏の問題が専門家たちに注目され、VRを活用して独特の感覚世界を再現するなどの取り組みが少しずつ始まっていますが、社会に広く認知されるようになるには、まだまだこれからでしょう。

若倉雅登先生が今回の記事で書いていたように今の社会は、長らく検査に出ない症状を不定愁訴と軽視し、まっとうに扱ってこなかった医学界の代償を払わされているといえます。

線維筋痛症と「眩しさ」 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

 日本リウマチ財団のホームページによると、線維筋痛症は日本では一般人口あたり1.7%の有病率(患者数約200万人)。

今年 8月24日のコラム でおかしな制度だと指摘した難病指定基準の「人口の0.1%」を超える高頻度ですから、国は難病に指定していません。

 一方、実際に医療機関を受診している患者数はわずか4千人前後という数字があり、医師の無理解や診療拒否が背景にあると思われます。

 これは、痛み、しびれ、眩しさといった、測定しにくく、画像診断がほとんど役立たない感覚異常を軽視してきた国や医療界の姿勢と無縁ではないでしょう。

この国が「患者の訴えを最も重視する患者本位の医療」になかなか行き着けないことを端的に示している好例といえると思います。

医学が検査に出ない異常を軽視してきた結果、最もひどいしわ寄せを受けているのが、感覚過敏を原因とする「中枢性過敏症候群」にカテゴライズされる病気の患者たちです。

しかし、状況がまったく変化していないわけではありません。たとえば、むずむず脚症候群の病名が「ウィリス・エクボム病」に改名されたのは、当事者と専門家の尽力あってのことでした。

以前紹介したように、むずむず脚症候群の発見者のカール・エクボム博士は、患者の訴える奇妙な症状を頭ごなしに退けず、真摯に向き合う稀有な医師でした。

理解できない症状をすぐ精神ストレスと決めつけてはならないーむずむず脚の発見者エクボム博士の警告
「精神的なもの」と誤解されたり、病名ゆえ軽く見られたりしてきたレストレスレッグス症候群の歴史から学べることを「むずむず脚のカラクリ-ウィリス・エクボム病の登場」に基づいて紹介してい

彼が強固な土台を据えたことで新しい疾患概念が作られ、その上に勢力的な当事者たちが自らの経験を積み上げていき、ついにレストレスレッグス症候群を「気のせい」と揶揄していた社会を動かすことに成功したのです。

今回の若倉雅登先生の記事では、眼球使用困難症候群と思われる当事者たちに対して、情報交換の呼びかけがなされていました。

目がいいのに使えない「眼球使用困難症」の方、患者友の会に集合を! : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

 そこで、私は「眼球使用困難」という厳しい状態が確かに存在するのだということを、厚労省、眼科専門医はもとより、一般の方々にも知ってもらい、理解を深めてもらう活動をするために、「眼球使用困難症と闘う患者友の会」(仮称)の結成を呼びかけました。 数人の方がすぐに名乗りを上げました。

 おそらく、そのような方々はまだまだ埋もれていると思われ、このコラムを通して呼びかけたいと思います。

記事には、問い合わせの連絡先も記されていたので、該当する人は声を挙げてみるのもよいかもしれません。

今回頻繁に引用した脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線は、感覚過敏をはじめとする、現代医学が見過ごしてきた症状を、脳の可塑性を引き出す最新の取り組みで治療する専門家たちを取材したものです。

少し難しい内容ですが、記事中で取り上げたPoNSをはじめ、視覚イメージや低周波レーザー、ニューロフィードバックなどを用いて、脳の回復力を引き出し、難病の治療に挑む様子が取材されていて、医学の未来を垣間見ることができます。

従来の医学で見過ごされてきた患者たちのために、まだ数は少ないとはいえ、すでに進取の気性に富む専門家たちが行動を起こし始めていることをまざまざと見せつけてくれます。

自閉スペクトラム症の人たちが自分たちの感覚過敏について語り始め、インターネットを通して さまざまな少数派の当事者が、感覚過敏の知られざる実態を発信できるようになり、専門家たちもその声を無視できなくなって感覚過敏に目を向け始めている今この時。

ついに、わたしたちの社会が、検査に出ない異常と真剣に向き合うべきときが来たのだと思います。


自閉症研究の暗黒時代に埋もれてしまった、知られざるアスペルガーの歴史

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アスペルガーは、自分の診ていた人間の創造力が数十年先の科学の発展を先どりしていることに思い至った、おそらく最初の臨床医だったのだろう。

彼らの関心が現実の世界から「かけ離れている」わけではないことにも、すでに気がついていた。(p269)

なたは「アスペルガー」について知っていますか?

そう尋ねると、「聞いたことがある」とか、「わたしも当事者です」と答える方がいるかもしれません。

でも、冒頭に引用した文からわかるように、ここでいう「アスペルガー」とは、医学用語としての「アスペルガー症候群」のことではなく、その名称の由来となった人名、医師ハンス・アスペルガーのことです。

アスペルガー症候群のことはよく知っていても、その由来となったハンス・アスペルガーについは、ほとんど何も知らない、という方も多いのではないでしょうか。

わたしもこれまで、ハンス・アスペルガーの人となりや、彼が研究した事柄について、ほとんど知らなかったのですが、自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)という本を読んで、とても驚きました。

この本は、英国で最も権威あるノンフィクション賞を受賞し、故オリヴァー・サックスが序文を担当したことで話題になりましたが、自閉症の歴史に関わったさまざまな人物の生き生きとしたエピソードが含まれています。

そこで明らかにされていたのは、ハンス・アスペルガーという稀有な医師が、いかに鋭い先見の明を持って、この21世紀における自閉スペクトラム症の理解を先取りしていたか、そして、なぜ彼の発見が闇に埋もれて、自閉症研究の暗黒時代がもたらされてしまったのか、という知られざる歴史でした。

これはどんな本?

この 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)は、ジャーナリストのスティーブ・シルバーマンによる、自閉スペクトラム症の歴史を追ったノンフィクションの大作です。

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)でテンプル・グランディンのストーリーを広めることに一役買った故オリヴァー・サックスが序文を担当しており、英国で最も権威あるノンフィクション賞BBC Samuel Johnson Prizeを受賞したとされています。

自閉症の発見者とされるレオ・カナーとハンス・アスペルガーにまつわる史実や、その後の悪名高い冷蔵庫マザー仮説や社会を震撼させたワクチン騒動まで、これまで綿密に取材されたことのなかった自閉症研究の歴史を年代順に明らかにする一冊です

実はこの本は、以下の記事によると、どうも邦訳にあたって、かなりの部分が削られ、しかも深刻な誤訳問題が多く見られるようなので、読むかどうかかなり迷っていました。

スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』の翻訳について - サイコドクターにょろり旅

スティーブ・シルバーマン『自閉症の世界』の翻訳について その2 - サイコドクターにょろり旅

それでも、原著のすばらしい評判から手にとってみると、誤訳問題の欠点を考慮に入れてもなお価値のある内容でした。

誤訳が多いとはいっても、本全体の大まかな流れは十分読み取ることができるので、この記事では貴重な歴史的エピソードの部分に焦点を当てて引用していきます。

アスペルガーとカナーは接点がなかった?

自閉症とアスペルガー症候群。

発達障害の本を読んだことのある人なら、この二つはほぼ同じ時期にまったく別々に発見された、という説明を読んだことがあると思います。

たとえば、図解 よくわかる大人の発達障害 という本にはこんな典型的な説明がありました。

自閉症という用語がはじめて使われたのは1943年、アメリカの精神科医レオ・カナーが発表した論文でのことです。

カナーは社会性や言語発達能力に重い障害がみられる子どもたちを「早期幼児自閉症」として報告しました。

彼らの多くが知的障害(精神発達遅滞)をともなっていたため、自閉症は知的障害を併発すると考えられていました。

その1年後に、オーストリアの小児精神科医ハンス・アスペルガーが「自閉的精神病質」と題した論文を発表しました。

彼が報告した症例は、カナーの症例と共通する特徴をもちながら、言語発達の遅れも知的障害も認められないというものでした。

これがアスペルガー症候群の概念へとつながるのですが、当時、この論文はあまり注目されませんでした。(p12)

また、この記事執筆時点でのウィキペディアのレオ・カナーの項には次のような記述がありました。

ほぼ同時期のアスペルガーも同じ単語を使っており、全く同じ時期に同じものと考えたようである(両者に交流はない)。

これまでの一般的な説明では、レオ・カナーとハンス・アスペルガーという二人の医師が、ほぼ同時期に別々の場所で、それぞれより重いタイプの自閉症と、より高機能なタイプの自閉症とを別々に、何のつながりもなく発見したとされていました。

それ以降、カナー型自閉症と、アスペルガー症候群は、しばらく別々のものだとみなされていましたが、のちにローナ・ウィングによって、一つの概念、自閉症スペクトラムにまとめられたというのが、大まかな流れです。

ほぼ同時期にまったく別々の場所で発見され、しかも同じ用語を使っているという奇妙な偶然が目を引くものの、この説明は広く一般に事実として受け入れられていて、これまでわたしも特に疑問を抱いていませんでした。

ところが自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)によれば、とてもショッキングな事が明らかにされています。

わたしたちがよく知っているこの自閉症の歴史は、意図的に操作されたものだったというのです

ハンス・アスペルガーの鋭い観察眼

先に引用した二つの文献は、どちらも、まずアメリカの精神科医レオ・カナーの発見から始まり、次いで少し遅れてオーストリアの小児科医ハンス・アスペルガーが後に続いたとしています。

しかし 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)という本で、先に舞台に登場するのはハンス・アスペルガーのほうです。

ハンス・アスペルガーは、第二次世界大戦が始まる前のオーストリアのウィーンにあった小児科病棟で働いていたようです。彼はチームとしての医療に携わっていて、そのときの同僚には精神科医のゲオルク・フランクルとその妻になるアニー・ヴァイスがいました。

そのウィーンの小児科病棟で、アスペルガーたちは、10年をかけて、不思議な特徴を示す子どもたちの診察に取り組みました。

10年の間にアスペルガーとスタッフは、不器用だが、知能は早熟でかつ、規則性や法則性やスケジュールに魅了されるという、類似の特徴を示す200人以上の子どもの診察を行った。

さらに、同じプロフィールのティーンエージャーや成人も多数診察した。

障害が最重度とされる子どもたちは、知能が低いゆえに精神病院の閉鎖病棟に入院させられていた。(p97)

第二次世界大戦が始まる前のこの時期にアスペルガーが観察した不思議な子どもたちは、とても個性豊かでした。早熟で規則性に魅了されるといった共通のパターンはありましたが、彼らの中にはさまざまな能力や性格といった多様性がみられました。

先ほど、ハンス・アスペルガーは、自閉症のうちでも「高機能」だとされるアスペルガー症候群の発見者だと言われていたのではなかったでしょうか。

しかし記録が示すところによると、彼は「同じプロフィールのティーンエージャーや成人も多数診察し」「障害が最重度とされる子どもたち」の診察もしていました。

彼は自身の発見した症例を「自閉的精神病質」と名付けましたが、それが能力の高い一部の人たちにだけ当てはまるものだとは見なしていませんでした。

「自閉的精神病質」という言葉を聞くと、わたしたちはネガティブなイメージを持つかもしれません。しかし、ハンス・アスペルガーは「精神病質」という表現に、まったく逆の意味を持たせていました。

明らかに精神病ではないのだから、アスペルガーは彼らの症状を説明するために「Autistischen Psychopathen(自閉的精神病質)」という精神的健康状態と病気の間の境界領域を指す用語を用いることにした。

加えて、もっと単純な「Aurismus」という用語を用いることで、「自然界の生命体」に新たに「自閉的存在」を加えることにしたのだった。(p105)

アスペルガーは、自分の観察した症例が病的なものではない、ということに気づいていました。

確かに社会不適応を起こして病棟にやってくるわけなので、健康と病気の境界状態でした。

それでも自閉症とは精神病でも精神病質でもない「自然界の生命体」のひとつの種族、「自閉的存在」だという認識もまた抱いていました。

これは紛れもなく、自閉症は連続するさまざまで多様な病態を含むもの、というスペクトラムの考え方や、自閉症を障害ではなく個性、独自の文化をもった少数民族に例える今日の考え方の先駆けでした。

いえむしろ、いまだ時代を先取りしている概念とも言えるはずです。自閉スペクトラム症は今もって医学的には個性ではなく発達「障害」(神経発達症)のひとつとされていますし、現代社会の大部分の人も、やはりそういったネガティブなイメージを抱いているからです。

自閉スペクトラム症はひとつの個性であり、多数派の定型発達者とは異なる特徴をもつ少数民族にすぎず、見方によっては優れた才能ともなるのだ、という考え方は、テンプル・グランディンやドナ・ウィリアムズといった当事者たちの自伝を通して徐々に認知されてきました。

脳神経科学者オリヴァー・サックスが、自著火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)にでテンプル・グランディンの事例を紹介したことを皮切りに、現代の優れた科学者やプログラマー、歴史上の偉人たちの中にも少なからずアスペルガー症候群の人がいるのではないか、と話題になり今に至ります。

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しかしハンス・アスペルガーは、今から80年近く前に、すでに同じ考えを持っていました。彼はこう書いていたといいます。

自閉症の子どもたちは、身の回りの物や出来事を、しばしば新しい視点から見る能力を持っている。

しかもとうてい子どものものとは思えない発想である。こうした才能をたくみに発揮することで、他の人が決して成し得ない偉業が達成されるだろう。

例えば、抽象化の能力は、科学的な試みには必要不可欠である。著名な科学者の中には、確かに多くの自閉症の人がいる。(p110-111)

ハンス・アスペルガーは、間違いなく、自閉症の人たちが、単なる障害でも社会不適応者でもないことに気づいていました。そして、多数派の社会では受け入れられないとしても、優れた独自の能力を持っているということを把握していました。

彼は、こうした自閉症特有の一連の素質や技能、態度、能力をまとめて、「自閉的知能」と命名し、自閉症の人が人類の文化の発展において果たした役割は正当に評価されてこなかったと大胆にも主張した。(p111)

このブログでも、自閉症の人たちは定型発達者とは異なる認知機能を持っていて、それが時として歴史に名を残した人々の異才の土台となっていたのではないか、というマイケル・フィッツジェラルドなどの研究を紹介してきました。

けれども、なんのことはない、自閉症を最初に発見した人は誰よりも早くそれに気づいていたのです。

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ナチス・ドイツの優生思想に対する「巧妙な戦略」

では、どうして今に至るまで医師ハンス・アスペルガーは、あたかも自閉スペクトラム症のうち、一部の「アスペルガー症候群」のみの発見者であるかのようにみなされているのでしょうか。

それだけでなく、最初の発見者たる彼がここまでポジティブな見方をしていたのに、その後の歴史において、自閉スペクトラム症の人たちが長らく社会的差別に苦しみ、不当にも障害者であるとのレッテルを貼られてきたのはどうしてでしょうか。

そこには不幸な歴史のめぐり合わせが関係していたようです。ハンス・アスペルガーが当時活動していたのは、第二次世界大戦直前のウィーンであり、すでにナチス・ドイツが台頭し始めていました。

ナチス・ドイツは優生学に基づいた思想を広めており、その中には例えば障害者は「生きる価値のない生命だ」といった理念も含まれていました。(p127)

ここ日本においても、昨年の相模原障害者施設殺傷事件を機に、同様のテーマをめぐる議論が巻き起こったのが記憶に新しいところです。しかしハンス・アスペルガーの時代にそれを推進していたのは高圧的な軍事政権の支持者たちでした。

ハンス・アスペルガーは、ナチス・ドイツの理念に逆行するような意見を主張しようものなら、すぐさま身に危険が及ぶような狂信的風潮になりつつあった1938年10月3日、大学病院の講義室で「自閉症についての世界初となる公の講演」を行いました。(p145)

言うまでもなく、この日付は、アメリカのレオ・カナーが自閉症を発見したとされる論文の時期よりもずっと前です。

彼は、自分がずっと診てきた自閉症の子どもたち一人ひとりを愛していました。たとえ様々な症状で覆い隠されていようと、どの子どもたちも個性豊かな、生きる価値のある命であることを確信していました。

しかし同時に、ハンス・アスペルガーは、自閉症の子どもたちが、ナチス・ドイツの優生政策のもとでは、「生きる価値のない命」として断罪されかねないことを、誰よりもよく知っていました。

そこで、アスペルガーは、慎重かつ巧みな話し方で、自閉症の子どもたちを弁護することにしました。

しかしそのあと、予想外の方向に話を展開した。

「今日は、国民の健康という視点でお話をするつもりはありません。ですから、遺伝形質がからむ疾患を防止する法律についても、ふれることはありません。

その代わりに、アブノーマルな子どもたちについて話をしたいと思います。

彼らのために、私たちはどのくらい役に立てるでしょうか? それは私にも疑問です」。

さらにつづけて、恩師なら眉をひそめるであろうことを言った。

「『通常から踏み出る』こと、すなわち『アブノーマルである』ことが、『劣っている』というわけではありません」。

アスペルガーは、この主張が「当面は反発を招く」であろうことを認めたうえで、巧妙な戦略をめぐらした。(p145-146)

彼は、自分の診ている子どもたちが、「アブノーマル」ではあるけれども、「劣っている」わけではない、という持論を述べました。これは、当時の社会では危険な考え方でしたが、それまで自閉症の子どもたちを診てきた中で培われた信念でした。

そして、この大胆な主張に説得力を持たせるために、アスペルガーはある「巧妙な戦略」を用いました。

それこそが、現代に至るまで自閉症の歴史を錯綜させ、ハンス・アスペルガーの名をただ「アスペルガー症候群」の発見者であるかのように誤り伝えるきっかけになってしまった戦略でした。

すなわち、ハンス・アスペルガーは、ナチス・ドイツの息がかかった人たちを納得させ、「アブノーマルな」子どもたちでも生きる価値があることを例証するために、特に能力の高い子どもたちの事例を選んで提示したのです。

これは今日でいうと、ちょうど「ギフテッド」の事例を取り上げて、発達障害の子どもたちの可能性を強調するようなものかもしれません。

今日のさまざまな発達障害の啓発書では、アイザック・ニュートンやレオナルド・ダ・ヴィンチはアスペルガー症候群だったかもしれない、トーマス・エジソンや坂本龍馬はADHDだったかもしれないといった過去の偉人たちの例に言及されています。

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それは、何も発達障害の子どもたちがみな天才や偉人になると主張するわけではありませんが、発達障害は必ずしも短所ばかりではなく、長所も兼ね備えているのだ、という希望を読者に伝えるための書き方です。

自閉症の発見者であるハンス・アスペルガーも、自閉症という概念を世に送り出す最初の講演で、まさにそれと同じ論法を用いて、自閉症の子どもたちの可能性を強調しようとしたのです。

彼は、講演を締めくくるにあたり、自分が取り上げた内容は、特に能力の高い子どもたちのものであることをフェアに伝えました。

さらに、施設で生活する重度の障害のある子どもたちよりも、小さな教授然とした子どもたちの症例をどうして重視するのかについて説明を加えた。

「将来に希望のもてる症例を二つ選んで、それを参考に、私たちの治癒方法の方針を解説する方が賢明であると判断しました」と、彼は話した。(p148)

その上で、こうした「アブノーマル」な子どもたちを決して見放さないでほしいと訴えました。

彼の話の組み立て方は、ナチス・ドイツが台頭する時代の背景を考慮すると、とても賢い戦略でしたし、そうせざるを得なかったのも確かです。まさかその思いつきが、その後、半世紀以上、自閉症研究の道筋を狂わせることになるとは知るよしもなかったでしょう。

それはアスペルガーが子どもたちの生命を危惧して、ナチスについている上司に彼らのポジティブな面を強調するという戦略的意図に基づくものであったのだけれども、不幸なことにそれはその後数十年にわたって混乱をまきおこすきっかけとなってしまった。(p148)

やがてナチス・ドイツが本格的に実権を握り、1939年には第二次世界大戦が勃発しました。

そのため、アスペルガーは後に発表した論文でも、やはり「高機能な」事例に着目していて、そのことが他の研究者たちから見たハンス・アスペルガーの印象を決定することになりました。

論文に記載された四人の症例のプロトタイプを根拠に、多くの臨床医と歴史家は、アスペルガーが「高機能の」子どもたちしか臨床場面で見ていないととらえられたことで、彼の発見の最も重要な部分を分かりにくくしてしまったのではないかと見ている。

彼と同僚が第二次世界大戦前のウィーンで見出した自閉症とは、「珍しいものでもなんでもなく」、全ての年齢グループに見られ、発話不能から、興味のある一つのことに長時間集中する優れた能力までの幅広い状態を含む症例にほかならなかった。

すなわち、スペクトラムという考え方の先駆けであり、どこにでもいる人々なのである。(p148)

アスペルガーが発見し、こよなく愛した子どもたち、個性豊かで多様なスペクトラムの中に存在する「自閉的存在」の子どもたちの研究は、戦争とともに闇に葬られてしまいました。

その代わりハンス・アスペルガーは、自閉症とは似ているものの、もっと社会的能力を持った一群の人たちの発見者とみなされ、後代の研究者によって「アスペルガー症候群」という言葉が作られました。

ハンス・アスペルガーは、「自閉症」そのものの発見者であったはずなのに、その中の一握りたる「アスペルガー症候群」の発見者にすぎないというレッテルを貼られてしまったのです。

レオ・カナーが「発見者」を横取りする

では、ハンス・アスペルガーの代わりに、自閉症の発見者として名を馳せるようになったのは誰だったのか。

はじめに引用した定説にあったとおり、ほかならぬアメリカの精神科医レオ・カナーでした。定説では、レオ・カナーの発見に遅れて、アスペルガーがまったく別の経緯で同じ発見をしたことになっています。

これまで、ハンス・アスペルガーとレオ・カナーは、活動していた時期こそ重なっているものの、かたやアメリカ、かたやオーストリアというまったくかけ離れた国にいたために、何ら接点がないとされていました。

しかし、ハンス・アスペルガーが、これほど時代を先取りした自閉症の研究をしていたことを知ってみれば、レオ・カナーよりも遅れて自閉症を発見したとされているのはひどく奇妙なことに思えます。

不可思議に思えるのは実は当然のことで、そこに本来あるべきミッシングリンクが欠けていたのです。

それは私利私欲から意図的に塗り消された歴史の1ページであり、半世紀以上にわたる自閉症の歴史に大きな混乱をもたらすことになった二つ目の不幸でした。

当初、カナーはドナルドの行動を把握することができなかった。ハリエット通りの診療所で予備検査をしたあと、ジョンズ・ホプキンス大学のメリーランド子ども研究所へとまわすことにした。

そこには、かつてウィーンの療育ステーションにいたスタッフが働いていた。

彼らにとってドナルドの症例はなじみのあるものであった。

しかも、そのうちの一人は、小児精神科医としてカナーによってオーストリアから呼ばれたばかりの人物だった。アスペルガーの元同僚、ゲオルグ・フランクルである。(p194)

当時、レオ・カナーは、謎めいた不可思議な子どもの症例に手を焼いていました。

彼は手に負えないその患者をボルチモアにあったメリーランド子ども研究所にまわしましたが、そこにいたのはなんと、オーストリアから国外に逃れていた精神科医ゲオルグ・フランクルと、その妻となった心理学者アニー・ヴァイスでした。

何を隠そう、ハンス・アスペルガーと一緒に自閉症の子どもたちを10年も診てきた元同僚たちです。

二人は、ジョンズ・ホプキンスのカナーのチームに加わり、1938年から数年にわたり、共にメンタルクリニックの同僚として働きました。

レオ・カナーと、ハンス・アスペルガーとの間のつながりがないと思われていたのは明らかに誤りでした。確かに両者は直接会うことはありませんでしたが、ハンス・アスペルガーの同僚というミッシングリンクで両者はつながっていたのです。

ではなぜ、ゲオルグ・フランクルとアニー・ヴァイスという二人のミッシングリンクが、今に至るまで歴史のページから失われていたのか。それは、レオ・カナーが恣意的に事実を塗り消したからだとされています。

自閉症に関する二人のパイオニアの運命的なつながりに、歴史家が今まで注目してこなかったのはカナー自身が、そのことについて触れるのを避けていたからだと思われる。

彼がアスペルガーの研究の意義を決して認めようとしなかったことは、自閉症研究者の間では周知のことである。

1950年代に執筆はされたものの未公開となっている記録には、カナーが戦時中にアメリカへの移住を手助けした臨床医の一人としてフランクルの名前がのっているが、カナーを一躍有名にした大発見以前のところまでで、その記録は不可思議にも突然途絶えているのである。

カナーの同僚は、彼がウィーンでの研究について知らなかっただけなのだという認識を示したし、カナー自身もそれを訂正するようなことはなかった。(p194)

レオ・カナーは、明らかにハンス・アスペルガーのことを知っていました。何と言っても、自分が手に負えなかった症例が自閉症であると教えてくれたのは、ハンス・アスペルガーの元同僚だったのですから。

しかし、当時のアメリカ医学界で影響力のある地位についていたレオ・カナーは、その事実をもみ消すことに成功しました。ゲオルグとアニーは、ジョンズ・ホプキンスでは正規の職を与えてもらえず、ボルチモアを去ることになりました。

カナーは自分一人で自閉症の問題を解明する状況に、おいやられることになった。彼は、フランクル夫妻の仕事の中でも、夫のゲオルグの研究を評価していた。

だが、こののち再び彼の名前を挙げることはしなくなる。この後の重大発見の報告はすべて、「セレンディピティ(偶然の発見)」だったと言い出すようになっていく。(p221)

こうしてレオ・カナーは、ハンス・アスペルガーと同僚が10年にわたる研究によって積み上げた自閉症の子どもたちについての洞察を知るすべがなくなりました。

その代わり、彼は影響力ある立場を利用して、自閉症研究の第一人者の地位につき、自閉症に関する独自の見解を発表していきます。

アメリカで最も著名な小児精神科医として、カナーは幅広い人間関係のネットワークを通して、自らの自閉症の見解を一般に普及させることができる格好の地位にあった。(p218)

自閉症研究の暗黒時代の幕開け

たとえばレオ・カナーは、自閉症は、幅広い多様性とスペクトラムを持っているという、アスペルガーとその同僚たちの見解を受け入れませんでした。

そうではなく、自閉症とは重度の障害を伴う限定的な疾患だと主張しはじめ、これがいわゆる「カナー型自閉症」のおこりになりました。

カナーの自閉症についての考え方は、ウィーンにおけるアスペルガーの同僚のそれとは、すでに大きく異なっていた。

カナーは小児期早期にのみ注目したため、10代より年長者は対象外だった。

障害を多様な徴候からなる幅広いスペクトラムとしてとらえる代わりに、子どもは個人差など無視しても支障のない、単一のグループとして扱われることとなった。(p215)

カナーの定義によって、自閉症はひどく限定された概念になってしまったので、今日におけるアスペルガー症候群や高機能自閉症に該当する人たちは門前払いを受けるようになり、自閉症の仲間とはみなされなくなりました。

カナーは1957年に、人生においてたった150人の自閉症の症例、年平均にして八人の患者にしか出会わなかったと主張している。

研究者のバーナード・リムランドや、他の臨床医から「自閉症」とされて、彼の元にやって来た10人の子どもたちのうち、9人は自閉症でなかったとも語った。(p268)

その結果、カナーの定義する「自閉症」と「健常者」のはざまにいる大勢のグレーゾーンの人たちは、医療によって長らくサポートを受けられないまま放り出されました。

自閉症という診断をしてもらえないということは、教育や言語療法や作業療法、カウンセリング、投薬、その他の支援を受けられないということだ。

自閉症は幼児期の障害だといわれ、否定的な診断をされた成人には、働くこと、デートをすること、友人とのつきあい、その他の日常生活につきまとう絶え間ない葛藤について何の説明もされることがなかった。(p268)

こうして、多様な自閉症スペクトラムに属する人たちの長い受難の歴史が幕を開けました。

また、ハンス・アスペルガーは、小児科医として、自閉症の子どもたちの才能を認め、彼らを支援する教育にも力を入れていました。

アスペルガーの考えによれば、自閉症の子どもたちが社会で不適応を起こすのは、自閉症でない教育者たちによる社会的多数派のための教育を受けているからでした。もしも自閉症の特性に適した教育が受けられれば、彼らは才能を開花させられると考えていました。

英語に翻訳されることがなかった1953年のテキストに、アスペルガーは次のように書いている。

「要するに、教師自らが『自閉症的』にならなければならない」のである。(p115)

ハンス・アスペルガーは、今日で言うところの特別支援教育の概念を先取りしていて、病棟の子どもたちに適した教育、「アブノーマルな」子どもたちのユニークな才能を伸ばしていくための教育を日々模索していました。

そこで行われたアスペルガーの特別支援教育の手法は、今日でも未だに革命的であると考えられている。

怪我や骨折、病気の子どもたちを診察する一方で、彼は、個々の子どもの学習スタイルに合う適切な指導方法がなされていないと感じていた。

どんなに気難しく、反抗的であっても、子どもの中にある潜在的な資質を見出す特殊な能力を彼は持っていた。(p87)

他方、レオ・カナーは、子どもたちの教育にはまったく興味がありませんでした。

カナー特別支援学校には興味がなかった。

精神医学の新領域を開拓したいだけだった。(p197)

さらに、アスペルガーとカナーは、自閉症の原因についても大きく異なった見方をしていました。

ハンス・アスペルガーは、自閉症は精神病ではなく、遺伝的に受け継がれる、ひとつの個性のようなものだとみなしていました。言うまでもなく、これは今日の一般的な見解と一致する先見性のあるものでした。

他方のカナーは、カナーは自閉症を個性ではなく疾患として定義しました。これが今日に至るまで続く発達「障害」の研究の道筋を据えました。

そして自閉症をネガティブな障害として捉えることで、その原因として、あの悪名高き「冷蔵庫マザー仮説」、つまり母親の愛情不足が自閉症の原因であるとする主張もするようになりました。

他方、カナーはというと、のちに世間で「冷蔵庫マザー」という名称で知られるところとなる、悪魔のような養育者の影響を、自閉症の原因として想定するようになっていくのである。

カナーは洞察の鋭い臨床家であり、説得力のある論者であったけれども、自閉症の原因についてのあやまった考察は、きわめて多大な悪影響を社会にあたえることになった。(p221)

こうして、ハンス・アスペルガーやその同僚の優れた洞察は完全に失われ、第一人者であり、自らを発見者だとも主張するレオ・カナーが考えだした説が、医学界の主流となっていきました。

そしてレオ・カナーが自閉症を「発見」したという論文を出したころ、本当の発見者であるハンス・アスペルガーは第二次世界大戦の混乱の真っ只中にいました。

カナーの最初の論文が公刊された四ヶ月後にアスペルガーが、博士論文指導教授のフランツ・ハンブルガーに論文を提出するが、上司の関心は障害を持つ子どもの根絶ひいては、ユダヤ問題の最終的解決すなわちユダヤ人の絶滅へと向いてしまっていた。

そしてアスペルガーの論文が翌年出版された時には、診療所そのものが廃墟と化していたのであった。(p218-219)

レオ・カナーという自閉症の偉大な「発見者」の後追いをする、無名のオーストリアの医師アスペルガーの論文を真剣に受け止める人はほとんどおらず、彼の業績のほとんどは英語に翻訳されることもなく、瓦礫に埋もれた診療所と同じように、歴史の闇に埋没していきました。

虹色のスペクトラムが再発見される

その後の自閉症研究は迷走に迷走を重ね、アスペルガーの研究が再評価されるまで、何十年もの時を要しました。長いあいだ滞っていた歴史が進展したのは、1980年代になってからのことです。

ハンス・アスペルガーの研究が再び日の目を見たのは、イギリスの精神科医ローナ・ウィングがアスペルガーの未翻訳の論文に注目したことがきっかけでした。

アスペルガーの論文は未だに英語に翻訳されていなかったので、ローナはジョンらに翻訳を頼んだ。

その論文を読んだローナは、自分がキャンバーウェルで見た状況と同じものを、アスペルガーもまたウィーンの診療所で目の当たりにしていたのだと悟った。

彼女がいうところの「誰もがお手上げの子どもたち」を、同僚たちがよこすようになると、ローナの目には、アスペルガーのモデルの妥当性がより一層はっきりと見えてきた。

明らかにカナーの狭い自閉症の枠組みにおさまらなかったため、彼らの多くは統合失調症との診断が下されていた。(p444)

ローナ・ウィングは、自閉症は重い知的障害だけに限定されるという第一人者の見解に納得できませんでした。

そして、アスペルガーの論文を読んだとき、半世紀近く前に、すでにハンス・アスペルガーが同じ見解に至っていたことを知りました。

ウィングは、アスペルガーの着眼を現代によみがえらせ、自閉症は、さまざまな種類の連続性をなす多様な症候群であることを提唱し、現在用いられている「スペクトラム」という概念を世に送り出しました。

今日、その「自閉症スペクトラム」という言葉は、自閉症は軽度から重度までさまざまな程度が連続する病態なのだ、ということを表すために用いられていて、わたしも以前はそうした理解をしていました。

言い換えればそれは、最も重いカナー型自閉症を左端として、中程度の自閉症、そして高機能なアスペルガー症候群へと続き、右端に定型発達者が位置するような考え方です。でもそれだと、あたかも右端の定型発達者こそが「健康」であるかのようです。

この本によると、ローナ・ウィングは、まったく異なる考え方をしていて、軽度から重度まで連続しているという意味合いを避けるために、わざと「連続体」という表現ではなく「スペクトラム」という言葉を選んだそうです。

そのうちにローナは「連続体」という言葉に対する興味を失ってしまった。

彼女が主張したかったのは、個々の障害はもっと個別で細かな差異があって、多次元的なものであるということなのに、この表現では軽度から重度まで重症度の増加勾配を意味するものになってしまったからである。(p449)

ローナ・ウィングは、健常者と障害者のあいだのグレーゾーンという意味で、スペクトラムという概念を用いたのではありませんでした。むしろ、 一人ひとり多彩でユニークな個性を持っているという意味合いを込めてこの単語を選びました。

結局彼女は「自閉症スペクトラム」という用語を採択した。

美しい虹のイメージや自然の持つ非常に多様な創造性を証明する現象を連想させる、その言葉の響きを気に入ったのである。(p449)

ですから本来の「自閉症スペクトラム」という概念には、カナー型自閉症は「低機能」で、アスペルガー症候群は「高機能」だというような比較は含まれていません。

そうではなく、ちょうど虹の七色に優劣がないように、どの自閉症もかけがえのないユニークな個性なのです。

それはまさに、ハンス・アスペルガーが、半世紀ほど前に、自閉症の子どもたちと触れ合い、観察する中で気づいたことでもありました。

こうして、自閉症の暗黒時代の霧は少しずつ晴れはじめ、かつてアスペルガーが発見した自閉症の姿が徐々に明らかになる、本来の道筋へと戻ってきたのでした。

それこそが自閉症研究の原点だった

この本の内容は非常に詳細で、ここで取り上げた自閉症の歴史は、ごく一部にすぎません。ハンス・アスペルガーやレオ・カナーの人となりについても、もっと多様な情報が含まれていますし、自閉症の歴史にはもっと多様な人物が関係しています。

ところどころ翻訳の問題が指摘されている本書ですが、自閉症研究の詳細な歴史としてとても価値のある一冊なので、興味のある人はぜひ読んでほしいと思います。

この記事で、あえてハンス・アスペルガーとレオ・カナーをめぐる出来事を取り上げたのは、自閉スペクトラム症にかかわる人にとって、当事者にとっても周囲の人にとっても、どうしても知っておく必要のある歴史だと感じたからです。

この記事では、ハンス・アスペルガーとレオ・カナーを対比させ、レオ・カナーの権力欲がもたらした不幸な歴史をたどってきましたが、この記事の目的はレオ・カナーの評判に泥を塗ることではありません。

確かにこの本を読むと、レオ・カナーに関するさまざまなスキャンダラスなエピソードが出てきますが、良くも悪くも自閉症という発見を世の中に広めたのは彼の社会的立場あってのものでした。

ハンス・アスペルガーの発見を横取りしたレオ・カナーのような不正行為は、残念なことに、歴史上何度も繰り返されてきました。

例えば、有名なところではライプニッツとニュートンの確執があります。ニュートンは、ライプニッツより先に微分法を発見したと主張し、王立協会会長という影響力ある立場を利用してライプニッツの名誉を貶めたとされています。

この不正行為は紛れもなくニュートンの輝かしい経歴に傷をつけるものですが、だからといって、ニュートンの他の業績が否定されるわけではありません。レオ・カナーの不正行為も、彼の人間としての弱さを露呈するものでしたが、彼の業績がすべて害悪であったわけではないでしょう。

不幸だったのは、レオ・カナーという人物が、自閉症の子どもたちに共感する感性を持ち合わせていなかったことに尽きます。

以前に書いたように、自閉症の人たちが「共感性がない」とされてきたのは、自閉症ではない人たちが研究の主導権を握ってきたからだと思われます。

部外者である定型発達の研究者たちが、ちょうど自分たちとは違う部族、異なる言語を使う少数民族を研究してきたようなものなので、表面的な理解に基づいた誤解が生じてしまったのです。

言ってみれば、アメリカで生まれ育った典型的な米国人が、日本文化の専門家になろうとしても、知らず知らずのうちに、どこか視点のずれが生じてしまうようなものです。どの民族にもネイティブにしかわからない微妙な感覚があります。

レオ・カナーが自閉症について見当違いな主張をしてしまったのも、悪意から来たものではなく、当事者に共感しきれないことからくる研究者としての限界があったのでしょう。

アスペルガーは「共感性がない」わけではない―実は定型発達者も同じだった
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)の人は「共感性がない」と言われていますが、実際にはそうではなく、むしろ定型発達者も共感性に乏しいという研究を紹介しています。
少数派を「障害者」と見なすと気づけないユニークな世界―全色盲,アスペルガー,トゥレットの豊かな文化
わたしたちが考えている「健常者」と「障害者」の違いは、実際には「多数派」と「少数派」の違いかもしれません。全色盲、アスペルガー、トゥレットなど、一般に障害者とみなされている人たちの

他方、ハンス・アスペルガーが自閉症文化の“ネイティブ”だったのかは定かではありません。とはいえ、彼の子ども時代について、周囲から浮いた独特な個性だったことが語られています。

小学校に通っていた時、ハンスは一日中本に没頭し、夜にまだ宿題をしていないことに気がつき、慌てるような子どもだった。(p116)

少なくとも、ハンス・アスペルガーは、多数派とは異なるどユニークな個性をもった少年時代を送っていて、その経験が、自閉症の子どもたちに共感し、マイノリティとしての苦労や長所を理解する大きな助けになったのでしょう。

こうした生まれ持った素質や生い立ちの違いが、自閉症に対するハンス・アスペルガーとレオ・カナーの考え方を左右し、正反対の方向へと歩ませたのかもしれません。

わたしが この記事で注目したかったのは、レオ・カナーの研究の不備ではなく、ハンス・アスペルガーの洞察のほうです。

今日ようやく市民権を得るようになってきた自閉スペクトラム症に関するさまざまな理解を、彼が最初からすでに先取りしていたことを知ると、自閉症という概念に対する見方が変わるはずです。

自閉症はひとつの個性であるとか、自閉症は障害ではなく社会的少数者であるために困難に直面している、という考え方について、最近になって登場した歴史の浅い思想の一つであるかのように感じている人もいるかもしれません。

中には、それは自閉症の人たちが自分たちを弁護するために考えだした詭弁ではないか、というような斜に構えた偏見を持っている人も、いるかもしれません。

しかし事実は逆で、こうした考え方は、80年近く前にハンス・アスペルガーが客観的な観察を通して すでに見出していた事実、自閉症の研究のまさに中心、原点にあるものなのです。

最後にもう一度、 自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)から引用してこの記事を締めくくりたいと思います。

自閉スペクトラム症にせよ、その他の理由があるにせよ、いま社会的なマイノリティの立場に置かれている人にとって、ハンス・アスペルガーが、早くも1944の時点の論文の中に寄せたこの言葉は励みになるものではないでしょうか。

自閉症の実例はアブノーマルとされる人でさえ、どれほど発達と順応の能力があるかを如実に示してくれる。

当人ですら夢想だにしなかったように社会へ融け込める可能性は、発達の過程で生まれるものなのかもしれない。

このような知見は、自閉症や他のタイプの問題を抱えた人たちに対する私たちの態度に、多大な影響をあたえるものである。

さらに私たちには自らの存在をかけて、こうした子どもたちを擁護する権利と義務があることを教えてくれるのである。(p118)

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なにしろホモサピエンス全体で見れば、人類が正式に都会に生息する種になったのは、2008年のことだ。

この年、世界保健機関(WHO)が、都会に住む人の数が田舎に住む人の数を初めて上回ったと報告した。

アメリカ合衆国では昨年、この100年間で初めて郊外より都市部が速く成長した。その変化を別の観点から見れば、現代は人類史上最大の集団移動のさなかにあるといえる。(p24)

本に住む大勢の人たち、特に、このブログを見てくださっている人たちの多くは、生まれたときから近代都市に住んでいるかもしれません。

わたしもそうですが、狭い教室で学ぶ学校、舗装された道路、立ち並ぶ電柱やビル、通勤時の人混み、そうした都市の習慣や風景が当たり前の環境で育ってきたことでしょう。

そうした光景は、わたしたち個人個人にとっては「当たり前」のものですが、人類(ホモ・サピエンス)という種にとってはそうではありません。

なにしろ、冒頭で引用した本、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方が述べているように、いまは人類史上最大の集団移動の時期だからです。

人類にとって、都市という環境は「当たり前」ではなく、ここ何世代かのうちに移り住んだ、未知なる新天地です。

わたしたち個人にとっては、生まれたときから慣れ親しんでいる当たり前の環境でも、人類という生物にとって異質なので、都市生活でさらされる多種多様な環境刺激は、無意識のうちに脳に慢性的な負荷をかけています。

その結果、例えば ひといちばい敏感な子(HSC)の本に書かれているように、知らず知らずのうちに過剰な負荷に翻弄され、発達障害のような問題行動に陥っている例が少なくないのではないか、と思われます。

HSCはたくさんのことに気がつくので、気が散りやすい傾向にあります。(p57)

過剰な刺激を受けて錯乱状態になり、ADD(Attention D Disorder=注意欠陥障害)のような症状を見せる子もいます

(でも、そのような刺激を受けていない時の注意力は良好で、大切なことには集中することができます。(p42)

この記事では、ADHDのような行動が、都市や学校という環境における過剰な、あるいは異質な刺激によって引き起こされている場合があることを示唆する研究を紹介します。

また、身のまわりにある、ごくありふれた都市の形、光、音、匂い、そして人混みなどが、気づかないうちにどれほど脳に負荷をかけているかを示す科学的研究を調べてみましょう。

そして、過剰すぎる刺激に圧倒されることで発症すると思われる解離症状が、荒々しい大自然のもとで癒されることがあるのはなぜか、考察したいと思います。

これはどんな本?

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方は、ジョージワシントン大学の作家またジャーナリストのフローレンス・ウィリアムズが、自然が脳に及ぼす影響についての研究を取材して書いた本です。

日本の森林セラピーの第一人者、宮崎良文教授への取材を皮切りに、フィンランドやスウェーデンといった環境先進国、あるいは韓国やシンガポール、アメリカといった都市国家の専門家のもとを訪ね、さまざまな視点から自然と脳のつながりを探ります。

自然愛好家の本は往々にして主観的になりがちですが、この本では盲目的に自然を礼賛するのではなく、客観的な脳科学の研究に注目することで、自然とテクノロジーのバランス、自然と文明の共存を意識しています。

科学的なデータに基づく客観的を研究も取り上げ、巻末に参考資料を豊富に挙げつつ、主観的な感想も織り交ぜることで、共感しやすいバランスの取れたエッセイとなっています。

都市にいるときだけ「発達障害」になる人たち

近年、発達障害という概念が広く受け入れられるようになりました。特に、ADHDや自閉スペクトラム症(ASD)については、脳科学を駆使した研究が進んでおり、さまざまな脳の「異常」が特定されています。

メディアの情報に触れると、発達障害は生まれつきの脳の異常だと思いがちですが、すべての専門家がそうした見方に同意しているわけではありません。

このブログで何度か取り上げてきたように、心理学者や当事者たちの中には、発達障害の人たちがさまざまな症状や生きづらさを抱えるのは、多数派が作り上げた社会の環境で少数派として生きざるを得ないことからくる二次症状だと考える人たちがいます。

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冒頭で引用したように、HSP(Highly Sensitive Person とても敏感な人)の研究者のエレイン・アーロンは、感覚が敏感な人は、過剰な刺激にさらされると一時的にADHDのような振る舞いをみせる、と述べています。

大多数の人がごく当たり前に受け流している刺激でも、敏感な人にとっては、過剰すぎることがあります。

情報量が多すぎて、頭がいっぱいになってしまうと、冷静に考えられなくなり、多動になったり不注意になったりすることは、認知科学からも証明されています。

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では、「一時的に」ADHDのようになるのではなく、一日中多動で、一見何の刺激もないようなときにも問題行動を起こす子どもの場合はどうでしょうか。

騒音や明るさや緊張などの過剰な刺激のあるなしにかかわらず、いつも多動で不注意で衝動的なら、環境ではなく、その子の生まれつきの脳の障害だ、という見方が正しく思えるでしょう。

また、過敏で傷つきやすい人たち (幻冬舎新書)に書かれているように、子どものころからADHDが目立つ人の多くは、自分が感覚過敏だとは考えておらず、アンケートを取ると「無計画で衝動的な傾向は、過敏性とはごく弱い相関」しかみられません。(p121)

本人が過敏性を訴えないのであれば、環境のせいではなく、生まれつき多動で衝動的な性格なのだ、とみなすのは正しいように思えます。

しかし、ここで抜け落ちている観点があります。冒頭で書いたように、わたしたちがごく普通の環境だと思っているこの日常生活は、人類という種からしてみれば、異質な新天地の生活なのです。

わたしたちは、飛行機の騒音や、工事現場の化学物質のにおいなど、いつもと違う環境からくる刺激は、異質だと認識できます。

でも、生まれたときから慣れ親しみ、四六時中接している環境が、自分や子どもの脳に慢性的な負荷をかけて、問題行動を引き起こしているとは、まず考えません。

しかし、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているイリノイ大学の心理学者フランシス・クオの次の実験は、意外な事実を明るみに出しています。

クオと同僚のウィリアム・サリヴァンが145人の女性の住人(その団地の住人の大半がシングルマザーだった)に聞き取り調査を実施したところ、窓から木が見える部屋の住人より、アスファルトの風景しか見えない部屋の住人に、心理面での攻撃性、軽中等度の暴力性、あるいは重度の暴力性が見られることがわかった。

またべつの研究では、アスファルトの景色しか見えない部屋の住人には、やるべきことをぐずぐずと先延ばしにし、人生の苦難を長く深刻なものとして認識する傾向が見られることがわかった。(p151)

ほとんどの人はまさか、家の窓から木が見えるかどうか、といった些細なことが、自分の性格や行動に影響を及ぼしているなどとは考えません。

ところが、窓から木が見えないというたったそれだけのことで、そこに住んでいる住人たちは暴力的になったり、やるべきことを先延ばしにしたり、といったADHD予備軍のような行動特性を示すようになっていたのです。

「たかがそれだけのことで?」と思う人は少なくないでしょうが、わたしたち個人の視点ではなく、ホモ・サピエンスという種の視点から考えてみてください。本当に「たかがそれだけのこと」なのでしょうか。

なにしろ、人類の長い歴史の中で、一日中自然が見えないような環境に住む、ということは一度もなかったのです。わたしたちにとってはごく普通の環境でも、人類という種にとってはそうでない好例です。

ADHDー都市が生み出した発達障害

先ほどの実験は、窓から自然が見えないところに住んでいる人たちがADHD予備軍のような行動特性を示す、というものでしたが、この実験の主導したフランシス・クオは、ADHDの子どもを対象にした別の実験も行いました。

公営住宅の窓から見える景色の研究で有名なイリノイ大学のフランシス・クオは、ADHDと戸外での活動の関係も研究した。彼女の研究は小規模ではあったものの、じつに示唆に富んでいた。

ある実験で、ADHDの子どもが室内ですごした場合と自然のなかですごした場合を比較したところ、自然のなかですごすとADHDの症状が3分の1に減るとわかった。

べつの実験では、8歳から11歳のADHDの子ども17人に、ガイドと一緒に3つの異なる場所を20分間歩いてもらった。

住宅街、都会の繁華街、公園の三か所だ。公園を歩いたあとは、数字を逆の順番で記憶するテストの成績がいちじるしくよくなった。(p304)

ADHDの子どもたちを対象としたこの実験では、自然の中で過ごした場合、ADHDの子どもの症状が軽減され、記憶力も向上することがわかりました。

この研究は、ADHDが単なる脳の発達障害である、とする従来の見解に疑問を提起しています。もしも、ADHDの子どもたちが、先天的に衝動をコントロールできない障害を負っているのであれば、環境を変えたところで症状が和らいだりはしないでしょう。

しかし、自然の中に身を置くだけで症状が和らいだのであれば、問題は子どもたち自身ではなく、環境のほうにあるのではないか、ということになります。

ADHDとは、もしかすると、わたしたちがごく当たり前のものとみなしている都市の環境からくる刺激によって、脳の過負荷が引き起こされて生じている現象ではないでしょうか。

以前に扱ったようにADHDの遺伝子は、人類に脈々と受け継がれていることからすれば、「欠陥」遺伝子とは考えられません。狩猟採集生活や、変化の激しい社会では、多動性や衝動性はむしろプラスに働いたのでないか、とも言われています。

心理学者たちは、ADHDを引き起こしているのは、子どもたち自身の欠陥ではなく、子どもたちを取り巻く環境のほうではないか、と指摘しています。

さまざまな未知のものがうずまく世界で刺激を受けていると元気が出るタイプの子どもは、学校で一日中座って過ごしていると生気を失ってしまう。

ところが産業化の時代を迎えると、子どもはおしなべて教室で勉強すべきだという標準化教育を、教育界が重視するようになった。

「ADHDはいまから150年前、義務教育が始まると同時に生まれたのです」とカリフォルニア州バークレー校の心理学者スティーヴン・ヒンショーは言う。

「この意味では、ADHDは社会の変化によって生み出された概念といえるでしょう」

ヒンショーによれば、ADHDの子どもは従来の学校の授業では退屈し、うまく順応できないと感じる場合が多く、さらに規則が厳しい環境のせいで症状が悪化するという。(p305)

心理学者たちは、ADHDの子どもには学校が必要ではない、と述べているわけではありません。そうではなく、現在の学校で採用されている教育方法、つまり閉鎖的な教室に閉じ込められ、ただ座って学ぶという環境に問題がある、と考えています。

例えば、博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトや、政治家また作家のウィンストン・チャーチルは、今ならADHDとみなされていたであろう多動な子ども時代を送りました。

彼らは学校には適応できませんでしたが、普通以上に博識な大人になりました。教室でじっと座って学ばずとも、探検と冒険を通して必要なことをみな学べたからです。

やはりADHDの傾向を持っていたと思われる、造園家・都市計画家のフレデリック・ロー・オルムステッドについて、こんなエピソードが書かれていました。

フレデリック・ロー・オルステッドは大の学校嫌いだったが、寛大な校長先生のおかげで野山を歩きまわるのを大目に見てもらった。

…オルムステッドはみずからの人生を振り返り、問題があるのは窒息しそうな教室のほうで、手に負えないと言われている子どもたちのほうではないと断罪し、

「いわゆるごく普通の環境ですごしていない少年、すなわち毎日10マイルから12マイル(約16~20キロ弱)歩くのではなく、家のなかで日がな一日じっと座ってすごしている少年は、いずれ病に苦しむか、勉強に身が入らなくなるだろう」と記した。(p302)

オルムステッドは、学校の環境の中では不適応を起こしましたが、野山で学ぶときは決して「発達障害」でも「学習障害」でもありませんでした。

「問題があるのは窒息しそうな教室のほうで、手に負えないと言われている子どもたちのほうではない」のです。

では、どうして、ADHDの子どもは、教室に座っているとき勉強に身が入らないのに、自然のなかを歩きまわっているときには、症状が軽減され、記憶力もよくなるのでしょうか?

これまでの発達障害の本であれば、ADHDの子は生まれつき活動的だから、じっと座っているより、自然の中で動き回って学ぶほうが向いているのだ、といった行動特性に基づいた説明がなされていたものです。

しかし、これでは辻褄があいません。先ほどの研究によると、ADHDの子は、都市を散歩したときには症状は改善されず、自然の中を散歩したときにのみ症状が和らいだからです。

同じように活発に身体を動かしていても、都市にいるときはADHDの症状に悩まされるのに、自然の中にいけば問題行動がなくなるのです。

つまるところ、フランシス・クオの実験結果が示しているのは、ADHDの子どもたちは、もともと衝動的なわけでも多動なわけでもなく、感受性の強い子どもたちなのではないか、ということです。

学校の教室だけでなく、おそらくは人類にとっては目新しい都市という環境からくるストレスに敏感で、たとえば、窓から緑が見えるかどうか、といった些細に感じられる違いにも過敏に反応するので、あたかもいつも落ち着きがないかのように見えるのです。

むろん、後で考えるように、ADHDの原因には、それ以外にも様々な環境要因が関わっていると考えられますが、少なくとも、ADHDが単なる遺伝的な脳の神経伝達物質の障害である、という見方が短絡的すぎることだけは確かです。

医学がADHD研究において偏った路線に進まざるを得なかった、複雑な歴史的事情についてはこちらにまとめました。

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多動ではなく解離を起こす子どもたち

これまでの実験に出てきたADHDの子どもたちは、大半が男子でした。これは、ADHDの女の子が少ないからではなく、男女で症状に性差があるためです。

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ADHDの男の子は、多動や衝動性が目立つ「多動性・衝動性優勢型ADHD」、いわゆるジャイアン型のことが多く、問題行動を起こして人目につきやすいので、ADHDと診断される率が高くなります。

しかしADHDの女の子は、不注意が目立つ「不注意優勢型ADHD」、通称 のび太型のことが多く、見逃されやすいと言われています。こちらはADHDから多動(H)を抜いてADDとも呼ばれます。

同じように、自閉スペクトラム症でも、男の子は周りに合わせない振る舞いが目立つ積極奇異型が多いのに対し、女の子は場の空気がわからないなりに周囲に合わせようとする受動型が多く、見逃されやすいとされています。

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ひといちばい敏感な子に書かれているとおり、感受性の強い子どもは、過剰な刺激にさらされたとき、二通りの反応を見せます。

学校の環境が騒がし過ぎたり刺激が多過ぎたりすると、ADD/ADHDのような反応を見せることがあります。(p337)

HSCの中には、過剰な刺激を受けると、ひきこもる、気が散る、ぼんやりする、忘れっぽくなる、やる気がなくなるなどの症状を見せる子がいます。不安、抑うつ状態、臆病になる子もいます。泣いたりイライラしたりといった強い感情を見せる子もいます。

ADHDのように、落ち着きがなくなったり、注意散漫になったり、時には攻撃的になる子もいます。でも、いずれの場合も、刺激がなくなれば、元の状態に戻ります。(p413)

ここまで見てきた、主に男の子に多いADHDや積極奇異型のASDは、後者の、「落ち着きがなくなったり、注意散漫になったり、時には攻撃的になる子」のほうです。

しかし、やはり過剰な刺激を受けて圧倒されているのに、目立った問題行動を見せず、「ひきこもる、気が散る、ぼんやりする、忘れっぽくなる、やる気がなくなるなどの症状」を見せるADDや、受動型ASDの子どもたちがいます。

ぼんやりしているタイプの子どもは、目立った問題行動を起こさないので、多動なタイプの子どもより過敏性が軽いのかというとそうではなく、むしろその逆だと思われます。

わたしたちの脳は、刺激に対して、三段構えの反応を見せます。

軽い刺激を受けたときは、理性をつかさどる前頭前野が対応し、冷静に反応し、自分の行動をうまくコントロールできます。

強い刺激を受けると、扁桃体が危険を知らせるアラームを鳴り響かせ、交感神経系の「闘争・逃走」反応が引き起こされます。刺激に敏感なADHDの子たちは、日常的にこの「闘争・逃走」状態にあるため、多動になってしまいます。

もっと強い刺激を受けると、あたかもブレーカーが落ちるかのように刺激をシャットダウンする迷走神経系の「凍りつき・麻痺」反応、いわゆる解離反応が起こります。日時的にこの解離状態にあるのが、ぼんやりして忘れっぽいADDの子どもたちです。

これらの反応について、詳しくはこちらの記事で説明しました。

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身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、一般的な傾向として、過剰な刺激にさらされたとき、男性は交感神経系の「闘争・逃走」反応を起こしやすく、女性はその一歩先の迷走神経系の「凍りつき・麻痺」の解離反応を起こしやすいようです。

女性は(心拍数を下げる)迷走神経と関連のある「凍りつき」のストレス反応をより多く示しがちである―反対に男性は交感神経―副腎系反応が優性であることが多い。(p17)

ADHDや自閉スペクトラム症で見られる男女の症状の性差は、実際には、この「闘争・逃走」反応と、「凍りつき・麻痺」反応の性差のようです。

男性のADHDに多動性・衝動性優勢型が多く、また男性の自閉スペクトラム症に積極奇異型が多いのは、いずれも感覚刺激に対して「闘争・逃走」反応を起こしているからです。

一方、女性のADHDに不注意優勢型が多く、女性の自閉スペクトラム症に受動型が多いのは、感覚刺激に圧倒され、意識が飛んだり感覚が麻痺したりする「凍りつき・麻痺」の解離反応を起こしているためだとみなせます。

男の子が「逃走・闘争」反応を起こしやすく、女の子が「凍りつき・麻痺」反応を起こしやすいのは、以前に考察したように、生物学的な違いに加えて、社会で生じる文化的なストレスの性差が影響しているように思われます。

先ほどの研究で、男の子のADHDの例ばかりが取り上げられていたことからわかるように、女の子に多いADDは、問題が表面に現れにくいがために放置され、見逃されてしまうことが少なくありません。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、そのような解離反応を起こしている子どもたちについて、こう書かれていました。

行動に表す子供は他者の注意を惹くことが多いのに対して、頭が働かなくなっている子供は誰にも迷惑をかけないので放置され、自分の未来を少しずつ失ってしまうのだ。(p121)

多動や問題行動を起こす子どもたちが過敏性を持っているというのは比較的わかりやすいですが、「頭が働かなくなっている子供」が過敏性のゆえにそうなっている、というのは、解離反応についての知識がなければ気づきにくいものです。

すでに見たように、「闘争・逃走」状態にあるADHDの男の子たちは、自然の多い環境に置かれると多動や衝動性が和らぎました。都市の刺激から解放されたことで、本来の脳の働きを取り戻せたのです。

では、その逆に「凍りつき・麻痺」状態にある女の子たちはどうでしょうか。NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に興味深い研究が載せられていました。

都会の学校でよく見られるごく普通の校庭でも、男子は女子より活発に走りまわる。

ところがスウェーデンの研究によれば、自然の多い環境では男子と女子の運動量の差が縮まるという。

運動量の男女差を、自然が詰めると言ってもいい。(p315)

女の子たちは、都市環境では受動的に振る舞いますが、自然の多い環境では、より活動的になり、男女の性差が縮まりました。

不登校に陥る子どもたちについて研究でも、不注意優勢型ADHD、つまりADDが多いことが知られていますが、やはり、自然の多い環境で過ごすと、症状が和らぐと言われています。

「民泊に効果期待」 不登校研究の三池名誉教授 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

生きる力が落ちている不登校の子どもたちに『自然』の力が大きく影響を及ぼすのではないか。

ADHDの子は慢性疲労症候群や線維筋痛症になりやすい?
ADHDの子どもの脳機能の低下が友田先生により報告されています。

また、感覚過敏が強すぎるせいで、ごく普通の日常生活でも解離を起こしてしまう、解離型自閉症スペクトラム(おもに女性のASDに多いとされる)について書かれた解離の舞台―症状構造と治療でも、やはり自然の中に身を置くことで心身を休める傾向があると書かれていました。

こういった症状を鎮めようとして、ASDの患者たちは好んで海、屋根の上、崖の上などに身を置き、世界との距離を保ち、自分に迫ってくることのない自然のなかに身を置こうとする。

また単調なリズムの繰り返しや文字の世界を好むようになる。(p101)

「解離型自閉症スペクトラム障害」の7つの特徴―究極の少数派としての居場所のなさ
解離症状が強く出る解離型自閉症スペクトラム障害(解離型ASD)の人たちの7つの症状と、社会の少数派として生きることから来る安心できる居場所のなさという原因について書いています。

過剰な刺激によって多動になっている子どもの研究でも、逆に解離反応を起こしている子どもの研究でも、共通しているのは、学校や都市の環境では症状が悪化するのに対し、自然に囲まれていると症状が和らぐ、ということです。

都市に住んでいるか、自然に近いところに住んでいるか、ただそれだけのことで、敏感な子の振る舞いが、個性のレベルから、障害として治療しなければならないレベルにまで変わったりするのはなぜでしょうか。

それを知るには、わたしたちが、常日頃、当たり前と思って接している都市の環境が、どれほど多くの異質な刺激を脳にもたらしているかを調べる必要があります。

敏感な人が無意識に受けている5つの都市ストレス

ここでは、特に、わたしたちの脳が無意識のうちに処理している5つの刺激について考えてみましょう。

1.形ー脳は無意識のフラクタルを処理している

わたしたちが子どものときから見慣れている都市部の風景は、ほんの数世代前までは存在しませんでした。都市のビル群は、人類という種にとって見慣れない異質なデザインです。

身のまわりの風景のデザインがちょっと違うからといって、わたしたちの脳は目ざとく反応したりするのでしょうか。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、10歳のときにジャクソン・ポロックの絵画に一目惚れしたナノ物理学者リチャード・テイラーはとても不思議な発見をしました。

ジャクソン・ポロックの絵は、ドリッピングという手法で描かれていて、素人の目にはただ絵の具を無造作にぶちまけただけに見えるかもしれません。

しかし、同じように絵の具を飛び散らせた絵でも、ポロックの絵は無意識のうちに人々を魅了するのに対し、素人の描いた絵はそうではありません。

テイラーは、ナノ物理学者としての視点からポロックの絵の秘密を探り、コンピュータで分析してみました。

人間の脳は自然界に似ているものを瞬時に見わけることができると、テイラーは考えている。ポロックが好んだフラクタルは、樹木、雪の結晶、鉱脈とよく似ている。

「ポロックが描いたパターンをコンピュータで分析し、森と比較したところ、瓜ふたつだった」とテイラーは言う。(p158)

テイラーは、ポロックの絵が自然界の「フラクタル」に酷似していることを発見しました。

フラクタルとは、1975年、数学者のブノワ・マンデルブロが発見した概念で、同じ形が大小さまざまに繰り返されるデザインのことです。たとえば樹木の枝や雪の結晶、さらにはオウムガイの殻や台風の目など、自然界のいたる所にみられます。

ジャクソン・ポロックの絵は、一見無造作に描かれたようでしたが、実際には精密なフラクタルであり、拡大するごとに同じ形が繰り返し現れる、という特徴を持っていました。

「たしかに自然界にフラクタルのパターンがあることを発見したのは科学者だが、その25年も前に、ポロックは自然界のフラクタルを描いていたのだ!」

1999年、テイラーはこの発見を『ネイチャー』誌に発表し、芸術と物理というふたつの世界で注目を集めた。(p155)

ポロックが自然界のフラクタルに酷似した絵画を描いた、というのはそれだけでも驚きですが、さらに興味深いのは、なぜテイラーを含め多くの人がポロックの絵画に魅了されるのか、という部分です。

言い換えれば、どうしてわたしたちは、自然の風景や、それと同様のフラクタルを含むポロックの絵を好むのでしょうか。

テイラーと科学者たちは、自然界のフラクタルについて研究し、さらに驚くべき発見に至りました。

テイラーとハイェルヘが視線測定器を利用し、被験者の瞳孔が画像―たとえばポロックの絵画など―のどのあたりに向けられているのかを詳細に調べたところ、瞳孔が動くパターンそのものがフラクタルであることがわかった。

…おもしろいことに、アホウドリが餌をさがして海面を飛翔した軌跡を線でたどると、やはりフラクタルのパターンとなる。

それはおそらく、なにかをさがす際にはフラクタルのパターンがもっとも効率がいいからだろう、とテイラーは語る。(p159-160)

自然界に見られるフラクタルな構造は、情報を読み取る効率がもっとも高い、言い換えれば、脳にかかる負担が最も軽い風景なのです。

対照的に、現代社会の都市のデザインは、情報過多で、脳に負担をかけることがわかっています。

目の前の光景が、たとえば都会の交差点のようにあまりにも複雑である場合、脳はそうした情報をすばやく処理することができず、無意識にであれ不快感を覚える。(p160)

それは、目―つまり脳―が景色の構造を読み解こうと懸命になっていることのあらわれだ。都会の風景は、わたしたちに注意を向けるよう強制するのだ。(p172)

効率的に情報を圧縮した自然界のフラクタルな風景に比べ、都会の風景は情報量が多すぎて、脳に無意識の負荷をかけているのです。

わたしたちは、ふだん都会の風景を見ても、情報量が多いかどうかあまり意識していないでしょうし、ましてやフラクタルが含まれているかどうかなど気にかけたこともないでしょう。

しかし、わたしたちが意識できるのは、受け取るさまざまな感覚刺激のほんの一部にすぎません。

わたしたちの脳は無意識のうちに、意識できるよりはるかに多くの情報を処理しており、風景のフラクタル情報はそのひとつです。

たとえわたしたちが意識では気づいていなくても、わたしたちの目は風景のかたちを読み取って処理しており、それが処理しにくい形状のものや情報が多すぎるものであれば、無意識のうちに処理が複雑になり、脳に負荷がかかっています。

興味深いことにウォータールー大学の認知神経科学者デルチョ・ヴァルチャノフは、都市の風景を眺めているときは、目の挙動に変化が起こることを見つけました。

自然の風景を眺めているときには時間をかけてゆっくり視線を這わせているのに対して、都会の風景を眺めているときには視線が頻繁に「固定」するうえ、まばたきの回数が増えることがわかった。(p172)

 

このとき生じているのはサッケードと呼ばれる、目の滑らかですばやい動きの異常です。

脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線の中で、精神科医ノーマン・ドイジは、現代社会に生きる人たちの多くが、このサッケードの異常を抱えていることに注目しています。

人類は、ハンターが遠くから獲物の様子を窺う、採集者が小さな種子を拾うなど、さまざまな距離で対象を見られるよう進化してきた。

今日人々は、コンピュータやスマートフォンで文字を読んだり、急いで読んだり、すぐ目の前にあるものばかりを見ることに一日のほとんどの時間を費やすようになりつつある。

急いで本や新聞を読む人は、「一目」で何行もの文章をとらえるために、すべての語をはっきりと見ているわけではない。

それを何千回も繰り返せば、このような目の使い方を脳に配線する結果になる。こうして、不適切な中心固視に、あるいは遠方や周辺視野の無視に至るのだ。(p328)

この説明からすると、現代人の多くが、目のなめらかな動き(サッケード)の障害を知らず知らずのうちに抱えているのは、情報量の多い環境に対する適応だということになります。

広い自然の中で、必要な情報を集めようとすれば、当然、目をなめらかに動かして見回す必要があります。

しかし、あまりに情報量の多い都市の景観やデジタルデバイスに対しては、多すぎる視覚情報を制限するために、あえてはっきり見ず、読み飛ばすことが必要になります。

これはつまり、都市部やデジタルデバイスの多すぎる視覚情報は、わたしたちの目と脳に、あえて注意散漫になる、という適応を強いるということです。

そして、考えさせられることに、以前の記事で取り上げたように、ADHDの子どもは、目のサッケード運動の異常がみられることがわかっています。

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ADHDやディスレクシアとみなされている症状は、じつは「見る力」つまり視知覚認知機能が原因で生じていることがあります。この記事では、隠れ斜視、輻輳不全、サッケードの弱さの3つを扱い

そうすると、ADHDの子たちが不注意を示すのは、環境に対する適応ではないか、という仮説がなりたちます。

ADHDの人たちは、「ハンターが遠くから獲物の様子を窺う、採集者が小さな種子を拾う」といった活動に適した新奇追求性の遺伝子を強く受け継いでいるので、本質的には不注意どころか、むしろ目ざといはずです。

自然界の中でわずかに動いた獲物に気づけるのは、環境の微細な変化に目ざといからこそできる芸当です。

しかし、現代社会や学校など、周囲からの情報が多すぎる環境では、敏感に周囲に気を配る注意力の高さが災いして、処理できなくなってしまうので、逆に注意を散漫にならせることで、脳が処理する情報量を制限しているのではないでしょうか。

そうであれば、ADHDの人の不注意は、生まれつきの症状ではなく、感覚が鋭敏すぎて、受け取る情報が多すぎることに対する一種の解離反応だということになります。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に引用されているダニエル・レヴィティンの意見からすれば、ADHDの人が片付けられないのは、部屋の中の風景に含まれている情報量が多すぎて混乱するからかもしれません。

神経科学者のダニエル・レヴィティンは「平均的なアメリカ人は平均的な狩猟採集民と比べて、数千倍ものモノを所有している。

生物学的な観点から見れば、わたしたちは脳の処理能力を超える量のモノを所有しているのだ」と記した。(p69)

片付けるのが苦手なADHDの人が、一念発起してシンプルライフやミニマリストを志し、多すぎる情報量を断捨離しようとすることがあるのも不思議ではありません。

ADHDの「片付けられない」とアスペルガーの「捨てられない」の違い―脳の発達は視覚によって導かれる
「片付けられない」「捨てられない」といった問題は、ADHDやアスペルガーなどの発達障害によく見られます。その原因の根本は、意外にも目の視覚機能にあり、脳の発達は視覚によって導かれる

ADHDの子どもたちや、感覚過敏をもつ人たちが、都会では多動になったり、解離を起こしたりするのは、単に心理的な問題ではなく、刺激が多すぎるというもっともな理由によるものなのです。

2.光ーフルスペクトルの色からなる言語体系

都市部で生活する人たちが無意識のうちにさらされている過剰な刺激の二番目は「光」です。

昨年、概日リズムの研究者たちがノーベル賞を受賞したこともあり、現代社会の過剰な光がわたしたちの身体にもたらす害に注目する人が増えています。

都市で生まれ育った現代の若者たちにとって、夜で街灯やコンビニの光が明るいのは当たり前の光景ですし、夜空の星があまり見えないのも、何の変哲もないいつもの風景でしょう。

しかし、これもやはり、人類という種にとっては、かつて経験したことがない奇妙な環境です。

最近のニュースでも、世界各地で人工照明の明るさが増加しつづけていて、もはや「持続不可能」なレベルになっていると専門家が危惧していました。

省エネLED、世界の光害拡大に拍車 研究:時事ドットコム

米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に発表された今回の論文が根拠としている人工衛星観測データは、地球の夜の明るさがますます増しており、屋外の人工照明に照らされた範囲の表面積が2012年~2016年に年2・2%のペースで増加したことを示している。

 専門家らは、この事態を問題視している。夜間の光は体内時計を混乱させ、がん、糖尿病、うつ病などの発症リスクを高めることが知られているからだ。

 動物に関しては、夜間の光は昆虫を引き寄せたり、渡り鳥やウミガメの方向感覚を失わせたりなどで死に直結する可能性がある。

本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかという本に書かれているとおり、いま地球上からは急速に「本当の夜」が失われていおり、星空を守るための保護運動が行われているほどです。

この本の中で、睡眠の専門家スティーヴン・ロックリーは、光害が動物、ひいては人間にもたらす影響について、2011年に次のように述べたとされています。

人間も動物です。ほかの動物よりも高度な存在だと考える理由はありません。

明暗のサイクルが、樹木の季節による変化や両生類の繁殖周期など、十分に確立されていたはずのリズムを狂わせたとしたら、自分たちにも同じことが起こると考えない理由はないのです。(p165)

夜間の過剰な光による体内時計の混乱は、さまざまな病気に関連していると考えられています。このブログでも、概日リズム睡眠障害の問題を取り上げてきました。

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概日リズム睡眠障害には、さまざまな遺伝的な要素が絡んでいることが判明していますが、突き詰めて言えば、概日リズム睡眠障害のほとんどは現代社会の光害がもたらした睡眠障害です。

上の記事の中で、どれほど生活を改善しても非24時間型睡眠覚醒症候群が治らなかった自閉スペクトラム症の女性が、キャンプ生活をはじめたことで正常な睡眠リズムを取り戻せた、というエピソードを紹介しました。

おそらく、特定の遺伝子を持っていたとしても、現代社会のような過剰な光がなければ、概日リズム睡眠障害はそう簡単には発症しないのでしょう。

健康な人の場合でも、夜間のちょっとした明かりで、メラトニンの分泌が乱れたり、睡眠の質が悪くなったりすることを示す研究はたくさんあります。

研究結果:わずか3ルクスの光で睡眠リズムが狂うかもしれない
奈良県立医科大学によると、夜間、豆電球程度の光にさらされるだけでも、メラトニンの分泌が減り、概日リズムが乱れることが明らかになったそうです。

そうであれば、普通以上に過敏性の強い人の場合、ちょっとした部屋の蛍光灯の明かりや、明るさをしぼったゲーム機やスマートフォンの明かりでさえ、概日リズムを乱すには十分すぎるほどなのです。

ADHDの人が概日リズム睡眠障害になりやすいのは、独特の脳機能が原因というより、現代社会の都市に蔓延している明るさに、過敏な脳が反応してしまうせいでしょう。

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しかし、過敏な人に影響を与えているのは、光そのものだけではありません。

脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線に書かれているように、光に含まれている個々の色、つまり光の波長もまた、それぞれ生体に対して異なる影響を及ぼすことが知られています。

私たち人間には、驚くべき作用たる視覚だけを、光と結びつけて考える傾向がある。しかし、人間と光の関係はそれにとどまらず、もっと根源的である。

…たとえば塩性湿地に生息する好塩菌はオレンジ光を取り込み、感光性の分子がそれをエネルギーに変換する。

感光性分子がオレンジ光を吸収すると、好塩菌はさらなる光のエネルギーを求めて光源に向かって泳いでいく。また、紫外線や緑色光を嫌う。

好塩菌への影響が光の波長によって異なるという事実は、光の周波数がエネルギーのみならず、さまざまな種類の情報を伝達することを意味する。(p195)

光は単に朝か夜かを知らせ、概日リズムを整えるだけの信号(ツァイトゲーバー)ではありません。光に含まれる個々の色は、単に時刻のみならず「さまざまな種類の情報を伝達する」からです。

現代の都市の過剰な光がもたらす健康被害についての研究は、光に含まれる個々の色が健康に及ぼす影響についてはあまり注目してきませんでした。

これまで、色がわたしたちに及ぼす影響は、色彩心理学のような分野で研究され、あくまで、気分や好みによって変化する心理的なものだと考えられてきました。

しかし実際には、光に含まれる個々の色は、わたしたちの身体に散らばる生物学的な受容体に、それぞれまったく異なるメッセージを伝えています。

色に対する極端な敏感さは、私たちの身体を構成する個々の細胞やタンパク質の内部にも存在する。

1979年、モスクワ大学の科学者カレル・マルチネクとイリヤ・ベレズンは、ヒトの身体がおびただしい数の感光性の化学スイッチや増幅器に満ちていることを示した。

そのスイッチや増幅器は、色、すなわち波長によって受ける影響が異なる。(p195-196)

光に含まれる個々の色は、それぞれ異なる光感受性分子に影響を及ぼし、わたしたちの脳や身体に現実の変化をもたらします。

もっとも有名なのは、概日リズム睡眠障害にかかわるブルーライトです。光が青色か赤色か、というだけで、わたしたちの概日リズムが前進するか後退するかが変化します。

また、偏頭痛の痛みが、緑色の波長で改善し、青色の波長で悪化するという研究もありました。

片頭痛は「青色」の光で悪化し、「緑色」の光で苦痛から開放される!? |健康・医療情報でQOLを高める~ヘルスプレス/HEALTH PRESS

かつては暗いところで本を読んだり、ゲームしたりすると近視になる、と言われたものですが、近年の研究では、日光に含まれる紫色の波長の光(バイオレットライト)が近視を抑制していることもわかってきました。

蛍光灯やLEDにはバイオレットライトがほとんど含まれていいないため、太陽光の下で遊ぶ機会がない子どもたちは、近視が進行していくと言われています。

近視進行を抑制する光!?「バイオレットライト」とは?│こどもの近視情報サイト ME-MAMORU(メマモル)

この本によると、光は一つの言語体系のようなもので、個々の色は、それぞれ別々の単語のようなものだ、と書かれています。

光のエネルギーは一つの言語体系を構成し、特定の波長が、生きた細胞が反応する個々の単語に相当すると言えよう。(p225)

このブログで以前に取り上げたアーレンシンドロームという概念は、明るさ過敏を訴える子どもたちでも、よく調べてみると、それぞれ異なる色の波長に対して過敏性を持っている、ということを示唆しています。

光に過敏性を持っている人たちでも、どの波長の色に敏感かによって、表に出てくる症状が異なってくる可能性があります。

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また、光を感知するのは目だけだと思われがちですが、先ほど引用した研究が示していたとおり、「ヒトの身体がおびただしい数の感光性の化学スイッチや増幅器に満ちている」ことが明らかになっています。

単なる視覚の明るさ過敏ではなく、全身が光過敏になってしまう例があることは、アンナ・リンジーの体験談まっくらやみで見えたものを読むとわかります。

真っ暗闇の中で輝く人生を生きる、全身が光過敏症の女性アンナ・リンジーの物語
光過敏症の日常を文学的につづったアンナ・リンジーの「まっくらやみで見えたもの」の感想。

わたしたちが何気なく浴びている光は、視覚のみならず全身の光受容体に多種多様なメッセージを送っていて、敏感な人の神経系に良くも悪くも強い影響をもたらしています。

光という言葉でくくってしまえば、日光も蛍光灯もLEDも、どれも同じであるかに思えますが、色の波長という成分から見れば、日光はあらゆる波長を含むフルスペクトルであるのに対し、人工照明は特定の波長が欠けていたり偏ったりしています。

現在使われている人工の光は、生命を保護する波長によって構成されていないケースが多い。

優雅な中庭や展示ロビーばかりでなく、日常生活が繰り広げられる場や仕事場にも、フルスペクトルの光が必要なのである。

貧弱な光のもとでの生活が引き起こすダメージは、目には見えない。

私たちは一時的になら陰うつな空間にも耐えられる。しかし、光に満ちた空間に入ったときに私たちが感じる喜びは、単なる美的な快にとどまるものではなく、健康な生活を送るためには光が必須であることを示唆する。(p248-249)

わたしたちが生まれたときからごく自然に接している人工照明や、驚くほど美麗なハイビジョン画質のモニタは、一見十分な光に思えますが、色の観点からすれば、わたしたちの生体にとって欠けた言語体系です。

これまで人類は、特定の「単語」が欠けた不自然な光に日常的にさらされることはありませんでした。

ごく普通の人たちでさえ「色に対する極端な敏感さ」を全身に有しているのであれば、感覚が鋭敏な人たちが、知らず知らずのうちに、不自然な色の影響を受けているとしても意外ではないでしょう。

別の記事で考えたように、現代社会の光害は、わたしたちが気づかないうちに、人類が脈々と受け継いできた睡眠の構造を、ここ150年ほどで組み替えてしまうほどの並々ならぬ影響を及ぼしてきた可能性があります。

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3.音ー騒音性難聴と学習性難聴

ここまで考えてきた、都市の形や光がもたらす脳の負荷は、ほとんどの人にとって気づかないうちに生じているものが多いでしょう。

では、音はどうでしょうか。音の過敏性を自覚している人は比較的多く、工事やトラック、飛行機などの騒音が気になってストレスを抱えたり、不眠症になったりする人もいます。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によると、そうした騒音は、単に心理的な不快感をもたらしているだけでなく、現実の健康問題を引き起こしていることがわかっています。

いまでも現実に騒音性難聴に苦しむ人は多く、患者の若年化が進んでいる。

たとえその騒音がきわめて小さくても、その影響は外耳道の奥にまで及ぶ。

複数の興味深い研究によれば、航空機や列車や車の騒音が聞こえる場所で被験者に心電図をつけたまま眠ってもらったところ、睡眠時にも覚醒時にも交感神経系が騒音に大きく反応し、心拍数、血圧、呼吸数が上昇した。(p122)

眠っているあいだに聞こえる騒音で、心拍数や血圧が上昇することからすると、騒音による健康被害は、単なる「気にしすぎ」ではありません。

生物は音をたよりに危険を判別します。捕食者が近づいてきたら、たとえ寝ていても反応しなければなりません。わたしたちの耳は「潜在意識のうえでいわば寝ずの番をして」います。(p123)

敏感な人(HSP)についての研究では、人間や動物において敏感さの遺伝子が保存されてきたのは、そうした敏感な個体が、危険を知らせる見張り番の役目を果たしてきたからではないか、とされていました。

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敏感な人は打たれ弱く、ストレスを抱えやすい。そんなデメリットばかりが注目されがちですが、人一倍敏感な人(HSP)が持つ「差次感受性」という特質が、個人にとっても社会にとってもメリッ

トラックや電車の騒音は、自然界でいえば明らかに危険を知らせるほどの物音です。潜在意識のうえで寝ずの番をしている敏感な人が、騒音に反応して交感神経を緊張させるのは、見張り番の役目を受け継いだ生物としては当然のことでしょう。

音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々のなかで、脳神経科学者のオリヴァー・サックスは、現代人がごく日時的に出会う騒音が、聴力を損傷させていると警告しています。

しかしひどい傷害からは守られているとはいえ、繊細な有毛細胞をもつコルチ器は、ほかの意味で脆弱だ。

そもそも大きな音に弱い(飛行機、ロック・コンサート、がんがん鳴るiPodなどは言うまでもなく、救急車のサイレンが鳴ったり、ゴミ収集車が来たりするたびに損害を受ける)。(p186)

しかしながら、敏感な人が抱えている「音」のストレスは、本人が自覚できる騒音だけではありません。脳がわたしたちの知らないところで風景のフラクタルを処理していたように、無意識に処理されている音のほうがやっかいです。

今回読んだ本でも、日常的なイヤホンの使用による「学習性難聴」とでも言うべき問題が指摘されていました。(p141)

「学習性難聴」は「騒音性難聴」よりも深刻です。なぜなら、「騒音性難聴」に至る人は、自分が騒音に苦しめられていることを自覚していましたが、「学習性難聴」は無意識のうちに起こっているからです。

学習性難聴は、わたしたちが普段、まったく意識せずに聞いている音のボリュームが、人類という種がこれまで聞いてきた音を上回っているがために、脳がそれに適応する現象です。

日時的、慢性的に、脳の処理能力を超えるボリュームの音が聞こえるために、脳がみずから難聴になることで、つまり感覚の鋭敏さを麻痺させることで負荷を減らそうとしているわけです。

騒音によって交感神経が興奮するのは「逃走・闘争」反応ですが、慢性的な刺激のために感覚が麻痺してしまう学習性難聴は「凍りつき・麻痺」の解離反応です。

今回読んだNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方の著者は、騒音による健康被害について知ったとき、騒音計アプリを使って、家の中の騒音の度合いを調べてみました。

するとなんと、これまでごく普通だと思っていた自宅の音の大きさは、高血圧の発症や学習の遅れを引き起こすとされる騒音と同程度でした。(p127)

このエピソードからわかるように、現代社会の人たちは、身のまわりの騒音に対する感覚が麻痺しています。工事の音や、救急車の音のような、一時的な騒音には気づきますが、ずっと住んでいる場所の慢性的な騒音には気づかないよう「学習」されてしまっています。

無意識のうちに脳が騒音を処理していることを知ると、壁を防音構造にしたり、ノイズキャンセリングヘッドホンをつけたりすればいいのでは、と考えるかもしれません。

たしかに、騒音の大きさを減らし、耳を保護するのには役立ちますが、それでは不十分です。根本の問題は、音の大きさ、ではなく音の種類だからです。

これまで考えてきたことによれば、脳には処理しにくい形と処理しやすい形がありました。光や色も、時と場合によっては脳に過負荷をかけることがありますが、だからといって一切遮断すればよい、というわけではありませんでした。

音も同様です。自然界の中で、人類は無音の暮らしをしていたわけではありません。自然の中でも大きな音は生じます。

しかし、自然界の音は都会の音とは異なっています。たとえば、交通騒音を不快に感じる人は少なくありませんが、同じほど大きな川の音をうるさいと感じる人はいないそうです。鳥のさえずりのような、人類がずっと親しんできた環境音もそうです。(p141)

いずれの場合も、刺激そのものが悪いのではなく、刺激の種類や度合い、タイミングが、これまで人類が長い年月をかけて適応してきたものと異なっているために、脳に負担が生じていることがわかります。

4.匂いー脳に続く高速道路

騒音と同じく、匂いもまた、敏感な人が意識することの多い感覚のひとつです。

化学物質過敏症に代表されるように、ほかの人がほとんど気にも留めないような匂いにストレスを感じ、体調を崩す人は少なくありません。人間の嗅覚がとても鋭敏であることを考えれば、それも不思議ではありません。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方にはこうありました。

人間の鼻は一兆種類ものにおいを嗅ぎわけられるという。においを本人が自覚していない場合もある。

寮の同じ部屋で生活している女性たちの月経周期が同調することはよく知られている。

互いに相手のフェロモンを嗅ぎとっているのだ。女性は男性よりにおいに敏感で、妊娠中はちょっとした危険もすぐに察知しなければならないため、嗅覚がさらに鋭敏になる。(p104)

化学物質過敏症はよく心因性や詐病のようにみなされますが、匂いと脳の反応についての研究を調べれば、けっして心の問題ではないことがわかります。

おそらく、特定のにおいと身体反応とがパブロフの犬のように条件付けされてしまうことで起こるのでしょう。

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この本によると、これまで、鼻から吸い込む物は主に肺に影響すると考えられていました。しかし、2003年になって、「脳に続くいわば高速道路である鼻の役割」が注目されるようになりました。(p106)

わたしたちの嗅覚は、意識の上であれ、無意識下であれ、多種多様な匂いを嗅ぎわけられますが、嗅覚から得た情報は、脳の危険を知らせるアラームである扁桃体に直結しています。

においは脳に古くからある部位に入り込み、そこでは逃走・闘争反応を生じさせる扁桃体が待ちかまえている。(p103)

扁桃体が過剰な刺激にさらされると、「闘争・逃走」反応が起こり、交感神経が興奮するなど、さまざまな自律神経症状が起こることはすでに見たとおりです。さらに刺激が強すぎると、感覚のブレーカーが落ち「凍りつき・麻痺」反応に至ります。

ゴミ捨て場の近くなど、慢性的なひどい異臭が漂う場所に住む人たちは、しばしば悪臭に対して麻痺状態に陥っています。

先ほど引用した、匂いによって月経周期が同調する女性たちについての文脈には、匂いが無意識のうちにわたしたちの脳や身体に影響を与え、「本人が自覚していない場合もある」と書かれていました。

わたしたちの嗅覚は、知らず知らずのうちに、環境の微細な匂いを嗅ぎ取り、情報を脳に伝達していることがわかっています。

たとえば、森を歩くと、わたしたちは土の匂い、木の香りを無意識のうちに感じ取っています。

2002年以降、複数の研究により、土壌には放線菌のように人間の健康に貢献する成分が含まれていることがわかってきた。

そうした土のにおいを、人間の鼻は1000億分の1の濃度でも嗅ぎとることができる。(p46)

研究によれば、わたしたちが森林浴でリラックスできる理由のひとつは、無意識のうちに、フィトンチッド(phytoncide)と呼ばれる樹木の香りを嗅ぎ取っているからだそうです。

このブログでも前に取り上げたように、日本の疲労研究者たちは、草木の香りに含まれている「青葉アルコール」や「青葉アルデヒド」という成分が、抗疲労効果を持っていることを実証しました。

みどりの香りとは?|疲労回復を科学的に立証した癒しの香り【みどりの香り】

たとえわたしたちが気づいていなくても、森林や草木の香りが、無意識のうちに脳をリラックスさせているのだとすれば、その逆も言えるのではないでしょうか。

つまり、都市生活の中で、不自然な匂いにさらされているなら、無意識のうちにストレスを抱えてしまうかもしれません。

次の実験は、ぞっとするような事実を明らかにしています。

ある研究者たちは、初めてスカイダイビングをした男性の肌着を集めた。その肌着と、怖い思いをしていない男性の肌着のにおいを、被験者に嗅いでもらった。

すると、スカイダイビングをした人の汗のにおいを嗅いだ被験者だけが、ストレスホルモンの値が高くなることがわかった。彼らは恐怖心のにおいを嗅ぎとり、自身も恐怖を覚えたのだ。(p104)

この実験の参加者たちは、恐怖を覚えた人たちの体臭をかいだだけで、ストレスホルモンの値が高くなりました。言い換えれば、扁桃体の「闘争・逃走」反応が引き起こされました。

わたしたちは普段の生活で、初めてスカイダイビングをした男性の体臭など匂う機会がないと思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。

都市の人混みの中、満員電車の中、締め切ったオフィスや学校の教室の中では、それこそ、さまざまなストレスを経験している人たちの体臭が混在しています。

森という環境の中で、わたしたちが無意識のうちにフィトンチッドやみどりの香りを感じ取ってリラックスするのであれば、都市という環境の中で、敏感な人が無意識のうちに周りの人たちのストレスを嗅ぎ分けていたとしても不思議ではないでしょう。

これは何も、都市に住む人々がみな体臭を消すスプレーを使うべきだ、という意味ではありません。わたしたちは、匂いを通して、良くも悪くも、互いが意識している以上の情報をやり取りしているという意味です。

まわりの人の体臭からストレスを感じとる、というと嫌な気持ちになりますが、わたしたちが無意識のうちに結婚相手にふさわしい人を嗅ぎ分けている、というと、体臭が必ずしも悪いものでないことがわかるでしょう。

心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会までに載せられているように、スイスの動物学者クラウス・ウェデキンドは、わたしたちが好きな相手を選ぶ際、無意識の体臭を手がかりにしていることを明らかにしました。

わたしたちはそれぞれ主要組織適合遺伝子複合体、通称、MHC遺伝子と呼ばれるものを持っています。MHC遺伝子がよく似ている人同士では、免疫系の反応が似ているので、臓器移植が成功しやすくなります。

しかし、免疫系の反応が似ているということは、多様性に欠けるということなので、MHC遺伝子が似ている男女が結婚してしまうと、生まれる子どもが病弱になるリスクをはらみます。

わたしたち人間では、多くの文化で近親相姦がタブーとされていますが、近親相姦によって問題が生じるのは動物も同じです。倫理観を持たない動物は、どうやって近親相姦を避けることができるのか。

実は幼いときに一緒に育った家族の匂いを記憶し、その匂いと照らし合わせることで、無意識のうちにMHC遺伝子が似ていない相手を選んでいるそうです。

クラウス・ウェデキンドの実験、およびその後に続いた様々な研究によれば、わたしたち人間もまた、無意識のうちに互いの体臭によってMHC遺伝子の違いを嗅ぎ分け、結婚相手にふさわしい相手を判断していることがわかりました。

ウェデキンドの成果を裏付けるように、ブラン大学のにおいの心理学を専門とするレイチェル・S・ハーツの研究室で実施された研究では、女性は体臭を男性の唯一最大の魅惑的な(または不快な!)身体的特徴ととらえていることがわかった。

女性が、ある男性の自然な体臭を自分には「合わない」と感じると、他の側面がどんなに魅力的であってもその男性とは性交渉をもちたくないことをハーツの研究は示している。

ハーツは被験者のMHC遺伝子を調べなかったが、女性がある男性のにおいを別のにおいより好むのは、その男性の免疫系遺伝子が自分自身の免疫系を捕捉するかどうかを、体臭で判断しているせいではないかと考えている。(p182)

つまり、光や音と同じく、匂いもまた、必ずしも厄介者ではありません。都会では嫌われる体臭もまた、決してむやみやたらに消臭してよいものではなく、良くも悪くも多彩なメッセージを伝えています。

わたしたちが意識の上で自覚している匂いはほんのわずかですが、無意識下では大量の情報を処理していることがわかります。敏感な人は、無意識のうちに感じとる匂いからも、強い影響を受けているのです。

5.狭い住居と人混みー「人間の動物園」

都市環境からくる刺激のうち、最後に考えたいのは、狭い住居と人混みによるストレスです。

人類史の長きにわたって、人類という種は、これほど密集して生活をしたことはありませんでした。ウサギ小屋と揶揄される集合住宅も、満員電車も、学校の教室も、渋谷のスクランブル交差点も存在しませんでした。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方の中で、韓国の忠南大学の朴範鎭は、現代社会の極端に密集した異様な環境を動物園に例えています。

「都会は人類の動物園です。学校も、人類の動物園だと思いますよ」(p116)

野生動物は、動物園のような狭く密集した環境に閉じ込められるとどうなるのでしょうか。

1965年、動物行動学者のパウル・ライハウゼンが、異常に混雑した環境に何匹もの猫を押し込めたらどうなるかという実験を行なった。すると猫は横暴になり、「いじめっ子軍団」と化した。

ノルウェーの実験で同様の環境にラットを置いたところ、ラットは巣作りの方法を忘れ、自分の身体を食べはじめた。

霊長類が狭い場所に閉じ込められると、ホルモンのバランスが崩れ、生殖能力が急激に低下する。(p321)

狭い場所に閉じ込められた動物たちに生じた変化は、現代の子どもたちや、若者たちに起こっている問題とよく似ています。教室を支配するいじめっ子たち、体調不良で不登校になる子ども、自傷行為をはじめる若者、子育ての仕方を知らない親など。

現代の学校社会で不適応を起こしやすいADHDの子どもは、脳の前頭葉の血流が低下していると言われています。前頭葉が弱いと、計画したり行動をコントロールしたりする能力、「実行機能」が働きません。

医師たちは、ADHDの前頭葉の異常は、医学的な「発達障害」だと述べるかもしれません。しかし、動物を使った研究は、別の見方を示唆しています。 

ワシントン州立大学の神経科学者ヤーク・パンクセップが実施した実験では、若年ラットが移動と遊びを制限された場合、前頭葉(実行機能をつかさどる部位)が正常に成長しなくなる。

そのうえ、こうしたラットが成長すると、いわばラット版の反社会的行動をとるようになる。

「充分に遊べない、あるいは存分に動きまわれる場所がない環境で成長した動物は、遊びを渇望するようになる」とパンクセップは言う。

「衝動をうまく抑えることができなくなり、ついには仲間とのあいだでさまざまな問題を起こす」(p306)

もしも、このラットの実験が人間にも当てはまるとすれば、ADHDは生まれつきの「発達障害」ではない、ということになります。

ヴァーモント大学の生物行動心理学者ジョン・グリーンは、「思春期の子どもの前頭前野は、環境刺激を体験することになって形成される」と述べています。(p317)

ADHDは、都市また学校という「人類の動物園」で育てられ、自然の中で得られるはずの環境刺激を十分受けられなかったせいで起こる二次障害ではないでしょうか。

ADHDの子どもたちは、リタリン(日本ではコンサータ)をはじめとする薬を処方されますが、そうした薬がどんな役割を果たしているかについて、神経科学者ヤーク・パンクセップはこう言います。

パンクセップによると、ADHDの治療によく使われているリタリンやアデラルなどの精神刺激薬は、たしかに子どもの注意力や学業成績を改善するのかもしれないが、一時的とはいえ、探検したいという衝動を抑える副作用がともなう。

「こうした薬はいわば『抗遊び薬』なんだよ」と、彼は言う。「これはまぎれもない事実で、疑いの余地はない」(p306)

ADHDの「治療薬」は、遊びや冒険を渇望する衝動を抑え、都市や学校という、生物としては異質な環境、本来ADHDの子に合っていない環境に適応し、なんとかやっていくために必要な代償なのです。

自然界の中で育つ野生動物は、人間の助けなど必要としませんが、動物園で飼育しようとすると、とたんに人間の世話が必要になります。ときには、野生では生じない病気を発症し、抗生物質のような薬も投与されます。

心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会までの中で、カリフォルニア大学の神経生物学者ベンジャミン・L・ハートはこう述べます。

「獣医学をやっていると、ペットや動物園の動物にどれだけ手がかかっているか、よくわかるんだ。

いつも清潔で保護された環境にいて、傷ができれば消毒してもらい、ワクチンや抗生物質と、いろいろな薬をもらえる。

それにひきかえ野生動物ときたら、ひっかき傷や打撲だらけで、やたらと噛み付つく昆虫の群れにさらされ、土の上を引きずった死骸を食べる。

それなのに、医療の点では何の世話をしてもらえないままで、たいていはそっちのほうが寄生生物の数が少ない。

介入なんかまったくなしに、自然界でうまくやっている。とてもよく育っている動物たちもいるしね」(p167)

野生から動物園に連れてこられた動物たちが、引っかき傷や打撲の痕のある健康な生活ひきかえに、不健康と薬漬けの生活を手に入れるのは、学校社会に連れてこられたADHDの子たちの問題とよく似ています。

狭く密集した環境に閉じ込められた動物たちが、健康を損ない、異常な行動をとるようになるのは、微生物を通してもたらされる刺激の欠如も関係しているでしょう。

寄生虫なき病は、動物園の飼育下の動物たちが、自然界では決してかからないような病気、それも現代人に急増している自己免疫疾患やアレルギーを発症することを、さまざまな調査報告を引用しつつ明らかにしています。

飼育下の動物や家畜は、現代人と同じように駆虫され、抗生物質の投与を受けている。屋内で飼育されている動物が曝露している屋内特有の微生物も、本来「期待されている」ものとは異なっている。

彼らに与えられる飼料は、消毒済みの加工食品である場合が多い。このような状態で飼育されている動物は、人類と同じように自己免疫疾患やアレルギー疾患を起こす。(p456)

人工的で清潔な環境では、土壌に含まれる細菌との接触が減ります。幼少期に細菌や寄生虫と接触しないことが、免疫系の発達を妨げ、成長してからの過敏性や、アレルギー、自己免疫疾患の発症をもたらしているとも言われています。

ADHDの子どもたちの場合も、やはり、腸内細菌の乱れが報告されています。

大自然の中で遊ぶことからくる環境刺激がなければ前頭葉が発達しないように、大自然に生息する微生物との接触からくる刺激がなければ免疫機構が十分に発達しないのです。

腸内細菌の絶滅が現代の慢性病をもたらした―「沈黙の春」から「抗生物質の冬」へ
2015年の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたマーティン・ブレイザー教授の「失われていく、我々の内なる細菌」から、抗生物質や帝王切開などによってもたらされている腸内細菌(

ADHD症状をもたらす要因は、ほかにも多く指摘されていますが、その多くが、人工的に作り出された不自然な環境によって引き起こされていることは注目に値します。たとえば、慢性的な睡眠不足、食品添加物、デジタル機器依存、愛着障害など。

「私って大人のADHD?」と思ったら注意したいことリスト―成人ADHDの約7割は違う原因かも
大人になってからADHD症状を示す人の少なくとも7割近くは、子どものころにはADHD症状がなく、従来の意味での発達障害ではないと考えられます。近年のさまざまな研究から、大人のADH

人間の子どもと野生動物を比較することに違和感を覚える人もいるかもしれませんが、わたしたちはまぎれもなく、この地球上に生きる動物の種のひとつにすぎない、ということを忘れるわけにはいきません。

現代の心理学者やカウンセラー、精神分析学者たちは、子どもや若者が抱える多種多様な問題を、もっともらしい心の問題として説明しようとします。けれども本当にそれは、心というつかみどころのない何かが引き起こす問題なのでしょうか。

意識と無意識のあいだ 「ぼんやり」したとき脳で起きていること (ブルーバックス)によると、イギリスの動物行動学者コンウィ・ロイド・モーガンは「モーガンの公準」として知られる次のような原則を提唱しました。

心理学者や動物行動学者は、人間らしい思考を動物に当てはめるときには慎重になるようにたびたび注意を促してきた。

イギリスの動物行動学者コンウィ・ロイド・モーガンはダーウィンの同僚で信奉者でもあるトーマス・ヘンリー・ハクスリーの下で研究した人物で、「モーガンの公準」として知られるようになった次のような有名な法則を確立した。

低次の心的能力によって説明可能なことを、高次の心的能力によって解釈してはならない。(p65)

モーガンの公準をわたしたちホモ・サピエンスに当てはめるならこうなります。すなわち、生物的な感覚刺激という、より低次の能力によって説明できることを、心という高次の機能によって解釈してはならない。

わたし自身、自分が陥った問題について、もっとも納得のいった説明は、医学的な説明でも、心理学的な説明でもなく、生物学や動物行動学からの説明でした。

前にも引用したことがありますが、身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの印象深い言葉を、ここで改めて引いておきます。

したがって、私たちは結局のところ、動物の端くれにすぎないのである。ただ本能的で、感情的で、論理的なだけである。

終わりに、この章の幕開けを告げたマッシモ・ピグリウッチの引用を繰り返しておく。それがすべてを簡潔に要約してくれそうだからである。

「私たちは特別な動物なのかもしれない。私たちはとても特別な特徴を持った特殊な動物なのかもしれない。

しかしそれでも私たちは動物なのである」(p295)

ここで考えた5つのタイプの刺激の研究が物語るのは、現代社会の環境に刺激が過剰だから、感受性の強い人たちは刺激から身を守らなければならない、という単純な話ではありません。

ちまたにあふれる感覚過敏の人へのアドバイスでは、静かな場所へ行くなど、刺激を減らすことが勧められます。しかし、本当の問題は刺激が多すぎることだけではありません。

都市や学校といった、「人類の動物園」には、本来、動物が生きるべき自然環境にある多種多様な刺激、ここでは取り上げきれないほど多くの刺激が欠如していて、敏感な子どもはそれをはっきりと感じ取っているのではないでしょうか。

同じ本の中で、医師であるマックス・ブロウマンの著書『Introduction to the Study Blake』(ウィリアム・ブレイク研究序説)から、次のような危惧が引用されていました。

私たちの教養において、思い出したり考慮にいれたりすることが最も難しい力は生まれつきの本能である。

長い間文明生活をおくってきたために、ヒトはその原始的な中心部分から隔たってしまった。それは樫の木の小枝の橋から、根の最深部までの距離ぐらい遠い。

排水口が臭うまでその存在に気づかないほど、生活が洗練されてしまっている。

私たちは知性を機械的に用いることにあまりにも自信を持つようになった。

そのため、本能が真実や自然な表現を見いだせるかどうかに関わらず、その機能をとるに足らないものだとまで思うようになってしまった。

早晩、私たちが本能に関心を向けていないことに対するしっぺ返しをくらうことになるだろう……そして大きくうろたえることだろう。(p269)

彼は、高度に文明化された人類にとって、自分たちが元はと言えば自然界の中で生きてきた動物のひとつにすぎないという部分は、「思い出したり考慮にいれたりすることが最も難しい」と書かれています。

わたしたちは、都市生活において、動物的な本能を「とるに足らないものだとまで思うようになって」しまいましたが、それは必ずしっぺ返しをもたらす、と警告されています。

そのしっぺ返しを最初に食らって、「大きくうろたえる」のが、ホモ・サピエンスという種の中で、とりわけ感受性の強い、環境に敏感な個体であるのは間違いありません。

人類という種の中の「炭鉱のカナリア」の役目を担ってきた敏感な個体が、現代における都市への集団移動において、新天地の刺激が過剰であることだけでなく、本来あるべき刺激がないことにも敏感に反応し、多様な症状が現れているのではないでしょうか。

自然とのつながりを取り戻すには

ここまで、わたしたちがごく当たり前だと感じている都市環境には、人類にとって、さまざまな異質な刺激が含まれているという研究を見てきました。

都市の景観は、自然のフラクタル構造に比べて情報が多すぎますし、人工照明には人体に必要なフルスペクトルの色が含まれていません。

都市の騒音は寝ている間も交感神経を活性化させ、慢性的な学習性難聴をもたらしてもいます。

わたしたちは都市で生じる匂いから、他人の感じるストレスを含む、さまざまなメッセージを受け取っています。密集した狭い空間で生活することは、脳の自然な発達を妨げてさえいます。

では、どうすればいいのでしょうか。敏感な人たちは、都市や文明を捨て、未開の地に移り住み、電気もガスも水道もない原始的な暮らしを営むべきなのでしょうか。

その結論は極端すぎるでしょう。今回読んだNATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方は、本能のままに生きる動物に戻るように勧めているわけではありません。そうではなく、文明と自然の共存が必要だと述べています。

もちろん、究極の逆説(パラドックス)といえば、人間が手つかずの自然と文明の両方を必要としていることだ。

そして、いっぽうに傾けば、もういっぽうを切望する。(p258)

必要なのは、バランスを取ることです。テクノロジーがもたらしたさまざまな刺激がなければ、文化も芸術も、人間らしさも生まれません。

都市生活がもたらす多種多様な刺激は、わたしたちホモ・サピエンスにとって「異質」ですが、表現を変えれば、「新鮮」だともいえます。

敏感な人たちに必要なのは、現代社会の刺激をシャットアウトすることではなく、新鮮な刺激とほどよく付き合うこと、そして、異質な刺激に圧倒されそうになったら、馴染み深い自然の中で心身を休めることです。

この本では、現代社会の刺激で疲弊した人たちを対象に、どのくらい自然と接すれば、健康を回復できるか具体的に調査したフィンランドやスウェーデン、スコットランドなどの研究が載せられていました。

一ヶ月に五時間、自然のなかですごしましょうという提案を実行すれば、日々の雑事に追われ、一服の清涼剤を求めている人たちにはたしかに効果があるだろう。

でも、仕事でくたくたになっているわけではない人の場合は? それよりもっと深刻な問題を抱えている人はどうすればいいのだろう? 

その答えが知りたいのなら、スコットランドやスウェーデンの人たちのアドバイスに従おう。

重度のうつ病を患う人を森や庭に送り込み、そのまましばらくすごしてもらうという研究をすでに実施しているからだ。

どうやら、効果をあげるには12週間、必要らしい。(p200)

現代社会に生きる大半の人たちにとって、刺激に圧倒されず、生産性を保つ最低ラインは、「一ヶ月に五時間」自然の中で過ごすことだそうです。毎日の散歩ルートに、大きな公園を含めるだけで、この目標は十分達成できます。

解離によって感覚が麻痺した人たちの場合

他方、すでに心身の健康を崩してしまった人たちの場合は、「効果をあげるには12週間」必要だとされています。

都会での生活を離れて、自然の中で暮らすといっても、数日から一週間くらいならともかく、2ヶ月や3ヶ月となると、とたんにハードルが高くなってしまうのは否めません。どうして、そんなにも長い期間を要するのでしょうか。

都市のストレスによって、大幅に健康を崩してしまった人たちの場合、自然の中に身をおいてもなかなか効果が得られないのは、「闘争・逃走」反応の一歩先の「凍りつき・麻痺」反応に至っているからではないかと思います。

最初のほうで考えたように、わたしたちの脳は、過剰な刺激に圧倒されると、まず「闘争・逃走」反応が引き起こされ、多動になったり衝動的になったりします。この状態にあるADHDの子たちは、自然にちょっと触れるだけでも症状が改善しました。

しかし、あまりに慢性的で強い刺激にさらされると、脳は刺激そのものをシャットアウトする「凍りつき・麻痺」反応を起こします。感覚が遮断されて麻痺してしまうので、意識がぼんやりしたり、何も考えられなくなったりします。

とりわけ過敏性の強い子どもや、幼児期の愛着障害、家庭環境のストレス、トラウマなど、複数の原因を抱えている人たちは、こちらのより強い解離反応を起こしやすいかもしれません。

解離が学べる絵本「私の中のすべての色たち」―逆境を生き抜く勇敢で創造的な子どもたち
解離につい学べる絵本「私の中のすべての色たち」から、解離した子どもたちが勇敢で強いというるのはなぜか、解離と創造性はどうつながっているのか考えました。

そうした人たちは、そもそも、まわりの環境からくる刺激を遮断し、感覚を麻痺させることで対処しているので、自然の多い環境に逃れたところで、すぐに恩恵は得られません。自然がもたらす望ましい刺激さえ感じられなくなっているからです。

この本には、スウェーデンで実施されている12周間の「セラピーガーデン」の取り組みについて書かれていました。

重いうつ病のせいで「大半の参加者はなにも感じられなくなっています」とパウルスドゥッティルは言う。

「相手がちょっと会釈したぐらいでは、それに気づけないほど感覚が鈍っているのです。

治療の一環として、まず行なうのは、身体と脳の信号をうまくつなげること。

植物と触れ合ううちに、いまここにいるという感覚に慣れていきます。

そして徐々に、身のまわりのものに注意を向けられるようになります。」(p223)

この記述からわかるとおり、重い解離状態にある人たちの場合は、自然界の環境刺激に触れて癒やされる以前に、麻痺した感覚を取り戻し、ごく当たり前の刺激を感じとる、という訓練から始めなければなりません。

このセラピーを受ける人たちのほとんどは「生きているのが精いっぱい」の状態で、もはや動く気力や体力さえありません。それで、第一週目は、ひとりで庭の地面やハンモックにただ寝転がっていることから始めるそうです。

今の例に出てきたのは重いうつ病の人でしたが、解離性障害や、不登校の慢性疲労症候群の子どもたちも、「凍りつき・麻痺」の解離状態にある、という意味では同じです。

そうした人たちの場合、単に一日やそこら自然の中に出ていっただけでは、何も感じられないでしょうし、自然の多いところに旅行しても、逆に疲れ果ててしまうだけでしょう。

重い解離状態に陥る人は、たいてい何ヶ月も何年も、強い慢性的なストレスにさらされています。解離が起こるのは、脳や身体がこの世界は「安全ではない」ことを学習し、自らを保護するために感覚を遮断するからです。

感覚の鋭敏さを取り戻し、解離を解除するのに、長い時間を要するのも当然です。この世界は「安全ではない」とひとたび学習した脳や身体に、今はもう安全なのだ、ということを改めて納得してもらわなければなりませんから。

身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法には、そうした人たちの置かれた状況について、こう書かれていました。

「怖くて体が硬直する」とか「恐怖で凍りつく」(虚脱状態や麻痺状態に陥る)といった表現は、恐怖やトラウマがどのように感じられるかをじつに正確に言い当てている。

トラウマは、内臓を土台とするそうした感覚から生じる。

恐れの体験は、何らかのかたちで逃避が妨げられて感じた脅威に対する原始的な反応に由来する。

内臓の経験が変わらないかぎり、その人の人生は恐れに人質に取られたままとなる。(p163)

「凍りつき・麻痺」は、あまりに慢性的で強い刺激にさらされたため、内臓に恐怖が染み付いてしまうことで起こる「虚脱状態や麻痺状態」です。

「内臓の経験が変わらないかぎり」つまり、理性や心ではなく、身体そのものが「ここにいても安全なのだ」と実感できないかぎり、「虚脱状態や麻痺状態」が解除されることはありません。

身体そのものに安心感を実感してもらう方法のひとつは、五感を研ぎ澄まし、いまこの瞬間の感覚を感じとる訓練をするマインドフルネスです。先ほどのスウェーデンのセラピーも、マインドフルネスをプログラムに組み込んでいました。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方の中で、ある女性は、このセラピーガーデンの取り組みで感じた自身の変化について、こう語っていました。

「生垣のそばにハンモックを見つけたの。自分の人生という殻から出て新しいものを発見するのが、とても嬉しかった。

そうしたらね、ああ、鳥がさえずっているとか、風が吹いているとか、脳が意識するようになった。

ただそれだけのことだけれど、なにより鮮明に記憶に残っているわ」(p223)

風景を見て認識する、鳥がさえずっているのを聞く、風が吹いているのを感じる、といった「ただそれだけのこと」が、解離状態にある人たちにとってはいかに難しいかがわかります。

ときどき、押しつぶされそうなストレス下にある人たちが、何を食べても砂利のようで味が感じられないと言いますが、重い解離状態にある人たちは、そうした感覚の欠如が五感すべてにおいて、慢性的・日常的になってしまっています。

時間をかけて自然の環境刺激を感じとれるようになって初めて、自然界のフラクタルや水のせせらぐ音、フィトンチッドなどの癒やし効果を実感できるようになります。

この12週間のセラピーガーデンのプログラムでは、参加者の60%が一年後に仕事に復帰でき、六年間の追跡調査でも、費用対効果が高いという成果が出ているそうです。

スウェーデン政府は助成金の交付を開始し、今では申請待ちの人たちが列をなしているといいます。

荒々しい自然に「畏怖の念」を感じる効果

自然の中に身を置く、というと、穏やかな森や水のせせらぎ、小鳥のさえずりの中、のんびりと身を休める様子を想像しがちです。日本の疲労研究でも、そうした穏やかな自然環境が持つリズム(いわゆる「1/fの揺らぎ」)の癒やし効果が実証されています。

しかし、穏やかな自然の癒やし効果のみに注目した研究は、自然界の一面しか見ていない、片手落ちのものかもしれません。

自然界とは、本来、手入れされた公園や庭園のようなのどかな場所ではありません。鬱蒼とした樹海、荒々しく砕け散る急流、切り立った険しい崖など、危険と隣り合わせの厳しい環境こそが、野生の息吹が感じられる大自然です。

日本に住むわたしたちにとって、荒々しい自然の力というと、津波や震災や台風の被害が思い出されるかもしれません。自然界の脅威は、トラウマをもたらしかねない危険なもの、とみなされがちです。

しかし、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方によれば、大自然の圧倒的な力から感じる「畏怖の念」には、トラウマをもたらすどころか、「逆PTSD」効果があることがわかってきているそうです。

ジョンズ・ホプキンス大学の精神薬理学者ローランド・グリフィスは、幻覚作用のある薬を服用している終末期医療の患者が、ときに激しい畏怖の念を覚える体験をすることを研究している。

…グリフィスはジャーナリストのマイケル・ポーランに、そうした幻覚には「逆PTSD」効果があるかもしれないと話した。

…宇宙飛行士も宇宙から地球を眺めたときの「オーバービュー効果」(神のような超越者の視点から、地球の全体を一望のもとにおさめることによる意識の変容)により、同様の感銘を抱く。

また臨死体験をした人や、一般的な登山者、サーファー、日食や月食を見た人、イルカと泳いだ人なども、畏敬の念に打たれ、人生が一変するような衝撃を受ける。(p263)

圧倒されるような「畏怖の念」についての研究は、まだほとんど行われていませんが、少数の研究結果によれば、畏怖の念には、強力な健康促進効果があるそうです。

たとえば、多種多様なポジティブな感情の中で、畏怖の念は唯一、炎症の指標となるサイトカインIL-6を大幅に低下させたといいます。また、畏怖の念は時間感覚を引き伸ばしましたが、そうした効果は幸福感では見られませんでした。

畏敬の念が生き方にプラスに作用 - WSJ

最近発表された研究調査結果から、実際に畏敬の念を覚えるような体験をすると、健康状態は良くなり人間関係も改善されるなどさまざまな効用があることが分かった。

専門家によれば、「畏敬の念を感じる体験」をすると、人は寛容になり謙虚になり、向社会的行動が増える。

共感度が増して他人の感情表出を理解し、他人を信頼するようになる。

幸福感に満たされている人は、今の人生に満足し、穏やかな気持ちでいるかもしれません。しかし、畏怖の念を覚える体験をした人は、人生や価値観が根本から変化してしまうほどの衝撃を受けるものです。

トラウマを負ってPTSDや解離性障害になった人たちの場合、緑の多い公園や庭園のそばで過ごし、リラックスしようとしても、なかなか幸福感に満ち足りることではできないでしょう。

しかし、荒々しい大自然に触れて畏怖の念を覚えると、「逆PTSD」効果が働いて、トラウマに支配された人生が一変してしまうことがあります。

この本では、戦場で筆舌に尽くしがたい恐怖を味わい、重度のPTSDを抱えるようになった退役軍人女性たちを対象にした、アイダホ州の激流川下り合宿の様子が取材されていました。

自然の癒やし効果を謳う通常のセラピーでは考えられないほど荒々しい自然の中に飛び込むその「冒険セラピー」は、たった6日間の体験ですが、「認知行動療法や薬物療法などのごく標準的な治療法では効果がでない場合でも、自然によって心身ともに癒やされる」成果を挙げています。(p291)

なぜ大自然には「逆PTSD」効果があるのか

この「冒険セラピー」に参加した人たちのうち、15%はなんの効果も見られなかったそうですが、そうした女性の一人は、セラピーの方法ではなく、期間に不満をもっていました。

あんな短期間じゃ足りない、と不満を言ったのだ。あれっぽっちじゃ、悪夢の息の根をとめられない。

睡眠薬を飲んだあと車に乗り、夜中に刈り入れが終わったトウモロコシ畑を突っ走るのをやめられない。

あれっぽっちじゃ、また人を信じるようにはなれない。急流を泳ぎ切る自信もつかない。

たしかに問題を抱えたティーンエージャーを対象にした自然のなかでのセラピーは、たいていは数週間、ときには数ヶ月にわたって実施されている。(p295)

この女性の場合、あまりにトラウマが強力すぎて、たった6日間の荒々しい冒険程度では、心身の「凍りつき・麻痺」を解除するほど十分な「逆PTSD効果」が得られませんでした。

どうして、極度の感覚麻痺に陥っている人たちには、単に公園や庭園で穏やかな自然と触れ合うことではなく、荒々しい大自然の中に飛び込み、畏怖の念を感じることが必要なのでしょうか。

ひとつ手がかりになりそうなのは、作用する自律神経系が異なっているらしいことです。

わたしたちが公園で穏やかな自然を楽しむときは、リラックスするときに働く副交感神経系が活性化します。副交感神経系は、「闘争・逃走」反応を引き起こす交感神経系を鎮めます。

過剰な刺激に圧倒され、交感神経系がたかぶって「闘争・逃走」状態になっているADHDの子どもや、一過性のストレスにピリピリしている現代社会の大勢の人々が、公園や庭園の散歩でリラックスできるのは、この副交感神経系が活性化されるためでしょう。

一方、「凍りつき・麻痺」の解離状態にある重症うつ病の人、不登校の慢性疲労症候群の子ども、さらには慢性的なトラウマを負った解離性障害の人たちなどの場合、交感神経系でも副交感神経系でもない第三の機構が働いています。

スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論によれば、解離の「凍りつき・麻痺」を引き起こすのは、全身の内臓を制御している原始的な背側迷走神経複合体です。

そのとき脳は自らを眠らせる―解離の謎を睡眠障害から解き明かす
解離とは慢性的な低覚醒状態であるというポリヴェーガル理論の考え方や、ナルコレプシーやADHDとの比較を手がかりにして、解離と睡眠のつながりを探ってみました。

興味深いことに、大自然のただ中で感じる畏敬の念は、この「脊髄のてっぺんから始まり、顔面筋、心臓、肺、消化器などに触手のように伸びている」迷走神経複合体に作用しているようです。(p265)

穏やかな自然は、副交感神経系を通して「闘争・逃走」反応を鎮めるのに対し、畏怖の念を抱かせる荒々しい自然は、より原始的な迷走神経系に直接作用して「凍りつき・麻痺」反応を鎮める効果があるのではないか、ということになります。

畏怖の念と、「凍りつき・麻痺」の解離反応とが、どちらも同じ原始的な迷走神経系と関係しているのは、一見、不思議に思えるかもしれません。しかし、畏怖の念という感情は、それ自体が、一種の解離現象だと思われます。

すでに引用したように、畏怖の念を引き起こす事例には、宇宙から地球を望むオーバービュー効果や、大自然との触れ合いだけでなく、終末期医療の患者が見る幻覚や、臨死体験が挙げられていました。これらは解離現象の一種です。

なぜ人は死の間際に「走馬灯」を見るのか―解離として考える臨死体験のメカニズム
死の間際に人生の様々なシーンが再生される「走馬灯」現象や「体外離脱」のような臨死体験が生じる原因を、脳の働きのひとつである「解離」の観点から考察してみました。

畏怖の念を感じたときに、時間の感覚が拡張するという研究もありましたが、それも解離現象の特徴の一つです。

たとえば、スポーツ選手が経験するゾーンや、発達障害の人たちの過集中といったタイプの解離現象では、意識が現実から切り離されることで時間感覚が歪みます。

集中し没頭する幸せな時間「フロー体験」を味わう8つのポイント
「ゾーンに入った」「エクスタシー」「過集中」…。時間を忘れて何かに没頭した極度の集中状態は、古今東西、いろいろな言葉で表現されてきました。学問的には、特に「フロー体験」として、ミハ

そもそも解離とは、洪水のような感覚刺激に圧倒され、神経が耐えられなくなったときに自動的に起こる感覚のシャットダウンですが、引き金となるのは不快な刺激だけではありません。

耐え難い恐怖や痛みにさらされたときに解離が起こるのはもちろんですが、「狂喜のあまり我を忘れる」といった表現がみられるように、喜びのようなポジティブな感情でも、あまりに強すぎると解離を引き起こします。

感覚過敏が強い自閉スペクトラム症の人たちは、自然の美しさに圧倒されて解離状態になってしまうことがよくあります。当事者のドナ・ウィリアムズは「美そのものの一部となる」と表現していました。

今回読んだ本では、フィンランドに伝わるメトサンペイット(Metsänpeitto)という、それに類似した現象が紹介されています。

メトサンペイットは、深い森に迷い込んだ人が、妖精に呪いをかけられ、恍惚状態に陥ってしまうという伝承だそうですが、その実態は、森の深遠さや美に感覚が圧倒されてしまう解離現象だと思われます。

こうした、オーバービュー現象、臨死体験、狂喜のあまり我を忘れること、そしてメトサンペイットのような健全な解離と、解離性障害や重症うつ病のような病的な解離の違いは、一時的なものか、慢性的なものか、というところにあります。

「闘争・逃走」反応や、「凍りつき・麻痺」反応は、いずれも生物に備わる健全な生き残り反応であり、どちらも危機に直面したとき、命を守るために一時的に起動するようになっています。

ところが、危機が去っても「闘争・逃走」反応が解除されず、延々と続いてしまうのがPTSDや多動状態であり、「凍りつき・麻痺」が延々と続いてしまうのが、解離性障害や慢性的な虚脱状態です。

圧倒的な刺激が去ったにもかかわらず、脳や内蔵が、まだ自分は危険のさなかにあると感じているために、生き残り反応が解除されないのです。

対照的に、畏怖の念や臨死体験のような一時的な解離は、圧倒的な感覚の洪水から脳を保護するブレーカーとして働くので、決して病的なものではなく、むしろ脳を保護するポジティブな役割を持っています。

慢性的な重い解離状態にある人が、大自然の中で畏怖の念を感じることで回復のきっかけをつかめるのは、健全な解離体験が、延々と病的な解離を引き起こして凍りついたままになっている迷走神経を揺さぶってくれるからなのかもしれません。

興味深いことに、解離やトラウマの専門家のピーター・ラヴィーンは、トラウマと記憶: 脳・身体に刻まれた過去からの回復の中で、病的な解離から回復する人たちが、ときに「スピリチュアルな恍惚状態」、おそらくはここで考えている畏怖の念と同じものを経験すると述べています。(p107)

スタンフォード大学や、スイスのジュネーブ大学病院の研究によると、そうした恍惚状態では、脳の意欲をつかさどる前中帯状皮質(aMCC)や、繊細なニュアンスや情緒をつかさどる前島という部分が活性化します。

これらの部分が活性化すると、背筋が伸びて、やる気に満たされ、勇気がふつふつと湧いてくるといった、非常なポジティブな変化が生じるそうです。まさしく「逆PTSD」効果です。

また、ピーター・ラヴィーンは別の著書身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアの中で、畏怖の念が人類特有のものではなく、類人猿にも見られることを指摘しています。

センス・オブ・ワンダー(訳注:自然に対する畏敬の念のような概念)のような特殊な感覚でさえ、最も近縁の類人猿にも見られるようだ。

著名な霊長類学者であるジェーン・グドールは、彼女が長年注意深く研究してきたチンパンジーに原始的な霊的感情があることを示唆している。(p272)

動物が畏敬の念に類する感覚を備えていることは、畏怖の念が、単なる宗教的感情でもスピリチュアルな概念でもなく、生物学的基盤を持つ生理現象の一つであり、動物にとって必要だからこそ備わっている機能の一つであることを示唆しています。

ラヴィーンは、畏怖の念の生理学的な特徴のひとつである「震え」には、神経の興奮をリセットする作用があるのではないか、とみています。

さまざまな状況下で経験され多種多様な機能をも有しているこのような「身震い」はすべて、真の変容や深い癒し、そして畏怖の念をもたらす可能性を秘めている。

不安による恐ろしい震えはそれ自身だけでは状態をリセットして平衡状態に戻ることを確実にするものではないが、「正しいやり方で」誘導され体験された場合にはそれそのものが解決となりうる。

…このような旋回運動や波状運動は、直近の興奮経験を神経系が「振るい落とし」、危機や欲望、そして人生の次なる出会いの準備のために「地に足をつけさせる」方法である。

こうしたものは、私たちが脅かされたり高度に覚醒したりした後に平衡状態を取り戻すたのメカニズムである。(p20-21)

おそらく、人類は昔から、ポジティブな解離現象が持つ逆PTSD効果によって、トラウマ的な悲劇を乗り越えてきたのでしょう。

医学が存在しない時代の人々は、現代の都市環境で手厚く保護されて成長してきたわたしたちに比べ、より恐ろしいトラウマを、より頻繁に経験したはずです、

しかし、身近な大自然から頻繁に感じられる畏怖の念や、大自然との一体感を抱かせてくれるシャーマニズムによる震えやおののき、さらには病気や怪我のときに引き起こされる臨死体験のような解離現象が持つ生理学的な「逆PTSD効果」によって、トラウマ的な体験を乗り越えていたのでしょう。

わたしたち人類は、大自然から隔絶された都市環境に住むようになったことで、表向き安全な環境を手に入れましたが、それと引き換えに畏怖の念をはじめとする健全な解離現象を体験する機会を失ってしまい、古代の人々よりも、トラウマに対して脆弱になってしまったのかもしれません。

本物の自然にしかないクロスモーダルな環境刺激

残念ながら、こうした大自然の癒やし効果を調べる研究は、まだほとんど行われていません。

日本の疲労研究でも、穏やかな自然がもたらす副交感神経系の癒やし効果は実証されていますが、大自然が引き起こす畏怖の念や、原始的な迷走神経複合体の作用については未開拓です。

大自然の癒やし効果についての研究がほぼ手付かずなのは、科学的に効果を実証するのが極めて難しいことが関係しているようです。

穏やかな自然、たとえば鳥のさえずりや森の香りの癒やし効果は、実験室で、ひとつずつ効果を実証していくことができます。

しかし荒々しい自然の中に飛び込むセラピーは、研究室で再現できない上、あまりにも関係する要素が多すぎて、どの部分に癒やし効果があるのか証明することができません。

自然の風景や音や匂い、大自然の中で身体を動かしたこと、仲間との会話や連帯感、荒々しい自然を前に感じる畏敬の念、さらには癒やしを期待するプラセボ効果など、あまりに多くの要素が絡むので、精密なデータが取れないのです。

とはいえ、あまりに多くの要素が絡んでいることそのものが、心身の癒やしをもたらすための必須要素なのではないか、とも思えます。

人間を含め、生物はもともと、実験室のような閉鎖的な環境で、何かひとつの感覚だけを味わうことはありませんでした。

フラクタル図形だけを目にしたり、フィトンチッドだけをかいだり、鳥のさえずりだけを聞いたりするという断片的な感覚刺激は、どれも人工的に作り出されたものです。

自然界では、非常に多くの複合的な刺激(クロスモーダルな刺激)を同時に感じ取るのが当たり前なので、実験室で計測できないことほど複雑であること自体が、大自然の癒やし効果の中核をなしているのかもしれません。

以前の記事で考えたように、本来自然界で複合的に体験されるはずの多種多様な感覚刺激を、一部だけ切り離して体験させるという現代社会の仕組みが、解離を増加させている可能性があります。

身体に閉じ込められたトラウマ:ソマティック・エクスペリエンシングによる最新のトラウマ・ケアに書かれているように、この記事で考えた「凍りつき・麻痺」を特色とする解離は、トラウマを受けた人たちだけに起こるものではありません。

トラウマに苦しむ人は慢性的解離の世界で生きている。からだから切り離されたこの永久的な状態は、方向感覚を見失わせ、今ここ、とのつながりを奪う。

しかしながら先に述べたように、トラウマを生き延びた人だけがからだから切り離されているのではない。

軽度のからだとこころの分離は現代文化に浸透していて、私たちすべてに大なり小なり影響を及ぼしているのである。(p419)

解離は、多かれ少なかれ、現代社会に生きる人すべてに生じているものです。

耐えがたいトラウマを受けた人は、たいてい、全身のあらゆる感覚と感情を切り離した重い解離状態に陥ります。しかし、現代社会の過剰な刺激にさらされた人も学習性難聴のように、一部の感覚だけが解離してしまうことはよくあります。

人工的な環境がもたらす刺激は、自然界で得られる「フルスペクトル」の刺激に比べると、一部だけ過剰で、一部は欠落していることが多く、あたかも栄養素の欠けたジャンクフードに似ています。

フルスペクトルの太陽光に比べ、人工照明は特定の色の波長というメッセージが欠けていました。

わたしたちがメディアを通して触れる映像は、視覚や聴覚の情報は含んでいますが、本来あるべき触覚や嗅覚の情報が欠落しています。

前の記事で書いたように、ネット上のSNSなどの文字媒体に限定された交友関係は、本来コミュニケーションに含まれているはずの非言語的情報が欠落しているため、誤解を生みやすく、満足感を感じにくくなっています。

本当なら、五感すべてを連動させて味わうはずの刺激が、一部のみ切り出した不自然なものになってしまっていることが、現代社会に生きる人たちの心身のいびつさや、部分的な感覚の解離を生み出しているのかもしれません。

今回引用したさまざまな本で言及されている、リチャード・ルーブの「自然欠乏症」(Nature Deficit Disorder)という概念は、わたしたち人類が置かれたかつてない自然との疎遠さを見事に言い表しています。

(NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方のp16、本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかのp226など)

この記事で考えたように、感覚が敏感な人たちは、とりわけ不自然な環境刺激の影響を受けやすく、心身が過敏に反応しやすいと思われます。

脳にかかっている慢性的な負荷を取り除き、本来の生き生きとした五感を取り戻すためにも、少なくとも月に5時間、できればそれ以上、自然のただ中に身をおいて、リフレッシュする習慣を持つよう努力したいものです。

最後に、この記事で考えたことをまとめておきます。

■ADHDをはじめ、発達障害とみなされている症状は、当人の脳の欠陥ではなく、都市や学校といった環境でさらされる不自然な刺激によって引き起こされている可能性がある

■過剰な刺激にさらされると、「闘争・逃走」反応を示す子どもと、「凍りつき・麻痺」反応を示す子どもがいるが、いずれの場合も刺激の多い都市ではなく、自然の中に身を置くことで症状が和らぐ。

■都会で日常的に接する形、光(色)、音、匂い、そして人混みは、わたしたち個人にとっては当たり前のものでも、人類という種にとっては異質で目新しいものなので、無意識のうちにわたしたちの脳に過剰な負荷をかけている。

■都市生活からくる刺激で疲労している人は、一ヶ月ら5時間以上、自然の中で過ごすことが必要。あまりに慢性的で過剰なストレスにさらされ、解離状態に陥っている人は、麻痺した感覚を取り戻す必要があるので、効果が出るまで12週間かかる。

■穏やかな自然には、副交感神経を活性化させる癒し効果がある。一方、荒々しい大自然には、畏怖の念を引き起こすことによって迷走神経複合体に働きかける「逆PTSD効果」がある。

■都市環境における人工的な刺激は、特定の感覚が過剰だったり、欠落したりしている不自然な刺激だが、わたしたちは本来、五感すべてで味わえるフルスペクトルの自然な刺激を必要としている。

今回読んだ、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方は、去年一年、解離や感覚過敏の問題について考えてきたわたしにとって、すべてのキーワードを見事に結びつけ、目指すべき方向性を示してくれたすばらしい本でした。

訳者あとがきでは「人生を変える本」「これからの生き方を変え、光が射すほうに連れて行ってくれるような本」「まさにわたしのために書かれた本!」などと絶賛されていますが、わたしも全くの同感です。

このブログの、「おすすめの本」リストは、かなり厳選しているつもりですが、この本は読むやいなや、リストに含めるにふさわしいと感じたほどでした。

HSP、ADHD、ASDといった、生まれつきの感覚過敏を抱えている人たち、さらには愛着障害やPTSD、解離性障害のような後天的な感覚過敏に悩まされている人たちには、ぜひとも一読をおすすめしたい珠玉の一冊です。

定型発達は本当に“ふつう”なのか―コケの生態学からふと考えた発達障害やHSPのこと

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「定型発達」と呼ばれている人たち、つまり現代社会において多数派を占めている人たちは本当に“ふつう”なのでしょうか?

このブログではかねてより、定型発達が「正常」で、発達障害(神経発達症)が「病気」や「障害」だとする考え方に異を唱えてきました。

自閉スペクトラム症(ASD)や注意欠如多動症(ADHD)、限局性学習症(SLD)などを抱える人たちの生きづらさは、自分個人が病気や障害を持っているせいではなく、多数派が作った社会で、少数派として生きなければならないことからきているのではないか、という見方があります。

少数派を「障害者」と見なすと気づけないユニークな世界―全色盲,アスペルガー,トゥレットの豊かな文化
わたしたちが考えている「健常者」と「障害者」の違いは、実際には「多数派」と「少数派」の違いかもしれません。全色盲、アスペルガー、トゥレットなど、一般に障害者とみなされている人たちの

発達障害の研究とオーバーラップしているHSP(敏感な人)の研究も同じです。敏感な人はずっと主流医学から、神経質、精神的にもろい、メンタルヘルスの問題を抱えやすいなどというレッテルを貼られてきました。しかし、実際にはより敏感で深い感性を持っているだけです。

多数派と少数派の対立は、しばしば正常と異常の対立に置き換わります。歴史を通じて、多数派を占める民族や宗教は、少数派を異端とみなして迫害や抑圧を繰り返してきました。

それと同じように、現代社会でも、多数派を占める定型発達者がデザインした社会のなかで、少数民族のような神経特性をもつ人たちが不適応を起こしてしまい、異常や病気とみなされてきたのではないか、そのような考え方をこれまで紹介してきました。

アスペルガーから見たおかしな定型発達症候群
定型発達症候群(Neurotypical syndrome)は神経学的な障害である。「アスペルガー流人間関係 14人それぞれの経験と工夫」という本では、定型発達の人は、とても奇妙に

しかしながら、この見方では、あくまで定型発達者が“ふつう”、つまり人類の多数派であり、発達障害者は“異端”、つまり少数民族である、という前提はそのままでした。

ところが、最近、コケの自然誌という本を読んでいて、そこに疑問を持ちました。本当に定型発達はむかしからずっと人類社会において多数派、スタンダードだったのか?

もし過去の時代において、定型発達が少数派で、もっと多様な神経特性を持つ人たちが多数派を占める時代があったのだとすれば、「定型」つまり“ふつう”を意味するこの呼び名からして正しくない、定型発達などというのは幻想だ、ということになります。

タイトルにあるように、「ふと考えたこと」にすぎず、あまり細部の正確性には自信はありませんが、ご興味のある方はお付き合いください。

これはどんな本?

今回、とくに着想をもらったコケの自然誌は、ネイティブアメリカン出身の植物学者、ロビン・ウォール・キマラーによる、コケづくしの本です。

身の回りにありふれているコケ、けれどもどんな種類があるのか、どんな特徴を持っているのか、ほとんど知らないコケの世界が、詩的な感性と科学的な知識を織り交ぜて、生き生きと描き出されます。

この本は、あくまで自然科学の本にすぎず、定型発達や発達障害について書かれているわけではありませんが、読んでいてふと面白い連想が湧いてきました。

また、この記事の論議を補強する資料として、レスブリッジ大学の心理学者ルイーズ・バレットによる野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへを何度か参照しています。

これまでの科学や心理学は、個人の脳が行動を制御しているとする「脳至上主義」が主体でした。

しかし、近年の研究によって、実際には脳以外の身体や外部環境が、わたしたちの行動を大きく左右している、ということが、さまざまな動物たちの研究を通して解説されています。

おいおい説明しますが、「発達障害」の概念は、この脳至上主義の科学に乗っかって構築されたものなので、この土台が覆れば、概念そのものががらりと転換されるように思います。

人類の居住環境はこんなに変化した

定型発達は本当に昔から定型発達だったのか。

それを考える前にまず、逆のことを考えてみたいと思います。

つまり、発達障害は昔から発達障害だったのか、という点です。

科学や医学が発展する前から、人々は、さまざまな病気と向き合ってきました。感染症やトラウマについての記述は何千年も前の古い文献までさかのぼることができます。

しかし、発達障害やHSPのような概念は、人類の長き歴史の中で、何千年にもわたり存在していませんでした。こうした概念は、ほんの数十年前(その母体となる概念を含めても100年ほど前)にようやく現れたにすぎません。しかも、今になって爆発的に普及しています。

なぜかつては存在せず、今になって注目されているのか。

おそらくそれは、人類の歴史において、何千年ものあいだ、こうした概念は社会から必要とされていなかったからでしょう。

人類の歴史を通じてずっと、ADHDやアスペルガー、さらにはHSPのような神経的な特性をもった人々は存在していたはずです。

しかし、以前の社会ではそれらの人たちは生きづらさを感じていなかったので、それらは個性にすぎず、わざわざ病気や障害とみなす概念が必要とされなかったのです。

ところが、20世紀の終盤から、この21世紀にかけて、まったく事情が変わりました。

学校で不適応を起こす子どもが大勢現れたために、また社会で不適応を起こす大人が急増したために、発達障害やHSPのような概念が必要とされるようになり、これほど注目されるようになりました。

では、このわずかな期間に、いったい何が変わったのか。

わたしは、これまで見てきた発達障害についてのさまざまな研究から、変わったのは人類の居住環境だと思います。

従来の発達障害の研究は、あくまで個人の脳の側に「障害」があるとする理論です。

しかし、野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへに引用されている哲学者ジョン・デューイの言葉が示すとおり、わたしたちもまたヒトという生物種だとするなら、環境要素は度外視できません。

生物という観念について語るには環境という観念が不可欠であり、環境がいかなるものか考えてみれば、精神的生命体は真空状態で発達する孤立した個体とみなすことは不可能になる。(p138)

生物はみな、環境に適応して「発達する」のですから、発達障害をめぐる論議においても、環境はまず考慮されてしかるべき要素であるはずです。

産業革命以来、人類の居住環境は激変してきました。どれくらい変わったかというと、たとえば、以下にGoogle Mapのとある航空写真を載せてみます。

 

片方は日本の農村部の写真、片方は都心部の写真です。まったく環境が異なっていることは一目瞭然です。

わたしもそうでしたが、現代人のほとんどは、都会で生まれ育つので、ビルだらけの風景、通りを行き交う自動車の大群、絶え間ない騒音、星がひとつかふたつしか見えないような夜空、さらには一日の大半を学校や会社などの建物の中で過ごすことを当たり前だと感じて育ちます。

しかし、個人としてはその環境が“ふつう”に思えるとしても、ヒトという生物種にとっては“ふつう”ではありません。

最近、ナショナルジオグラフィックで、生物学者の中村桂子さんが次のように述べていました。

第4回 中村桂子(生命誌):人間は生きものの中にいる(提言編) | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

ところで人間がつくる現代社会は、38億年も続いた生きものが持つ知恵を忘れて機械の世界をつくり、それこそが人間らしい生き方だと勝手にきめています。これでは続いていけそうもありません。

人間は、自分もまた動物のひとつであることを忘れ、生き物らしい、ごく当たり前の居住環境を捨ててしまいました。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、いまはヒトの生物史上、空前の大移動の真っ最中なのです。

なにしろホモサピエンス全体で見れば、人類が正式に都会に生息する種になったのは、2008年のことだ。

この年、世界保健機関(WHO)が、都会に住む人の数が田舎に住む人の数を初めて上回ったと報告した。

アメリカ合衆国では昨年、この100年間で初めて郊外より都市部が速く成長した。

その変化を別の観点から見れば、現代は人類史上最大の集団移動のさなかにあるといえる。(p24)

人類は産業革命以降、とりわけ、ここ数十年のあいだに、もともとヒトという生物種が何千年もかけて適応してきた環境を捨てて、まったく新しい、馴染みのない環境に移住してきました。

これほど短期間のうちに、生育環境が激変したのに、ヒトという生物種に異変が起こらないということがありうるでしょうか。

発達障害の人たちは何に不適応を起こしているのか

ここで少し考えてみましょう。いわゆる「発達障害」と呼ばれる人たちが苦痛を感じ、不適応を起こすのは、どんな場面でしょうか。

たとえば、ADHDの子は学校でじっと座っていられません。授業に集中できず、動き回るからといって、「障害」だとみなされます。

でも、もともと人間は何千年もの歴史において、閉鎖された部屋の中で来る日も来る日も、子供時代の大半をじっと座っているという奇妙な風習をもっていませんでした。むしろ野外で狩猟や採集に勤しんでいました。

それゆえ、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、かつてADHDという概念は必要ではなく、義務教育が普及して以降、必要とされるようになりました。

過激なスポーツを楽しむ選手のように、さまざまな未知のものがうずまく世界で刺激を受けていると元気が出るタイプの子どもは、学校で一日中座って過ごしていると生気を失ってしまう。

ところが産業化の時代を迎えると、子どもはおしなべて教室で勉強すべきだという標準化教育を、教育界が重視するようになった。

「ADHDはいまから150年前、義務教育が始まると同時に生まれたのです」とカリフォルニア州バークレー校の心理学者スティーヴン・ヒンショーは言う。

「この意味では、ADHDは社会の変化によって生み出された概念といえるでしょう」(p305)

近年の社会の変化によって、いかにしてADHDという概念が作り出され、本来は障害ではないものが病気のようにみなされるようになってしまったのか、詳しくは以前の記事で書きました。

ADHD研究の混乱に埋もれてしまった、知られざる敏感な子どもたちの歴史
わたしたちが普段見かけるADHDの理解は、医学や教育にとって都合よく編集されたものであり、実際にはもっと複雑で多面的な性質がある、ということを歴史をひもといて考えます。

ADHDの人は遅刻の常習犯と言われますが、人間社会が厳密に時間を守るようになったのは近代化以降です。今でも、30分や1時間の遅刻は、ごく普通のことだという文化もあります。

自然界の動物はみな、それぞれ日照時間などを読み取って時間を測っています。それによって、おおよその時間は厳守します。しかし、近代社会ほど時間に厳密であるのは、生き物らしい営みではありません。

興味深いことに、ADHDの症状は、刺激の多すぎる都会では悪化するのに対し、自然豊かな環境のもとでは緩和されることが明らかになっています。

医者はADHDの症状を抑えるためにリタリン(コンサータ)を投与しようとしますが、自然豊かな環境に身を置くと、薬なしで薬と同様の効果が得られるという研究がありました。

ADHDは「自然欠乏障害」なのだろうか?ー自然不足が脳,自律神経,愛着,腸内微生物にもたらす影響
リチャード・ルーブが提唱した「自然欠乏障害」という概念とADHDのつながりについて、豊かな自然が脳機能や自律神経にもちらす効果、母なる自然に対する愛着障害、微生物生態系(マイクロバ

次に自閉スペクトラム症(ASD)についても考えてみましょう。

ASDの子は、人混みや雑踏、自動車や工事現場、電車などの低周波の騒音や、蛍光灯の照明に耐えられないかもしれません。だから「感覚過敏」だと言われます。

でもそんな刺激は、いずれも過去何千年もにわたる人類の歴史には存在していませんでした。すべてここ数十年、ヒトが人工的な都市に密集して住むようになったときに生み出されたものです。

解離の舞台―症状構造と治療によると、ASDの人たちは、感覚過敏による苦痛を避けるために、もっと穏やかな自然の中に逃げ場所を求めるとされています。

こういった症状を鎮めようとして、ASDの患者たちは好んで海、屋根の上、崖の上などに身を置き、世界との距離を保ち、自分に迫ってくることのない自然のなかに身を置こうとする。

また単調なリズムの繰り返しや文字の世界を好むようになる。…現実の人間関係から距離を取ることで自分の安定をかろうじて保とうとする。(p101)

これは取り立てて特別なことなのでしょうか。

いまが人類の大移動の真っ最中だということを思い出してください。ASDの人たちは、ここほんの数十年のうちにヒトが新しく移住した刺激が多すぎる環境が肌に合わず、それまで何千年も暮らしていたような穏やかな環境を求めているだけではないでしょうか。

自閉症の当事者である東田直樹さんも、自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心の中で次のように書いていました。

自然は、いつでも僕たちを優しく包んでくれます。

…自然は、僕がすごく怒っている時は、僕の心を落ちつかせてくれるし、僕が嬉しい時には僕と一緒に笑ってくれます。

自然は友達にはなれない、とみんなは思うかもしれません。しかし、人間だって動物なのです。

僕らの心の奥底で、原始の時代の感覚が残っているのかもしれません。(p115)

現代人は生まれたときから都市にいるせいで、自分たちが動物と同じつくりをしているということはめったに考えません。でも、ヒトは動物ですし、身体のつくりや遺伝子は、わずか数世代で急激に変わったりしません。

ASDの人たちは、より強く「原始の時代の感覚が残っている」ために、人が密集して住む騒音だらけ、集団行動が当たり前の都市では不適応を起こしているのではないでしょうか。

現代社会にあふれる刺激に耐えられないのは、やはり感覚が敏感で、騒音などを苦痛に感じやすいHSPの人たちにも同様に当てはまるでしょう。

ひといちばい敏感な子によると、HSPの人たちは、神経系を落ち着かせる「ダウンタイム」を必要とします。

ローダというHSPの女性には、22歳、20歳、16歳の、3人の子どもがいます。3人ともHSCで、幼い頃から刺激に敏感なため、周りの子よりも多くの休憩時間、いわゆる「ダウンタイム」を必要としていました。

事あるごとに、「敏感すぎる」と言われてきましたが、それぞれ芸術に取り組み、自分の強い感受性を生かすすべを見つけ、実に個性豊かになりました。(p48)

ASDやHSPの人は、感覚が過敏なために、神経を休める時間や場所を必要とします。喧騒に満ちた刺激が多すぎる環境に長時間とどまることができません。

そのような環境は、昔からあったものではありません。ホモ・サピエンスが都市に移住したせいで、ここ数十年に急速に増加し、当たり前になってしまっただけです。

とすれば、過去何千年ものあいだ、すなわちホモ・サピエンスが自然と調和して暮らしていたころは、こうした人たちは不適応を起こしていなかったのではないか、と考えられます。

限局性学習症(SLD)の子についても考えてみましょう。

学校のカリキュラムについていけない子どもたちは、落ちこぼれとみなされ、学習ができない障害があるとみなされてきました。

しかし、現代の学校の教育方針、つまりじっと座って知識だけを詰め込み、ペーパーテストで成績を判断するというやり方は、ヒトという種、そして生物一般にとって、ふつうの教育方法ではありませんでした。

植物学者ロビン・ウォール・キマラーは、大学で植物学を学び、自らも教鞭をとっていますが、コケの自然誌の中で、現代の学校の教育方法は、伝統的な教育方法とはまったく異なる、と述べています。

伝統的なネイティブアメリカンの社会では、アメリカの公教育制度のやり方とはとても違った形で人は物事を学ぶ。

子どもたちは、見て、聞いて、体験して学ぶのである。彼らは、人間もそうでないものも、社会を構成するすべてのものから学ぶことを期待される。

直接何かを質問することは失礼なこととされる場合が多い。知識は奪い取るものではなく、与えられるものでなければならないのだ。

生徒にそれを受け取る準備が整って初めて教師は知識を授ける。辛抱強く観察すること、経験によってパターンとその意味を理解することの中から、たくさんの学びが得られるのだ。

1つの真実にもいろいろな姿があり、そのそれぞれが、それを口にする者にとっての真実であると彼らは考える。

それぞれの知識の出所の視点を理解することが重要なのだ。

私が学校で教えられた科学的方法は、直接質問を投げ、知識がその姿を現すのを待たずに、無理矢理に知識を要求するようなものだ。(p123)

ロビン・ウォール・キマラーは別著、植物と叡智の守り人のp286-309の中で、そのような教育が今でも可能だということを、自分が受け持つ民族植物学の実例を通して生き生きと描写しています。

また、生き物としての力を取り戻す50の自然体験 ―身近な野あそびから森で生きる方法まで (Make: Japan Books)という本の提案もとても役立ちます。興味のある人にはぜひ読んでほしいと思います。

このような「見て、聞いて、体験して学ぶ」方法が、いわゆる学習障害や発達障害の子どもたちに役立つ、ということは、かねてからさまざまな専門家たちたちが口にしています。

そのため、発達障害や学習障害の子どもたちには特別な教育が必要だ、と言われていますが、わたしはそれは間違っていると思います。「特別」な教育ではなく、「本来」の教育が必要なだけです。

そのような子どもたちは、確かに、産業革命以降、義務教育が普及するとともに一般的になった、ただ座って知識だけを詰め込むという奇怪な学習方法は肌に合いません。

でも、人類がそれまで何千年もやってきた方法、というより自然界のあらゆる生物が何千万年もずっとやってきた、ごくふつうの教育方法には順応できます。

わたしは中学校のとき、とても仲のいい友人がいました。その子はLDとは診断されていませんでしたが、明らかに勉強ができませんでした。でも家事や弟たちの世話のような家の手伝いは大得意でした。

一方のわたしは、学校ではトップクラスの成績でした。でもその子がやっていたような、実生活に役立つ知恵はほとんど何も知りませんでした。

もしいきなり文明社会から放り出され、人類が何千年も生きてきた環境に住むことになったら、そこにうまく適応できたのは、間違いなくその子のほうだと思います。

ただ座って知識を詰め込むだけの教育が役立つのは、受験のときだけです。しかし経験から学んで、実際的な知恵を身につける人類本来の教育は、あらゆる場面で、生きるために役立ちます。

わたしのようなテスト勉強しかできないような人間が「正常」で、友人のような実生活から知恵を学ぶことに秀でた人間が「学習障害」とみなされる社会は、どう考えても変です。

現代社会では、このようなADHD、自閉スペクトラム症、HSP、限局性学習症などの特徴を持つ子どもたちは、学校で起立性調節障害や概日リズム睡眠障害のような体調不良を発症し、不登校になることがよくあります。

現代の医学では、不登校の原因は、おもに個人の体質や心、さらには脳の問題にある、とみなされ、薬物療法や心理療法によって治療を試みられます。

けれども、生物学的に見れば、おかしいのは明らかに個人ではなく環境のほうです。

毎日毎日、何時間も発育途上の子どもを教室に詰め込んで座らせる、あるいは絶え間ない騒音が鳴り響いて、24時間明るい都市で成長する、といった、自然界の動物にとってはありえない環境のほうではなく、そこに適応できない子どものほうが病気や障害だとみなされるのはナンセンスだと思います。

医学は、異質な環境に対して生物学的に正常な拒絶反応を示しているごく普通の子どもに、「治療」と称して薬を投与し、異質な環境に無理やり適応させようとしているように思います。

野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへで説明されているように、わたしたちは、特定の行動の原因をなんでもかんでも個人の脳に求めるバイアスがかかった社会に住んでいます。

「脳は行動の司令官」という発想への批判には、最初は違和感があって当然だ。

何しろ、現代の西洋文化には、「万事脳が仕切っている」という脳主体の見方を煽るものが蔓延しているのだから。

…ここで言いたいのは、多くの人々が幼い頃から、脳至上主義にどっぷりと浸かっているため、それを振り払うのは容易ではないということだ

(1990年からの「脳の10年」を経て、脳が極彩色で輝いているfMRIやPETの息をのむような画像を見られるようになった今はなおさらだ)。

…しかし…脳は、身体や環境の物理的特性と同様、動物がその目的を達成するために利用できる数々の資源のひとつに過ぎない。(p246)

発達障害という概念は、この『「万事脳が仕切っている」という脳主体の見方』の上になりたっています。子どもが問題行動を起こすのは、その子個人の脳の発達に障害があるとみなす理論だからです。

しかし、それは誤りです。たとえば、知覚心理学者ジェームズ・ギブソンは、従来の個人に重点を置く心理学を転換させ、環境との相互作用を重視した「生態学的心理学」を作りました。

今は亡き知覚心理学者ジェームズ・ギブソンが確立した、心理学への生態学的アプローチ、「生態学的心理学」として知られる理論だ。

この理論によると、心理現象は動物の「頭の中」で起こるものではなく、動物とその環境との相互関係にある。故に「生態学的」である。(p139)

ギブソンは、脳内活動がまったく行われていないとは、一言も言っていない。

動物の認知能力を研究するなら、動物の頭の中だけでなく、外部環境にも同じだけ注目すべきと主張しているのだ。(p162)

わたしたちもまた動物の一種なのですから、生態学的心理学に基づけば、個人が何か問題を抱えている場合、従来の発達障害の理論のように ただその人の「頭の中」に問題があるとみなすのではなく、「外部環境にも同じだけ注目すべき」です。

自然の中での暮らしに適応した「感じる」能力に秀でた子どもたち

このように、「発達障害」というレッテルを貼られている人たちは、高度に都市化された社会や学校に適応できないだけで、人類が何千年も暮らしていた環境ならば不適応を起こさないのではないか、という見方ができます。

ADHDやアスペルガーの概念が登場したのは、現代の都市型社会が発展したり、学校教育が普及したりした時期と一致しています。

この環境の大規模な変化により、文化の価値観の変化や、体内微生物(マイクロバイオータ)の生態系の変化などが生じました。

また、今日においても、都市に人口が集中する先進国では発達障害の診断が急増していますが、自然と調和した生き方をしている国や地域では、(紛争や貧困によるトラウマが問題となっている地域を除けば) 発達障害はそれほど注目されていません。

また、自然の多いところに住んでいる人は、精神疾患の発生率が下がるというさまざまな研究があります。いま都市で適応不良を起こしている人たちは、もし自然の中で育っていれば、そうならなかったかもしれないのです。

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Greening Vacant Lots Reduce Feelings of Depression in City Dwellers – Neuroscience News (緑化された空き地は都市に住む人のうつ症状を減らす)

なぜ精神疾患は進化の過程で取り除かれなかったのか? - GIGAZINE

こうした研究からすると、人類を取り巻く環境の劇的な変化によって、以前なら問題ではなかったものが、病気や障害とみなされているのが今の社会ではないでしょうか。

これはちょうど、もともとアマゾンの奥地で生きていた動物を、都会の動物園に連れてきたり、ヒマラヤの高地に咲いている花を植物園に持ってきたり、大洋を自由に泳いでいる魚を水族館に持ってきたりするのとよく似ています。

一部のストレスに強い動植物は適応するでしょう。しかし繊細な動植物は生きられないでしょう。ちょうど、深海生物が水揚げされて水槽に入れられても、短期間で弱って死んでしまうように。

ヒトという種のなかにも、もちろんストレスに強い個体と繊細な個体がいるはずです。

そのような繊細な個体、ここ数世代のうちに起こっているホモ・サピエンスの大移動による環境の激変についていけない個体が、現代社会で不適応を起こし、発達障害や神経症などと診断されているのではないでしょうか。

以前の記事でも引用しましたが、あなたの子どもには自然が足りないには次のような見解が載せられていました。

「私たちの脳は、5000年前に決められたとおり、農作業をし、自然を求めるようにできているのですよ」と、家族向けセラピストであり、ベストセラーとなった『よい息子』と『少年の不思議』の著者であるマイケル・グリアンは言う。

「神経学的には、人類は今日の過剰に刺激的な環境に対応しきれていません。ただし脳は強くて融通が利くため、70から80パーセントの子供はかなりうまく順応しています。

でも、残りの子供たちにはそれができません。

彼らを自然の中へ連れ出すと、状況を変えることができます。ただ、私たちはそのことを事例として知ってはいますが、証明できるまでには至っていません」。(p113)

このような子どもたち、つまり「今日の過剰に刺激的な環境に対応しきれ」ず、「5000年前に決められたとおり、農作業をし、自然を求めるようにできている」子どもたちは、病気や障害ではありません。

さっきのわたしの友人のように、ひとむかし前なら、適応障害を起こすどころか、かえって より生き生きと、「見て、聞いて、体験して」学び、親の仕事を手伝い、社会において成功できていたかもしれません。

このような子どもたちは、本当のところは発達障害ではなく、もっと自然と密接に暮らしていたころの世界に適応した遺伝子の名残を持つ人たちなのではないでしょうか。

彼らが過敏なのは、知識の詰め込みを重視する教育ではなく、「感じること」によって学んでいた時代に適応した神経系を持っているからなのではないでしょうか。

「感じること」に秀でた子どもは、産業革命前の社会、とりわけ、人類が何千年も暮らしていた社会においては、自然界のちょっとした機微を目ざとくキャッチして、より多くのことを、的確に学べたに違いありません。

たとえば、コケの自然誌に書かれている次のような状況では、“感覚過敏”な子どものほうが、よりうまく学べたはずではないでしょうか。

昔ながらの考え方によれば、ある植物に与えられている特有の賜を知る方法の1つは、その現れ方と消え方に敏感になることだ。

すべての植物を、意志を持った生きものと見なすネイティブアメリカンの世界観にしたがって、植物は、それが必要とされているときと場所にやってくる、とされている。

自分の役割を果たすことができる場所を探し出すのだ。(p162)

ある植物の存在理由は、それが生える場所から読み取ることができる。

森の中を歩き回っていて、険しい傾斜面を登ろうとして誤ってツタウルシをつかんでしまったときには、私はこのことを思い出し、すぐにもう一つの植物を探す。

ツタウルシが生えている付近の湿った土壌には、驚くほどの忠実さでツリフネソウが生えている。

手のひらで水気の多い茎を潰すと、気持ちの良い音ともに分泌液がほとばしり出て、私はその解毒薬を手のひらに塗りたくる。

するとツタウルシの毒が中和されて、かぶれなくて済むのだ。(p166)

こうした考え方は、迷信的なものではありません。生態学の観点からすると、生きものはみな、自分が生息する場所に適応して、特有の能力を発達させます。

ツタウルシの近くに生息する植物は、ツタウルシの毒に対処しなければなりませんでした。だから、近くに住む植物が解毒薬を持っているとしても驚くにはあたりません。

植物と叡智の守り人に書かれているように、先住民族のハーバリストたちは「薬は病気の原因のそばに生える」と考えます。「まず植物が適応し、それを人々が借用」するからです。(p292-293)

しかし、感覚を鋭敏に働かせて、周囲の状況を読み取る、というこのような学び方は、現代の教育に適応した子ども、たとえば学生時代のわたしのような子どもにはできません。

衛生的な都市型の生活は、私は、私たちを支えている植物から私たちを切り離してしまった。

…ほとんどの人は、薬用植物の役割を自然の中から読み取る力を失い、そのかわりに、不正開封防止装置つきのエキナセアの瓶に表記された「使用法」を読む。(p159)

かつての自然豊かな世界を生き延びるには「感じる」能力が敏感でなければなりませんでした。しかし、現代社会の教育では、ただ知識を教科書から読み取る能力だけが求められます。そこに感性は必要ありません。

「感じること」に秀でていた子どもは、かつての社会では活躍できましたが、現代社会では逆に不適応を起こします

その優れた「感じる」能力は、自然界の繊細な機微をキャッチする代わりに車や自動車の騒音や、人混みの雑踏や、24時間社会の明るすぎる照明や、大気汚染の化学物質に敏感に反応します。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」には的確にも、次のように書かれていました。

私たちの社会では、少しでも違う刺激が加わると、行動面で、あるいは内臓面で敏感に反応してしまうことは、「悪い」ことであり、欠陥があるとして扱われます。

こうした道徳観は、発達的に「障碍がある」、精神的に「遅滞がある」、または注意力に「欠如がある」というレッテルをつけることでさらに強化されています。(p226)

「敏感に反応してしまうこと」は、かつて自然界のただ中では優れた能力でした。しかし、この刺激過多の都市型社会では あだとなってしまい、発達障害だとか心の病だとかみなされてしまっているのです。

かつては優れた能力であったものが、あまりに環境が激変した現代社会においては あだとなってしまうというパラドックスは、以前の記事で考えた、概日リズム睡眠障害の歴史において、とりわけ顕著です。

社会が24時間化する前は、概日リズム睡眠障害(つまり宵っ張りの朝寝坊)に悩む人はいませんでした。概日リズム睡眠障害は、発達障害と同じく、ごく最近になって急増した病気のひとつです。

しかし、なぜ概日リズム睡眠障害になりやすい人とそうでない人がいるのか。特に発達障害を抱える人が概日リズム睡眠障害になりやすいのはなぜか。

一般的な医学の見解では、発達障害をもつ人は、生体リズムが脆弱で、乱れやすいからだとされます。

なぜADHDの人は寝つきが悪いのか―夜疲れていても眠れない概日リズム睡眠障害になるわけ
ADHD(注意欠如多動症)の人は、疲れているのに夜寝つけない、ついつい夜更かししてしまうなどの睡眠リズム異常を抱えやすいといわれています。その原因が意志の弱さではなく、脳の前頭葉な

でもわたしは、概日リズム睡眠障害の歴史を調べたときに、どうやら問題はそれだけではない、と考えるようになりました。

概日リズム睡眠障害になりやすい人たちは、産業革命以前の、夜がもっと暗かったころの世界に適応した人間の生き残りなのです。

睡眠の常識を根底から覆してくれた「失われた夜の歴史」―概日リズム睡眠障害や解離の概念のパラダイムシフト
産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

本当の夜をさがして―都市の明かりは私たちから何を奪ったのかに書かれているように、おかしいのは明らかに環境側のほうです。

長時間にわたって光を浴びること、言い換えれば、夜に電灯をともす、また時には一晩中その光の中にいる状況は、すでに現代の生活では当たり前の光景になっている。

…1980年頃までは、人体は電灯の影響を一切受けないというのが医学の常識だった。しかし新たな研究は、人間は夜間照明に影響されないどころか、極めて敏感だということを示唆している。

…「夜に光を浴びるというのは、まったく不自然で異質な行為です」という [ハーバード大学医学大学院の睡眠の専門家スティーヴン・] ロックリーの言葉を、僕たちは次第に理解しつつある。(p124-125)

概日リズム睡眠障害を発症しているのは、この異常な環境に対して、真っ先に敏感に反応してしまう「炭鉱のカナリア」のような人たちです。

産業革命前、まだ光害が夜空を汚染しておらず、人々が小さなランタンや、夜空を覆う無数の星や月の明かりに従って生活していたころ、光に敏感であることは、メリットだったに違いありません。

光に敏感で、外部の光源の影響を受けやすい人たちは、朝は明るく、夜は真っ暗闇になる自然界においては、よりメリハリの利いた概日リズムを獲得できたでしょう。

僕たちの体に刻み込まれているサーカディアンリズムは、明るい昼と暗い夜が織りなす自然のリズムを通じて発達していった。

…何千万年ものあいだ、光の情報はもっぱら太陽が出ているか沈んでいるか、もしくはいまの季節は何かということを伝えるだけのものだった。

つまり、光は人間の体を目覚めさせる一方で、いずれ訪れる闇の時間(寝る時間)を体内時計に予測させる。(p131)

しかし産業革命後、電灯が普及して、24時間社会が到来しました。すると、外部の光源の影響がめちゃくちゃなので、光に敏感な人は容易に体内時計が乱れるようになりました。その結果、概日リズム睡眠障害と診断されます。

この考え方を裏付けているのが、以前に非24時間型睡眠覚醒症候群の記事に引用した、自閉スペクトラム症の女性ジョーンズのエピソードです。

睡眠リズムがどんどんずれていく非24時間型睡眠覚醒症候群(non-24)の原因と治療法まとめ
同じ時刻に眠ることができず、睡眠時間帯が毎日遅れてゆく。時差ぼけ症状に苦しみ、社会生活に大きな支障が生じる。そしてときには慢性疲労症候群(CFS)と診断される。数ある睡眠障害の中で

彼女は体内時計が刻々とずれていく重度の概日リズム睡眠障害(非24時間型)を患っていました。医学的な治療ではどうやっても治りませんでしたが、先史時代の人たちがやっていたようなアウトドア生活を送ると治りました。

24時間ずっと明るい、生物としては異質すぎる環境では体内時計がめちゃくちゃになりましたが、昼夜のメリハリがはっきりしていて、人工的な照明がないごく自然な環境に身を置くと体内時計は正常になったのです。

わたしも彼女と同様の非24時間型の概日リズム睡眠障害でしたが、彼女に倣って都会での生活をやめて、もっと自然豊かなところに行ってみると(アウトドアとまではいかなかったものの)、確かに治ってしまいました。

ADHDにしろ、アスペルガーにしろ、HSPにしろ、今の社会で不適応を起こす人たちの問題の多くは、ここに集約するとわたしは考えています。

すなわち、かつて、もっと自然豊かな世界で暮らしていた時代にはメリットだった「感じる」能力の敏感さ、過敏さが、産業革命後に大きく様変わりし、刺激過多になった現代の都市型社会や教育制度のもとではデメリットを生んでしまっている、ということ。

かつての時代に適応した敏感な神経系を持つせいで、この刺激過多な社会では不適応を起こしてしまう子どもが、誤って、発達障害だとか、心の病気だとか、脆弱性があるとか、不登校だとかみなされている、ということです。

ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で神経科学者スティーブン・ポージェスがこう述べているとおりです。

行動病理学的に不適応であると解釈されたある行動は、ある環境においては適応的だったかもしれないのです。

それが別の文脈においては、不適応であり病的だったと解釈されるのです。(p252)

かつて何千年ものあいだ自然の中で生きていた時代には「適応的」だったはずの神経系が、ここ数世代のうちににわかに登場した刺激過多な社会では「不適応であり病的」だと解釈されているのです。

では、定型発達は本当に“ふつう”なのか

ここまで「発達障害は、昔から発達障害だったのか」ということを考えてきました。いよいよこの記事のテーマである、その逆のことを考えてみたいと思います。

わたしたちの世の中で、「発達障害」とみなされているものは、実はもっと自然と調和して暮らしていたころの世界に適応した敏感な神経系を持つ人たちの生き残りなのかもしれない。

かつてヒトが生息していた自然豊かな環境においては、多大なメリットを生んでいた敏感に「感じる」能力が、今日大きく様変わりした刺激過多すぎる都会の環境では、適応不全を起こしているのではないか。

この仮説をそっくりそのまま裏返すと、次のような意外な考えが思い浮かびます。

かつてヒトが生息してした自然豊かな環境においては、不利だったはずの「感じない」能力、言いかえれば鈍感さのような能力は、今日の刺激過多な時代においては打たれ強さやストレス耐性の強さとして役立つのではないか。

先ほど神経科学者スティーブン・ポージェスが述べていたこの言葉をもう一度考えてみてください。

行動病理学的に不適応であると解釈されたある行動は、ある環境においては適応的だったかもしれない。

この逆もまた言えるのではないでしょうか。

つまり、今の社会で適応的だと解釈されている行動、すなわち定型発達者たちの振る舞いは、別の環境においては不適応だったのではないだろうか?

わたしたちは、それを示唆する、とても有名な事例を学校で学びました。

それは、有名な進化論を考え出したチャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島で観察した、ダーウィンフィンチの自然淘汰です。

興味深いことに、グラント夫妻の追跡研究によれば、1977年のひどい乾期のあと、ガラパゴス諸島のダーウィンフィンチは、自然環境の変化に応じて、多数派と少数派が入れ替わることがわかりました。

生物の進化をその目で見届けた伝説の生物学者、グラント夫妻、40年の成果を語る|WIRED.jp

わたしたちは、死んでいる鳥のほとんどがクチバシの小さい鳥たちだということを発見しました。

大きなクチバシをもつガラパゴスフィンチは、小さなクチバシをもつ鳥たちよりも大きな種子を食べることができるため有利だったわけです。

生き残った鳥たちの子孫を調べてみると、彼らはその親たち同様に(クチバシが)大きいということがわかりました。

夫妻の研究によると、 ガラパゴス諸島のひとつであるダフネ島の干ばつの際、大きいくちばしを持つフィンチが生き残りやすくなり、小さいくちばしを持つフィンチにとっては不利になるという自然淘汰が起こりました。

その結果、かつては多様な種のひとつにすぎなかったくちばしの大きなフィンチが多数派になりました。そのほかのさまざまな種は、干ばつの時代に適応するのが困難だったため、不適応を起こし、数を減らしました。

さて、今はわたしたちホモ・サピエンスにとって、環境が激変している時代です。少し前まで住んでいた自然豊かな環境から大移動した結果、あたかも生物学的な干ばつのような都市環境でヒトは生まれ育つようになりました。

ということは、今、この時代に多数派を占めている“定型発達者”なるものは、「くちばしの大きなフィンチ」と同じものなのではないのでしょうか。

つまり、かつては多様な形態のうちのひとつに過ぎなかったものが、環境の激変に合わせて大量発生し、社会において多数派を占めるようになったのではないでしょうか。

ずっと昔から多数派だったわけではなく、たまたま刺激過多すぎる都市で密集生活をするという異常な環境にすんなり適応できる性質を持っていたので、ここ数十年のうちに、あたかもヒトという種のスタンダードに思えるほどに増加したのが“定型発達”ではないのでしょうか。

そして、もともとあった自然な環境のほうに適応して発達していたがために、突然現れた異常な都市環境に対して、うまく適応できず、不適応を起こしているのが、いわゆる発達障害やHSPと呼ばれている人なのではないでしょうか。

多数派だからといって“定型発達ゴケ”ではない

わたしがこの突飛に思える考えを思いついたのは、冒頭で書いたように、植物学者ロビン・ウォール・キマラーのコケの自然誌を読んだからでした。

この本の中には、生物にとって異質な都会という環境が一般的になるなかで、コケの生態系が変化したことが書かれています。

もともとコケは自然界のいたるところに見られ、さまざまな環境に適応している多様な生きものです。コケにはさまざまな種類、色合い、形があります。日本人はかつて、そんなさまざまなコケを見分け、愛でる感性を持っていました。

コケは、確かにわたしたちの住む都会にも分布しています。ちょっと道端の側溝をのぞき込めばコケの群生を見つけることができます。

しかし自然界のコケと、都会のコケは、その種類の分布が大きく異なっているとキマラーは言います。

コケの有無には意味がある。それは炭鉱のカナリアの役目を果たしているのだ。

…工業化が始まって間もなく都会からはコケが消え始め、現在も空気の汚染が激しいところではコケは減り続けている。

空気の汚染がひどくなるにつれて、かつて都会に繁殖していた30種類にのぼるコケが姿を消してしまった。(p154-155)

かつては30種にものぼる、多様なコケがわたしたちの身の回りに生息していました。だからコケにはさまざまな趣があり、日本人もネイティブアメリカンも、コケの美しさや機能性を愛してきました。

ところが、現代のわたしたちが住む、高度に都市化され、自然界の生態系と切り離された社会には、多様なコケのうち、ごくわずかな種しか生息していないといいます。

そのひとつはヤノウエノアカゴケです。

都会のコケは森のコケのようにフワフワとやわらかなかたまりにはならない。

都会という厳しい生育環境のせいで、コケのかたまりは小さく、住んでいる環境と同じように、ぎっしりと密集した硬いものになる。

…ヤノウエノアカゴケが最もよく見られるのは、駐車場の縁や屋根の上など、砂利まじりのところだ。古い車や打ち捨てられた貨車の錆びた金属部分に生えているのを見たことさえある。(p146)

また、やはり都会に多くみられる別のコケは、ギンゴケです。

野生のギンゴケの生息地はかなり特殊で、それに似た環境が都市に多く見られる。

都市の発達とともに、農業主体だった時代よりもギンゴケがずっと増えたことは間違いない。(p148)

本来なら30種はあろう身の回りのコケのうち、これらヤノウエノアカゴケやギンゴケなど一部の種類だけが、現代社会では多数を占めているといいます。

ではなぜ、ほかの多様なコケは生き残れないのに、これらの特別なコケだけは生き残り、都会という生物的には不自然な環境で大いに繁茂しているのか。

簡単にいえば、これらの種は、コケの中でも「汚染に強い」からです。

空気汚染に対する敏感さのおかげで、コケは汚染を測る生物測定器として役に立つ。

コケの種類によって、耐えられる汚染のレベルが異なり、その反応の仕方は非常に一貫しているのだ。

…都会のコケを研究している苔植物学者の観察によれば、コケの植物相は、都市の中心から外に向かって同心円状に変化する。

都市中央部にはコケがないことが多いが、その隣の区画には汚染に強い数種のコケが生えており、都市から周辺部に向かうほどその種類が増えていく。(p154-156)

コケは基本的に、汚染に対して敏感です。だから、「都市中央部にはコケがないことが多い」とされています。

しかし、コケの種の中には、汚染にひどく敏感な「炭鉱のカナリア」のような種もいれば、比較的鈍感で気に病まない種もいます。

そのため、コケのそれぞれの種の敏感さにしたがって、都市の中心部に近いほど生息するコケの種類は少なくなり、都会から離れるほど種類が増えていきます。

「炭鉱のカナリア」のような敏感な種は、都会の中心付近には住めません。自然淘汰によって少数派になり、やがて消え去ってしまいます。

他方、比較的鈍感で、汚染にも強いタイプのコケは、汚染がひどい地域に残って、そこで繁栄し、いつの間にか多数派を占めるようになっていきます。

これを読んでわたしは思いました。これって、発達障害やHSPの研究で言われていることとそっくりなのでは?

ヒトという種の中にも、さまざまな刺激、たとえば騒音や光害や大気汚染に対して、敏感な個体もいれば、比較的鈍感な個体もいます。

発達障害やHSPの人たちは、刺激に対して敏感に反応しやすいところは共通しています。とりわけHSPは生物学的に「炭鉱のカナリア」の役割を果たしていると言われています。

ということは、発達障害やHSPの当事者は、汚染に敏感なコケのようなものです。これらの種は、都市の中心に近づくほど不適応を起こします。

近年、「なぜ発達障害が増えているのか」という疑問が提起されていますが、彼らが炭鉱のカナリア的な役割を果たしている敏感な個体だとすれば説明がつきます。

これほど加速度的に社会のありさまが自然のありようからかけ離れている時代であれば、年々、不適応を起こす子どもが増えたとしても意外ではありません。

たとえば睡眠衛生の専門家たちは、発達障害増加の一因は、光害の蔓延と24時間社会の普及による、睡眠時間の短縮にあると考えています。

実際、世界でもトップレベルのスピードで平均睡眠時間が減っている日本や韓国では発達障害の増加が大きなトレンドになっています。

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発達障害の原因は、赤ちゃんのときの睡眠障害にある…。最新の研究に基づいて、乳幼児期のねむりの大切さを説明している書籍「子どもとねむり」から、あまり知られていないねむりの役割を紹介し

また微生物学の専門家は、抗生物質の乱用や衛生改革による微生物の生態系の破壊が、発達障害の増加の一因だと指摘しています。

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感染症の減少と同時に増加してきているアレルギー、自己免疫疾患、自閉症。その背後には、抗生物質の乱用や衛生改革がもたらした、微生物の生態系のバランスの崩壊による人体の免疫異常があるの

ほかにもさまざまな分野の専門家が、発達障害の増加の原因を指摘していますが、それらはいずれも、人類が自然界の生き物として自然なもともとの生活様式から外れている、ということに集約されます。

今や、年々人類は自然から遠ざかり、都市は明るくなり、昼夜のメリハリはなくなり、一日中絶え間ない騒音が鳴り響き、過剰に殺菌された環境が作られ、化学物質や食品添加物が増加しています。

数十年前はまだ、“ひときわ敏感な”「炭鉱のカナリア」のような子どもが不適応を起こしていただけだったかもしれません。しかし、今や“ちょっと敏感な”子どもたちも不適応を起こしてしまう環境になったので、発達障害が増えているように見えるのかもしれません。

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では定型発達者は?  彼らは都会でも繁栄できる、ギンゴケやヤノウエノアカゴケのような「汚染に強い」数種のコケに相当します。

定型発達者は、生物学的には刺激過多すぎる「都会という厳しい生育環境」で繁栄しており、多数派を占めています。満員電車や、地下街の雑踏に、そして会社や学校の集団行動に適応しています。

それはあたかも、「住んでいる環境と同じように、ぎっしりと密集した硬いものに」なっているヤノウエノアカゴケのようではないでしょうか。

定型発達者たちは、現代社会において多数派を占めているがゆえに、自分たちは人類のスタンダード、つまり“定型”だと考えています。

しかし都会で多数派を占めるギンゴケやヤノウエノアカゴケが、コケのスタンダード、“定型発達ゴケ”なのでしょうか。

そんなことはありません。それらの種は単にあまり敏感でないおかげで、汚染の強い地域でも繁栄できるというだけであり、本当は、もっと多様性に富むコケのうち、たった二種にすぎないのです。

環境に対してあまり敏感ではない一部のコケが、刺激の多すぎる都会で多数派になったのと同じく、人類のうち「感じる」能力があまり強くないタイプの人たちが、都市環境において多数派の地位を獲得し、「定型発達」と呼ばれるようになっただけなのではないでしょうか。

現代社会では「感じる」能力が弱いほうが有利

定型発達者はいつの間に人類の多数派にすり替わったのか。

改めて、近年進行してきたホモ・サピエンスの大移動について考えてみましょう。ヒトの居住環境の激変がもたらした大きな変化は、社会の価値観の逆転です。

端的に言えば、それは、神経科学者スティーブン・ポージェスがポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」で述べたように、「感じる」能力が強い個体が有利な社会から、「感じない」個体が有利な社会への変化です。

現代社会では、身体感覚についての重要性は無視され、軽視されてきました。

自分の行動を管理する戦略として、私たちは身体が伝えてくるフィードバックを無視するように教えられてきました。

高度に構造化され、社会化された環境内で成長する場合、私たちは自分の肉体的欲求に反応しないように、つねに自分自身に言い聞かせています。(p136)

すでに見たとおり、かつての自然豊かな居住環境のもとでは、「感じる」能力に秀でているタイプの人々が活躍していたはずです。

自閉スペクトラム症の人たちは、今でこそ“感覚過敏”だと言われます。

でも、自然の中で暮らしていたころは、動物や自然界の必要を敏感に察知できる人、東田直樹さんの言う「原始の時代の感覚」を宿していたのかもしれません。

たとえば火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)の中で、よく知られたアスペルガー女性であり、家畜に優しい飼育施設の設計者でもあるテンプル・グランディンが述べている次の言葉に注目してください。

「家畜は自閉症のひとたちと同じ種類の物音に怯えます。振動数の高い音、しゅうっという音、それに突然の大きな音、そういうものには慣れることができないのです」とテンプルは語った。

「でも、振動数の低い音、ごろごろという音には平気です。それから、視覚的コントラストが強いもの、影、急な動きに怯えます。軽く触れると逃げますが、しっかりと触ってやると落ち着きます。

わたしが触られて身を引くのと、野生の雌牛が逃げるのとは同じなのです。わたしが触られるのに慣れることは、野生の雌牛がならされるのと同じです」

動物と人間は(基本的な知覚と感覚が)共通であるという認識があるからこそ、彼女は動物にあれほどの思いやりを示し、人道的な扱いを強く主張するのだろう。(p333)

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このような動物の感覚によりそう感性は、まさしく「原始の時代の感覚」であり、かつての数千年にわたる自然と調和した社会では大いに役立ったと考えられます。

とすると、それらの時代においては、感覚過敏な人のほうが社会で成功し、子孫を残しやすかったかもしれません。自然淘汰によって、感覚過敏な人が今よりも多く存在し、場合によっては多数派だったかもしれません。

(自閉症の人たちは、感覚が敏感なのではなく、鈍感で麻痺しているように見えることもあります。しかしそれは、あまりに過敏性が強いため、刺激過多な状況のもとでは耐えられず、逆にシャットダウンしてしまう反応、つまり解離が引き起こされているからだと思われます)

ADHDの遺伝子もそうです。

NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、ADHDの多動性や衝動性、また刺激に敏感なこと(不注意という特性は、敏感で気がそらされやすいことを意味する)は、狩猟や採集の時代には大いに役立ったはずです。

落ち着きのなさはかつて、環境への「適応性にすぐれている」という特長ととらえられていたが、いまは障害と見なされるようになった。

最近のADHDの治療薬の広告には、留意が必要な「症状」のリストが挙げられている。

「高いところに登りたがる、たえず走り回る、じっと座っていられない」(p300)

もしかすると、遊牧民族や騎馬民族の中では、やはり自然淘汰のおかげで、ADHDのほうが多数派だったかもしれません。

また、学習障害について言えば、近年では、学習障害の原因のひとつは、一般的な眼科検診ではわからない、両眼視機能という両目を協調させて動かす立体視力や空間認知能力が弱いことにあると言われています。

これは現代社会においては確かに「障害」です。しかし、興味深いことに、脳神経科医オリヴァー・サックスは、心の視力―脳神経科医と失われた知覚の世界の中で、あのピカソやレンブラントも含め、芸術家には、立体視力が弱いおかげで成功した人が多数いた可能性がある、という研究に触れています。

2004年、ハーバード大学の神経生物学者、マーガレット・リヴィングストンとベヴィル・コンウェイは…「一部の画家にとって、立体視ができないことは障害ではない―そして財産でさえある―かもしれない」と提唱した。(p168)

さらに、鬱蒼としたジャングルに適応した民族の中には、「森から連れ出されると、1メートル以上の空間や距離の概念もほとんどないので、遠くの山頂に手を伸ばして触ろうとする」人たちがいることに言及しています。(p141)

つまり、ジャングルなど大自然の中での生活に適応し、自然界での活動に特化した神経系を持つ人の場合、芸術などの分野には向いているかもしれないものの、現代社会の学校では学習障害というかたちで不適応を起こしうることがわかります。

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いずれにしても「感じること」が得意な人たち、自分の身体を動かして、実体験から学ぶのが得意な人たちは、自然と調和して生きる時代であれば、もっと社会に適応し、成功していたはずです。

そうであれば、古き時代においては、今よりももっと、ADHDやアスペルガー、HSPなどの特徴を持つ人たちが多く、人類は多様性に富んでいたはずです。そもそもそれらの遺伝子が脈々と受け継がれてきたのは、そこにメリットがあったからです。

ところが、産業革命以降になって、さらにはここわずか数十年のあいだに、急激に都市化が進み、人類の居住環境が激変し、学習スタイルも変わりました。

すると、これら「感じること」に秀でていたさまざまな多様な種、コケで言うところの環境に敏感に反応する能力を持っていた多様な種は大打撃を受けます。

その代わりに、今まであまり目立たなかった種、すなわち「感じる」能力が弱く、おそらくは少数派であった種が、にわかに自然淘汰のスポットライトを浴びます。

感じる能力が弱いということは、悪く言えば鈍感、よく言えばストレス耐性が強いということなので、「都会という厳しい生育環境」でこそ活躍できます。そうすると多数派と少数派が逆転します。

「感じる」能力に秀でた人たちの多くは、人類の居住環境の都市化とともに、早い段階で不登校になったり、概日リズム睡眠障害になったり、精神疾患になったりして脱落するので、子孫を残せなくなります。

逆に、「感じる」能力が鈍感な人たちは、打たれ強さのおかげで、知識の詰め込み教育や集団行動や人混みや騒音や公害を耐え抜くので、結果的に子孫を多く残し、自然淘汰によって、いつしか多数派になります

わたしたちはその、多数派と少数派の逆転が起こった後の世界に生まれ育ってきました。フィンチにおける自然淘汰があれほど速く進んだのであれば、人類の都市化による自然淘汰も迅速に進んだはずだからです。

そうだとすると、現代社会の抱える本当の問題は、「なぜ発達障害者が増えているのか」ではなく、「なぜこれほど定型発達者の割合が増加し、まるで人類のスタンダードであるかのように定型発達を名乗るようになったのか」ということなのではないでしょうか。

アーバンクリフ仮説―定型発達者はどこから来たか

では、これら都市において急増し、あたかも人類という種の「定型」であるかのように見える、多数派を占める人たちは、もともとどこから来たのでしょうか。

ここでもコケの生態学がヒントになるかもしれません。

多種多様なコケのうち都会で繁栄しているギンゴケについて、コケの自然誌の中で次のように書かれていたのを思い出してみましょう。

野生のギンゴケの生息地はかなり特殊で、それに似た環境が都市に多く見られる。

都市の発達とともに、農業主体だった時代よりもギンゴケがずっと増えたことは間違いない。(p148)

都会で繁栄しているコケ類は、もともとは「かなり特殊」な環境に生息していた種にすぎませんでした。

しかし都市環境が増えるにつれ、その「かなり特殊」な環境が一般的になったおかげで、一躍、多数派の地位に躍り出たのです。

はたして都会のコケがもともといた「かなり特殊」な環境とはどんなところだったのか。

生態学者のダグ・ラーソン、ジェレミー・ルンドホルム、そして彼らの同僚たちは、都会で人間と共生する、ストレスに強い雑草のようなコケ類は、人間の歴史のごくごく初期からあったのではないかと推測した。

彼らが提唱した「アーバンクリフ仮説」は、自然界の岸壁の生態系における動植物相と、都会に存在する壁面のそれとの間に、驚くほどの共通点があることを述べている。

雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなどの多くは、どれも断崖や崖錐の生態系に特有のものだから、それらが人間と都市を共有しようとするのも驚くにはあたらないかもしれない。(p145)

都会で繁栄しているコケ類をはじめ、ストレスに強い「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなどの多く」は、もともとは断崖のような特殊な環境に適応した生きものだったようです。

確かに都会では「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」はそこらじゅうにいます。

どうして、都会にはそれら一部の生きものだけが大量発生しているのでしょうか。なぜ森にいるようなもっと多様な生きものは、動物園や植物園に行かなければ見られないのか。

アーバンクリフ仮説が正しいなら、都会とは断崖のような特殊すぎる環境です。そのため、多様性に富む動植物の多くは全滅してしまい、ごく少数のストレスに強い種だけが生き残った結果、生態系が貧しくなったのです。

では、やはり都会という環境において大いに栄え、多数派を占めるまでに急増した定型発達者はどうなのか。

こんなことを書いてしまうと、ひんしゅくを買いそうなのですが、わたしはふと思ってしまいました。

ヒトもまた動物の一種にすぎません。ヒトだけが例外になるとは思えません。

もしかすると、都会で多数派を占める定型発達者というのは、いわば「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」と似たような性質を持つ種なのではないのか。

これらと定型発達者は、「ストレスに強い」、そう簡単には死なず、やたらと生命力が強いという意味で確かにそっくりな気がします。

何せ、大都会で多数派を占めている定型発達者たちは、呼吸できないような満員電車に毎日詰め込まれ、地下の人混みをかきわけて会社に向かい、一日中接客をして、飲み会につきあって、栄養不足の出来合い物で食事をし、夜遅くやっと眠りにつき、来る日も来る日も同じことを繰り返します。

そのあいだずっと、生物としてはまともに許容できないほどの騒音、公害、24時間明るい蛍光灯やLEDにさらされ、パーソナルスペースをほとんど確保できない住居で過ごしています。

もちろん、どこかで健康被害を被るかもしれません。それでも長年、その生活を続けられるというだけで打たれ強さは折り紙つきです。

敏感な子どもはそうはいきません。社会に出るまでもなく、子どものときに早くも破綻して、不登校になったり、発達障害と診断されたり、さまざまな病気にかかって引きこもりになったりします。

でも、生物学的な観点からすれば、それが普通なのではないでしょうか。身の回りの30種ものコケのうち、そのほとんどすべてが、都会での生活に耐えられず、全滅してしまうのです。人間だって同じでしょう。

しかし、コケのうちわずか数種の、やたらと打たれ強い種が都会で繁栄するように、また動植物のうち「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」が都会でも生きていられるように、ヒトのなかにも、鈍感さゆえにストレスに強い種がいたはずです。

コケや他の動植物の場合、自然淘汰が起こると、環境に適応できない種は死に絶えてしまい、姿を消します。そのため、都会の生態系にはストレスに強い一部の種だけが残ります。

自然界では適応できないことは死を意味します。だから都会では、敏感な動植物は自然淘汰によって一掃され、いなくなってしまいました。

しかしヒトの場合は、動植物と違って、適応できないからといって死に直結しません。都市のような刺激の多すぎる環境では、やはり敏感な個体が不適応を起こしますが、自然淘汰によって種が消え去るまでは至りません。

なぜなら、動植物と違って、福祉サービスや家族の支えによってかろうじて生き延びることができるからです。「不登校」「引きこもり」「精神障害者」などのレッテルを貼られながら

もちろん、社会的には死んでしまうので、そのような個体が、成功したり、結婚して子どもを設けたりする可能性は激減します。種として消えてしまうには至りませんが、子孫を残せる確率が低いために、明らかに少数派にはなっていくでしょう。

このようにして、わたしたちが今見ている現代社会の多数派と少数派の構造が作られたのではないでしょうか。

刺激過多の環境でもしぶとく生き延びられる「定型発達者」という種族が多数派を占め、敏感な感性を持つ少数派の子どもが早期に脱落して「不登校」「発達障害」「精神疾患」のような社会のお荷物だとみなされてしまうこの社会が。

「倫理観があべこべなのだ」ー医学は多数派を健康だとみなす

自分でも突拍子もないことを書いているなと思いますが、本当にこんなことが、多数派より少数派のほうがまともな感性を持っているのではないか、というようなことがありうるのでしょうか。

実はわたしは、前にもこうしたことを書いた記憶があります。睡眠の研究において、あるときから多数派と少数派が逆転してしまったせいで、本来は正常な人たちが異常とみなされ、新しく現れた異質な人たちが医学的に健康だとみなされてしまったという事例について。

歴史をひもといてみると、産業革命以前の人たちの睡眠は、「分割型の睡眠」という、夜中に何度か目覚める睡眠が普通だったようです。そのような睡眠スタイルは、精神的健康に寄与していた可能性があります。

ところが、産業革命以降、24時間社会が到来し、一部の人だけでなく、すべての人の睡眠がおかしくなりました。すると夜中に目が覚めない「圧縮型の睡眠」をとる人たちが多数派になってしまいます。

その結果、夜中に何度か目が覚めるという、生物学的には正常な眠りのパターンを示す人たちが、「中途覚醒」という異常だと扱われ、睡眠薬で治療されるようになってしまいました。正常と異常の定義が逆転したのです。

睡眠の常識を根底から覆してくれた「失われた夜の歴史」―概日リズム睡眠障害や解離の概念のパラダイムシフト
産業革命以前の人々の暮らしや眠りについての研究から、現代人が失った「分割型の睡眠」とは何か考察しました。

また、「朝型」と「夜型」の遺伝的クロノタイプについてもそうです。もともと人類はいつの時代も夜警を必要としたはずなので、夜に適応したリズムを持つ人たちは昔からいたはずです。

しかし現代社会では「夜型」は学校での成績が悪く病気のリスクが高いと繰り返し報道され、いつしか夜型生活を送る人たちは病的で、早寝早起きが健康のスタンダードだとみなされるようになりました。

けれども、実際には「夜型」の遺伝子が病的なのではありません。そうではなく、多数派を占める「朝型」が作った社会に無理やり合わせるよう求められるせいで不適応を起こし、二次的な健康被害が起こっているだけです。

早起きの朝型生活を強制するのは人種差別のようなもの―最新の時間生物学の取り組みとは?
「なぜ生物時計は、あなたの生き方まで操っているのか?」という本の書評です。若者の夜ふかしは、スマホなどの環境によるものではなく生物学的なものであり、学校の始業時間は遅くすべきだとい

こうしたエピソードから学べる教訓、それは、「医学は多数派を正常とみなし、少数派を異常や病気とみなす」ということです。

本当は生物学的にはおかしくても、99%の人が異常を抱えていて、1%の人が正常だった場合、医学的には99%のほうが正常だとみなされるでしょう。こんなに多いのならそちらが普通なのだ、という錯覚が起こるせいです。

でも、これまで見てきた、ダフネ島の干ばつのときに増加したくちばしの大きなフィンチや、都会でよく見られる汚染に強いコケの例からわかるように、多数派であることは、普通である、ということを意味しません

それらが多数派をしめるのは、普通でない環境に適応し、有害な影響をものともせずに繁殖できる種だからです。より正常な感覚をもつ「炭鉱のカナリア」のような種はとっくの昔にそこからいなくなってしまっています。

多数派と少数派が逆転してしまうことで、正常と異常の判断が逆転してしまう例は、医学のみならず、他のさまざまなところでも起こります。

たとえば、コケの自然誌に書かれているコケむした屋根のエピソードです。

著者の植物学者ロビン・ウォール・キマラーは、屋根に生えたコケを除去するビジネスについて、こんなことを書いています。

コケ除去ビジネスが大繁盛だ。ホームセンターの棚には、Moss-OutとかMoss-B-Goneとか、X-Mossといった名前の製品が並び、ビルボードの広告は「小さくて緑でフワフワのそいつをやっつけろ!」と言う。

…屋根葺きを仕事にする人たちは、コケは屋根板を傷め、いずれ雨漏りがするようになる、と信じ込ませてしまった。(p150)

都会に住む人たちは、屋根にコケが生えているのはよくないことだと考え、コケ除去のビジネスが活況を呈するようになりました。

しかし、この考え方には科学的根拠がなく、どちらかというと、屋根にコケが生えているほうが好ましいと言える理由があるようです。

だが科学的には、この主張は肯定も否定もされていない。

…実際、屋根に生えたコケは、屋根板が強烈な日射しに晒されてヒビが入ったり反ったりするのを防いでくれる。

コケは夏には冷却層となり、雨が降れば雨水が流れ落ちるのをゆっくりにしてくれる。(p150)

コケ除去ビジネスは、本当は有用なはずのコケを異常だとみなして排除し、コケのない屋根という不自然で機能的でもないものを正常だとみなしています。

なぜそうなってしまったのか。キマラーはこう説明します。

きちんとした郊外の住宅地には暗黙の了解があって、コケの生えた屋根は、屋根板が腐っているばかりでなく、道徳的な退廃をも象徴しているとされるらしい。

倫理観があべこべなのだ。

コケが生えた屋根は、持ち主がメンテナンスの責任を果たしていないことを意味するようになってしまった。

自然界で起きることと喧嘩するのではなくて、それと共に生きる術を見つけた人こそ、倫理的に優れているとされるべきではないのだろうか。(p150-151)

「倫理感があべこべなのだ」。

この一言に尽きます。おそらく、昔は屋根にコケが生えているのが普通だったことでしょう。しかしある時点で、わざわざコケを除去する家が増えてきて、コケむした屋根より、コケのない屋根のほうが多くなってしまいました。

すると、住宅地の人々は、コケだらけな屋根は手入れが行き届いていない証拠だという誤った倫理観を抱き始め、そのような家の人を非難するようになります。

多数派と少数派が逆転したせいで、コケを除去するのが正常で、除去しないのは異常だという、本来の自然とは真逆の倫理観が生まれたのです。

以前の記事で書きましたが、これのもっと大規模なバージョンが「殺菌」「除菌」「抗菌」などを謳い文句にしたビジネスです。

微生物学によると、身の回りの細菌は、わたしたちの健康に大いに寄与し、かけがえのない役割を果たしています。

しかし抗生物質が普及し、細菌=悪いものという誤った認識が広まったせいで、現代人は、身の回りにいる細菌を、さらには自分の体内にいる有用な細菌までを除去してしまい、さまざまな体調不良を抱えるようになりました。

腸内細菌の絶滅が現代の慢性病をもたらした―「沈黙の春」から「抗生物質の冬」へ
2015年の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたマーティン・ブレイザー教授の「失われていく、我々の内なる細菌」から、抗生物質や帝王切開などによってもたらされている腸内細菌(

こうした例と同じことが、現代の定型発達者と発達障害者の関係にも起こっているのではないでしょうか。

たとえば、子どもはふつう、走ったり遊んだりするものです。それなのに、そんな自然な感覚や衝動を抑制して、さらにはくしゃみやあくびやトイレに行きたいというような生理作用をさえ我慢して、緊張感のなか半日以上狭い教室の中に集団で詰め込まれ、ひたすら知識だけを詰め込む、それがはたしてふつうのことなのでしょうか。そうは思えません。

ところが、義務教育が制度化され、だれもが学校に通うことを義務づけられたとき、学校に通う人が突如として多数派になりました。

すると、倫理観があべこべになりました。学校でじっと座って勉強している子が正常だとみなされ、学校に行かずに野原で遊んだり、家事を手伝ったりしているような子は「登校拒否」「不登校」「引きこもり」というレッテルを貼られるようになりました。

わたしたちが生まれ育つ都市という環境にしてもそうです。生物の生きる環境としてはあまりに異質ですが、みんながそこで生活しているせいで、不適応を起こす子のほうがおかしい、とみなされるようになりました。

このトリックに気づけないのは、現代人のほとんどが、生まれたときから都市で生活し、学校に行くのが当たり前だという育てられ方をしてきたからです。

それが当たり前だから、何かがおかしいと気づくことができません。いくら本来の人間のありようとはずれている、生物学的には異常な環境であったとしても、生まれ育った文化の歪みに気づくのはとても難しいことです。

子どものときからそう育てられ、親の世代も祖父母の世代もそう育てられているがために、都市や学校の環境をおかしいと考えることができません。

以前の記事で書いたように、心理学者ピーター・カーンは、数世代にわたって異常な環境に住み続けると、もはや自分たちが何を失ったのかがわからなくなり、異常な環境をふつうだとみなす「環境性・世代間健忘」が起こると述べていました。

何よりも、わたしたちの社会で成功し、学問を主導している学者や医師、また学校の先生などは、そのような世の中に適応できてきた人たちの集まりなのです。

彼らにしてみれば、自分がそうだったように、都市や学校に適応できる子どものほうが正常で、適応できない子どもは病気や障害だとみなすことになんの疑問も持たないでしょう。

そもそも「定型」など存在するのか―多様性なき社会

このように、定型発達と発達障害を取り巻く議論は、実際には歴史のある時点で、多数派と少数派が逆転したことによって起こった、正常と異常の概念の逆転ではないか、とわたしは思います。

でもそれは、環境が激変したことで、単に多数派と少数派が入れ替わっただけなのでしょうか。

もともと自然豊かに環境に適応していた「感じる」能力に秀でた種と、都会生活に適応した「感じる」能力が弱くストレスに強い種がおり、人類が自然の中から都市へと大移動するにつれ、その割合が逆転しただけなのでしょうか。

もしそうなら、それはよくある自然淘汰の例にすぎないということになるでしょう。ある時代の環境ではAという種が栄え、その後、環境が変化すると、今度はBという種が栄えます。

AもBも、その時代特有の環境に適応した種にすぎず、そこに優劣はありません。その時々の環境に適応した種が繁栄し、適応しそこねた種が減少するのは普通のことです。

でも、わたしは、なんとなく発達障害と定型発達の問題は、単なる多数派と少数派の逆転ではないような気がしています。もう一度、コケの自然誌に書かれていた次の記述を見てください。

都会のコケを研究している苔植物学者の観察によれば、コケの植物相は、都市の中心から外に向かって同心円状に変化する。

都市中央部にはコケがないことが多いが、その隣の区画には汚染に強い数種のコケが生えており、都市から周辺部に向かうほどその種類が増えていく。(p154-156)

ここでは、都市という環境にはAというコケが多く、自然豊かな環境にはBというコケが多い、とは書かれていません。

そうではなく、都市という環境にはわずかな種のコケしか生息しておらず、自然豊かな環境に行くほど、コケの種が多くなり、多様性が増すと書かれています。

言いかえれば、都市という劣悪な環境では種の多様性が貧しくなり、単一性が強くなります。さっきの「雑草、ネズミ、ハト、イエスズメ、ゴキブリなど」に代表されるような、同じような生きものだらけになります。

他方、自然豊かな環境では、種の多様性が増し、さまざまなタイプの生きものが共存します。人間の手が入っていない森に少しでも入ってみればわかりますが、そこには数え切れないほど多様な種が共存しています。

自然豊かな環境より、都市のほうが生態系が貧しくなることは、微生物のレベルでも起こっています。

腸と脳──体内の会話はいかにあなたの気分や選択や健康を左右するかに書かれているように、都市に住んでいる人と先史時代の生活環境に住んでいる民族の体内の微生物群集(マイクロバイオータ)を調べてみると、その違いは明らかです。

数年前、ターニャ・ヤツネンコとマリア・グロリア・ドミンゲス=ベロ、およびワシントン大学のジェフリー・ゴードンが率いる研究チームは、ヤマノミ族と同じアマゾン川流域に住む民族グアイーポ族、南アフリカのマラウイの農耕民族、そしてアメリカの都市住民の腸内微生物の構成を調査した。

…気になるのは、彼らの発見によれば、典型的なアメリカの食生活が身についている人は、先史時代の生活様式を保持する人々に比べて、腸内微生物の多様性が最大で三分の一ほど失われていることだ。(p209-210)

自然豊かな環境に住んでいる民族の腸内微生物は多様性豊かでしたが、都市部に住んでいる人たちの腸内微生物は多様性が減っていました。コケの分布とよく似ています。

自然豊かな環境に比べ、都市の生態系が貧しくなることは、コケの自然誌の中に出てくる、「中規模撹乱仮説」という概念によっても裏付けられるように思います。

ワシントン州の荒磯とキカプー川の岩壁は、中規模撹乱仮説として知られるようになった仮説が生まれる一助となった。

生物の種多様性は、撹乱が稀あるいは頻繁すぎる二極の中間であるときに最も高くなる、というものだ。

生態学者によれば、撹乱が皆無のときには、ジャゴケのような強者が徐々に他の種を侵害し、競争的優位によってそれらを駆逐してしまう。

撹乱が頻繁なところでは、それに耐えられる最も頑健な種しか生き残れない。

だがその両極の間の、撹乱の頻度が中庸なところでは、多様な種の繁茂を可能にするバランスが保たれているらしいのだ。(p108)

中規模撹乱仮説とは、環境からの撹乱が中程度のときに、最も種の多様性が豊かになり、健康的な生態系が生まれる、という考え方です。

他方、撹乱が少なすぎたり、多すぎたりする極端な環境だと、特定の頑健な種だけが生き残り、生物の多様性が貧しくなってしまいます。

都会はまさに、極端に撹乱が多すぎたり少なすぎたりする環境です。都会では生態系が貧しく、同じ生きものばかりになってしまっています。

さて、もちろんヒトもまた動物の一種なので、このことは例外なく人間にも当てはまります。

都会では多様性が減り、自然豊かな場所では多様性が増すということを、ヒトに当てはめるとどうなるか。

ここ数世代のうちに高度に発展した都市環境では、同じような種類の人間ばかりが増加して多様性が欠けるのに対し、それ以前にあった自然豊かな環境では、もっと個性豊かで多様な人間がいた、ということになるでしょう。

だとすると、これら都市で増えている多様性に欠けた種こそが「定型発達」であり、もともといたはずの多様性豊かな種こそが、「ADHD」「自閉スペクトラム症」「HSP」「限局性学習症」などと呼ばれている人たちではないでしょうか。

そもそも、「定型発達」という言葉自体が、みんな同じ、という意味合いを帯びています。人間の脳には、一定のスタンダード、標準規格があると言っているようなものだからです。

現代社会の多数派が定型発達である、ということは、すなわち都市に生きる人間の大半が、多様性に欠けている、という意味です。これは都会において生態系の多様性が減少するさまと一致しています。

一方で、発達障害者はみなひとりひとり違う、と言われます。同じ個性や特徴を持つ人は一人としていません。悩みごとも才能も色とりどりです。

そもそも、以前の記事で書いたように自閉症の世界 多様性に満ちた内面の真実 (ブルーバックス)によると、ローナ・ウィングが「自閉症スペクトラム」という用語を選んだのは、自閉症の当事者たちが虹色のような多様性を持っていると感じたからでした。

結局彼女は「自閉症スペクトラム」という用語を採択した。

美しい虹のイメージや自然の持つ非常に多様な創造性を証明する現象を連想させる、その言葉の響きを気に入ったのである。(p449)

自閉症研究の暗黒時代に埋もれてしまった、知られざるアスペルガーの歴史
あまり知られていない自閉症の発見者ハンス・アスペルガーの人となりや、時代を先取りした先見の明のある洞察について考え、自閉症研究の歴史を再考してみました。

でも、本当に定型発達の人たちは多様性が少なく、自閉スペクトラム症の人たちは多様性が豊かなのでしょうか。

自閉症という謎に迫る 研究最前線報告 (小学館新書)には自閉症児と定型発達児の脳のネットワークのつながりをMEG(脳磁図計)で測定した研究結果について、次のようなことが書かれていました。

黒丸が定型発達児26人の位置する場所で、ほぼ中央にかたまっています。

それに対して白丸が自閉症児の26人で、定型発達児の値よりも広い範囲で分布しています。

人の脳の特徴は、フルーツのようにシンプルではないので、この「脳の特徴1」と「脳の特徴2」にどのような意味があるのか、まだわかっていません。統計的に出ただけであり、明確な説明はできません。

しかし、1つ言えることは、自閉症は一方のみに広がっているとは言いがたく、これは自閉症児が定型発達児よりも脳の多様性が高いことを意味しているということです。(p134)

「自閉症児が定型発達児よりも脳の多様性が高い」。定型発達の脳は均一に近く、多様性が少ないのに対し、自閉症の脳はもっと多様で色とりどりのスペクトラムなのです。

もっと言えば、発達障害にはASDだけでなく、ADHDやSLDの子たちもいます。加えて、敏感なHSPの子どもたちなども含めれば、定型発達と非定型発達のどちらが多様なのかは言うまでもありません。

そして、生態学では、生物の生態系は多様性豊かなほうが健康だとみなされます。都会における種の多様性が貧しい生態系は不健康で、手つかずのジャングルのような多様性あふれる生態系こそ健康です。

ということは、現代社会では「定型発達者」が多数派を占めるという事実そのものが、都会に移住した人類が不健全な生態系に陥っていることの証拠ではないでしょうか。

人類の脳にはスタンダードな型が存在するという、「定型発達」という概念自体が不自然です。定型発達が正常だと述べる専門家は、多様性が貧しい生態系を正常だとみなしていることになります。

発達障害の専門家たちは、昔の人の中にも、発達障害の特徴を持った人がいた、とよく言います。

このブログでも過去に書きましたが、アインシュタインやダ・ヴィンチや、ベートーヴェン、モーツァルト、ゴッホ、ピカソ、エジソンなど、いつの時代にも発達障害のような人はいた、と説明されていました。

独創的なアスペルガーの芸術家たちの10の特徴―クリエイティブな天才の秘訣?
童話作家アンデルセン、哲学者カント、音楽家ベートーヴェン、画家ゴッホなど、さまざまな天才的なアスペルガーの芸術家たちに共通する10の特徴を、マイケル・フィッツジェラルド博士の「天才
ADHDの画家ピカソとアスペルガーの画家ゴッホの共通点と違い―発達障害がもたらした絵の才能
ADHDだったとされる画家ピカソ、アスペルガーだったとされる画家ゴッホを比較して、ADHDとアスペルガーの違いや共通点を考えています。

でも、この考え方は、あくまで、いつの時代も人類の種の多数派は定型発達だったという前提に基づいています。昔からアウトサイダーの発達障害を持つ人はいたんだよ、と述べて、当事者たちを安心させようとしています。

しかし、本当にそうなのでしょうか。この記事で考えてきたことからすれば、産業革命を契機に人類の居住環境が激変してきたので、自然淘汰が働いて、人類の多数派と少数派は複雑に変動しているはずです。

そうだとしたら、現代社会で多数派を占める定型発達なる者たちが、人類史のいつの時代においても多数派だったとは考えにくく思います。

もし人類の多様性がコケの生態系と同じようなものなのであれば、人類がもっと自然と調和して生活していた時代は、今よりも脳の多様性が豊かだったと考えられます。

定型発達という一種のみが大多数を占めているのではなく、それこそジャングルの生態系の多様性のように、人類は色とりどりの個性と多様性をもつ人たちの集まりだったのではないでしょうか。

発達障害の専門家たちは、発達障害者は昔からいたと述べますが、わざわざ探さなくても、古代においては、今日では発達障害とみなされているような色とりどりの個性が普通だったのかもしれません。

逆に、アーバンクリフ仮説において、「ストレスに強い雑草のようなコケ類は、人間の歴史のごくごく初期からあったのではないか」と言われていたように、現代社会で繁栄しているストレスに強い定型発達者のようなタイプが、はるか昔から、人類の多様性の一種として部分的に存在していたことに注目すべきなのかもしれません。

最初のほうで書いたように、人類史の何千年にもわたり、発達障害という概念は必要とされませんでした。その概念が作られたのは20世紀になってからであり、ここ数十年に急速に普及しました。

このような歴史をたどったのは、かつては人類が色とりどりだったので、神経発達的には極端な多数派と少数派が存在しなかったからではないでしょうか。

100人いればみんな個性が違っていて色とりどりだったので、定型発達、アスペルガー、ADHDなどという大枠なカテゴリ分けをする余地がなかったのです。

しかし、人類が都市環境に住み始めると、極端な撹乱のせいで生態系のバランスが崩れ、それまでは多様なタイプのひとつにすぎなかった「定型発達」というストレスに強い種が増加し、それまでにない一大勢力として台頭しました。

人類は単一の民族や宗教が強大になると、歴史を通じて、いつも同じことをしてきました。均一な多数派による、多様な少数派の抑圧です。

逆説的に思えますが、発達障害という概念が現れたのは、定型発達という多数派の集団が現れた結果なのかもしれません。

「定型発達」は科学のバイアスが生み出した?

定型発達という概念が生まれた背景には、もうひとつ、学問的なバイアスが絡んでいるようにも思えます。

ヒトの脳には「定型発達」という“スタンダード”が存在する、という考え方は、この記事で何度か書いてきた、人間の行動は脳によって決定されるという「脳至上主義」の科学の副産物かもしれません。

少し難しい説明になりますが、ルイーズ・バレットの野性の知能: 裸の脳から、身体・環境とのつながりへには、次のように説明されていました。

身体性認知というアプローチにはもうひとつ、自由な発想を可能にしてくれる目からウロコの側面がある。

行動の個体差を新たな視点からとらえることができるのだ。個体間の多様性はたいてい、処理対象とならない不要な情報である「ノイズ」、つまり、代表的な値である中心傾向を巡る無意味な変動(測定誤差)として片付けられている。

だが、力学的理論による身体性認知のアプローチでは、多様性は恵みでありこそすれ、災いではない。

各個体が示すパターンは、固有の環境において動作する固有の身体力学系に対応するからだ。つまり、局所的な現状と動物の身体固有の特異性(idiosyncracy)との相互作用は必然なのだから、行動に多様性が生じるのは当然だということだ。(p247)

難しく思えるかもしれませんが、簡単に言うと、ヒトを含む生物はもともと多様性があって当然なのに、現代科学では、多様性があることが誤ってノイズだとみなされてきた、ということです。

ひとつ前のページの文脈を見ると、その原因は、くだんの『「万事脳が仕切っている」という脳主体の見方』、つまり個人の脳だけを重視し、身体や環境といった要素を度外視した科学の観点にあります。(p246)

個人の脳を重視する科学では、大事なのは脳だけなので、画一化された実験室のなかでデータが収集され、脳の反応にばらつきが出ると、ノイズだとみなされます。

正常なのはノイズのない均一な脳であり、ノイズが出てしまう脳は異常だということになります。

しかし、環境や身体を考慮に入れる「身体性認知というアプローチ」では、脳は単独で発達するものではなく、身体や環境とセットである、とみなします。

脳は身体の一部であって、脳と身体があってこそ、動物は完全なる存在となる。

その完全なる存在の最大の目的は、状況に即した行動をとることだ。

脳は、身体や環境の物理的特性と同様、動物がその目的を達成するために利用できる数々の資源のひとつに過ぎない。(p246)

すると、どのような見方ができるでしょうか。

脳は環境とセットなので、実験室でノイズのある脳活動を示す子は、単に、その環境に適応的でない子どもなのかもしれません。

言い換えれば、実験室のような人工的な閉鎖空間とはセットにならない脳を持っているけれども、実験室の外、自然界という環境ではより適応的に働く、自然界とセットで機能する脳の持ち主かもしれません。

興味深いことに、ポリヴェーガル理論入門: 心身に変革をおこす「安全」と「絆」の中で、神経科学者スティーヴン・ポージェスは、fMRIなどを用いた自閉症の脳科学的な研究は、正確な実態を反映していないのではないか、と疑問をさしはさんでいます。

自閉症の人は、多くが聴覚過敏を持っており、当然拘束されることを嫌うので、MRIの中に入れるような自閉症患者がいるのか、ずっと疑問に思っていました。

MRIを我慢できる自閉症患者を選別して行った自閉症についてのfMRI研究は、果たしてどこまで全体の特徴を反映しているのでしょうか?(p217)

MRIで確認されたとされる自閉症の人の脳の異常は、本人の脳の異常ではなく、拘束や騒音という外的環境への反応かもしれません。

もし、自閉症の人たちが自然の中を散策しているときに同じように脳を測定できる技術があったなら、病院のMRI室内での検査で見られたのと同じような異常が、自然の中でも見られるでしょうか。わたしは疑問に思います。

自閉症のみならず、人間の子どもはそれぞれ、生まれ持った身体の特徴が異なり、遺伝的な向き不向きも異なります。生まれ育つ環境も違います。

さまざまな環境があるなら、さまざまな脳が発達するのは当たり前です。「行動に多様性が生じるのは当然」です。

環境や身体の個人差を度外視した脳だけに注目する科学では、脳の発達の違いはノイズ、つまり障害だとみなされます。

しかし脳は多様な身体や環境とセットで発達し、切り離せないものだとする身体性認知のアプローチからなる科学では、個々の発達の違いは、それぞれ異なる環境に適応した多様性だとみなされます。

ということは、定型発達や発達障害という概念は、脳だけに注目し、環境を度外視した近年の科学に見られるバイアスが生み出した、現代特有の文化的ミームのようなものなのではないでしょうか。

このような脳至上主義のバイアスがかかった科学が登場する以前の時代には、「定型」の脳、「発達障害」などの脳などというカテゴリ分けは存在せず、ただ環境に適応した多様な個人だけが認められていた可能性があります。

「都会には決して住めない人がいる」

今回、おもに参考にしてきたコケの自然誌を書いたロビン・ウォール・キマラーは、とても詩的で美しい感性をもつすばらしい植物学者です。

そんな彼女が、こう書いていたことに、わたしは親近感を覚えます。

私も含め、都会には決して住めない人がいる。私が街へ出かけるのはどうしても必要なときだけで、できるだけ早く街を後にする。

田舎の人間はコバノエゾシノブゴケに似ている。たっぷりのスペースと、木陰の湿気がなければ元気が出ず、忙しい都会の道路よりも静かな小川沿いの道に住むことを選ぶのだ。生活のペースはゆっくりとして、ストレスにはからきし弱い。(p156)

都会で生まれ、都会で育ったわたしが言うのはなんだか変ですが、わたしは最近になって、自分は「都会には決して住めない人」だったのだと気づきました。

わたしは「木陰の湿気がなければ元気が出ず、忙しい都会の道路よりも静かな小川沿いの道に住むことを選ぶ」種でした。

コケにも人間にも、自然の多いところを好む種もいれば、都会のほうが居心地がいい、という種もいます。

都会ではそんな生き方では障害をきたす。ニューヨークの街角では、ヤノウエノアカゴケのような、ペースが速く、常に変化し、集団の中にいることを最大限に利用する生き方が必要とされる。

都会という環境は、コケにとっても人間にとっても生来のものではなかった。

だが双方とも、その適応能力とストレス対応能力のおかげで都会の断崖を住処にした。(p156)

コケでもヒトでも、静かで穏やかな環境を必要とする種と、忙しい現代社会の集団生活に溶け込んで、「ペースが速く、常に変化し、集団の中にいることを最大限に利用する」種がいます。

生きものがもともと住んでいた自然豊かな環境に適応性を持つ敏感で「ストレスにはからきし弱い」種と、「コケにとっても人間にとっても生来のものではなかった」「都市という環境」に適応性をもつストレス耐性の強い種です。

わたしは都会で生まれ育ちましたが、今になってやっと、自分は前者のほうだと気づきました。

残念ながら、わたしも含め、都会で生まれ育った人の多くは、この現代社会の異常な環境をふつうだと思いこんで成長します。

そのせいで、NATURE FIX 自然が最高の脳をつくる―最新科学でわかった創造性と幸福感の高め方に書かれているように、発達障害やHSPの当事者も含め、現代社会の大勢の人たちは、自分が都市環境から受けている過剰な刺激の害を過小評価しがちです。

オンタリオ州にあるトレント大学の心理学者エリザベス・ニスベットは、150人の学生に、運河沿いの小径か、大学構内の建物を結ぶ古ぼけた地下通路のいずれかを歩いてもらうことにした。

事前に学生たちには、歩いている最中にどの程度幸せな気分になるかを予測させた。歩きおえると、学生たちは幸福度を評価する質問紙に回答を記入した。

すると事前の予測では、どの学生も、地下通路を歩くときに感じる幸福度を過大評価し、屋外を歩くときのそれを過小評価していることがわかった。(p12)

なぜ都市環境の害を過小評価するのか。それは、自然と親しんだ経験がほとんどないので、もし自然豊かな環境に身を置けば、どれほどリラックスできるかを知らないからです。

社会科学者はこうした予測の誤りを「予測誤差」と呼ぶ。どのように時間を過ごすかを決める際に、残念ながらこの予測誤差が大きな影響を及ぼす。

ニスベットは落胆した調子で、こう結論をだした。

「自然と隔絶した生活を続けるうちに、人々は自然から得られる快楽の恩恵を過小評価するようになり、自然のそばですごすのを避けるようになったのかもしれない」(p12-13)

人類は「自然と隔絶した生活を続けるうちに、人々は自然から得られる快楽の恩恵を過小評価するようになり」ました。

人類は、自然からあまりに遠ざかりすぎたせいで、都市や学校という、生物学的にみて異質な環境から受けるストレスを過小評価するようになり、何か体調不良が生じても、おかしいのは個人であり、環境ではないという考え方が主流になりました。

わたしも、脳至上主義の医学的な情報にばかり当たっているときは、このバイアスに目を曇らされていました。でも、環境との相互作用を重視する生物学や自然科学について学ぶようになって、別の見方ができるようになりました。

人類の生息環境が、これほど自然界のありさまとかけ離れていることを考えれば、この現代社会の中で何かしらの病気にならないほうが不思議です。

しかし、ヒトを含め、あらゆる種には、環境に適応するという能力があり、適応できた種が生き残って多数派になり、そうでない種は病気になって減少するという自然淘汰が起こります。

たとえ現代社会が、生物が生きる自然な環境からかけ離れているとしても、ヒトのうちストレスに強い種が多数派になるので、一見するとそれほど健康被害が出ず、柔軟に適応していくことができます。

けれども、少数ながら、もともと多数だった種も生き残っており、その人たちは異質な生息環境のあおりをもろに受けるので、さまざまな健康問題を抱えることになるのです。

わたしはこの頃、自分はここ21世紀の現代ではなく、産業革命以前の社会に適応した人間なのではないか、とよく思います。

たとえば、ロビン・ウォール・キマラーの母親が、植物と叡智の守り人の中で次のように言っていたように。

母は科学者という仕事が大好きだったが、生まれてくるのが遅すぎた、ともしょっちゅう言っていた。

本当は19世紀の農家の主婦というのが天職だったに違いないと言うのだ。

トマトを瓶詰めにしたり、桃を煮たり、パン生地のガス抜きをしたりしながら母は歌を歌い、そういうことを私にも是が非でも覚えさせようとした。(p101)

あるいは、わたしが尊敬してやまない脳神経科医のオリヴァー・サックスが、意識の川をゆく: 脳神経科医が探る「心」の起源の中で、疑問が生じるたびに19世紀の過去の文献を引っ張り出してきたと書いているように。

直近の文献を探しても、そういう症状についての言及が見つからなかった。

当惑した私は、19世紀の報告を調べることにした。

そちらのほうが現代のものより説明がはるかに詳しく、はるかに鮮やかで、はるかに充実している傾向がある。(p191)

実際、私の患者が明らかにトゥレットのようになりつつあったため、1969年に私がそれについて考え始めたとき、最新の参考文献を見つけるのに苦労し、再び前世紀の文献にもどらなくてはならなかった―1885年と86年のジル・ド・ラ・トゥレットによる元の論文と、それに続く12本ほどの報告書だ。(p195)

サックスは、現代医学では解明できない疑問をたくさん抱きましたが、その答えは、いつも忘れ去られた100年も前の文献から見つかるのでした。どうもサックスの感性は、現代人のものではなく、もっと昔の人間と似ていたようです。

独特すぎる個性で苦労してきた人の励みになる脳神経科医オリヴァー・サックスの物語
書くことを愛し、独創的で、友を大切にして、患者の心に寄り添う感受性を持った人。2015年に82歳で亡くなった脳神経科医のオリヴァー・サックスの意外な素顔を、「道程 オリヴァー・サッ

ロビン・ウォール・キマラーも、オリヴァー・サックスも、都会の環境より、自然豊かな環境のほうが好きでした。キマラーは、「都会には決して住めない人」ですし、サックスはオアハカ日誌の中で、自然界へのあふれんばかりの愛を語っています。二人はきっと、わたしと同じ人種です。

“ふつう”よりもっとすばらしいもの

わたしはこの記事に書いた推測が、どの程度正しいのか、それともまったく的外れなのか、実はよくわかっていません。

タイトルに書いたように、あくまで「ふと考えたこと」です。推測が多すぎるので、裏付けが十分だとは思いません。

今のところまだうまく説明できない矛盾点もあります。たとえば自閉スペクトラム症の人たちが自然界だけでなく、シリコンバレーのような文明社会の最たる環境に適応しているのはどうしてでしょうか。

数学やプログラミングの世界は、ある意味、乱雑に構築された人間社会よりもはるかに、原始の自然界に近い性質があるということでしょうか。

確かに神は数学者か?―ー数学の不可思議な歴史 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫〈数理を愉しむ〉シリーズ)のような本を読むと、この世界の自然界は秩序正しく数学的にプログラミングされているように思えます。

また、マイクロバイオームの研究によると、発達障害の人たちの腸内細菌の多様性が低い、と言われるのはどう解釈したらよいのでしょうか。

やっぱり発達障害は生物学的にみて病的なものなのでしょうか。いえむしろ、微生物学からすれば、定型発達も非定型発達もどちらも病的であるということでしょうか。

自然から切り離されて久しい現代の人類には、アマゾンの奥地の先住民族などわずかな例をのぞいて、もはや正常で健康な人は存在していない、と微生物学者たちは言います。

もし、そのような先住民族がわずかながらにでも生き残っていなかったなら、科学は正常な人体のマイクロバイオームの生態系とはどういうものか、もはや知ることさえかなわなかっただろうと。

わたしたちは、ここ数世代の大移動によって、人類がもともと住んでいたであろう、いわゆる“エデンの園”のような環境から、あまりにも遠くまで迷いでてしまいました。

人間は地球を損ない、住む環境を不自然なものに組み換え、ひいては自分たちの身体の内部の生態系をさえ破壊してしまいました。もはや“ふつう”とは何なのか、知るすべさえなくなっているように思えてなりません。

わたしは、ロビン・ウォール・キマラーの植物と叡智の守り人を読んでいて、巻末の訳者あとがきで翻訳者の三木直子さんが書いておられたのと同じ気持ちになりました。

私が生活拠点とする日本とアメリカはどちらも、私には狂気としか思えない政治的・社会的な不正、暴力、モラル低下の嵐が吹き荒れ、貧富の差は広がる一方で、社会の先行きを思うと暗澹たる気持ちになることが実に多かった。

そういう中で、毎日少しずつ進める本書の翻訳は、一服の清涼剤のような気がしていた。

キマラーの詩的な言葉が描写する自然の美しさ。そして自然とともにに生きる人々の姿には「正気」が感じられたからだ。

が、同時にそれは辛いことでもあった。本書に描かれた、先住民族に伝わる世界観、人間と自然の関わり方がかつては「普通」のことであったこと、そういう世界のありようが、歴史のある時点では存在したこと。

そして、自然と人間が調和して暮らしていた世界から私たちがどれほど逸脱してしまったかを、痛感せざるを得なかったからだ。

…科学の発達が人間の生活に、ある意味での安寧と幸福をもたらしたのは事実かもしれない。

だがその代わりに私たちが失ったものはあまりに大きく、取り返しのつかないところに自分たちが向かおうとしていることに、多くの人が気づかない。あるいは気づこうとしない。

私たちは、耳を傾けることを忘れてしまったのだ。(p489-490)

わたしは科学が悪いものだとは思っていません。科学が登場する以前の迷信に支配された社会が良いものだったとは思いません。科学はわたしたちの疑問を解き明かし、世界をより深く、正しく知れるよう助けてくれます。

でも、今の人類は科学を正しく活用しているとも思いません。

科学は、たとえばバイオミミクリー(生態模倣)がそうであるように、自然界の知恵から学び、より地球と人間を調和させ、持続可能な社会をつくるときにこそ役立ちます。

けれども、現実はそうなっていません。「還元主義的で物質主義的な経済、政治路線を強化するために科学技術を利用」することが重視され、目先の便利さのために自然は搾取され、人類はどんどん生き物としての自然な生活スタイルから遠ざかっています。(p434)

生物学者の中村桂子さんが述べていたように、わたしたち人間もまた動物のひとつなのだ、という当たり前の事実が忘れ去られてしまい、人類はもはや生き物としての「普通」の生き方を思い出せなくなりました。

第4回 中村桂子(生命誌):人間は生きものの中にいる(提言編) | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

人間は生きものだというのはあたりまえのことですが、なぜ今そういう風に考えられなくなっているのでしょうか。

それは、科学が「機械論的世界観」を作ってしまったからだと思います。

…こういう機械論的に世界を見る社会では、生命誌の中の生きものである「ヒト」としての私を忘れてしまっているようです。

わたしたちは、歴史のある時点では「普通」だったはずの人間と自然との関わりが、とっくの昔に失われてしまった時代に生きています。

少なくとも、いまの社会で多数派を占めている人たち、つまり、このような自然から逸脱した環境でも不適応を起こさない人たちが生き物として「普通」であるという見方には、わたしは同意しかねます。

わたしたちは、だれかが正常でだれかが異常だという狭量な枠組みを超えて、だれもがみな「普通」でなくなっている、という現実を認める必要があるのかもしれません。

ここ数世代の種の大移動の中で、わたしたち人類はいったい何を失ったのか、わたしたちはかつて何者だったのか、どんな生き方をしていたのか、どのような多様性を享受していたのか。

環境性・世代間健忘にとらわれているわたしたちにとって、もはや失われた何千年もの過去をたどるのは雲をつかむかのように難しいことです。

それでも、希望はあります。ダフネ島のフィンチは、厳しい干ばつが終わると、もともとの種が回復しました。コケの場合も、コケの自然誌によると、「空気のクオリティが改善されればコケは戻ってくる」そうです。環境が回復すれば、もともとの生態系と種の多様性が戻ってくるのです。(p156)

ですから、わたしは、「正常」な定型発達と「異常」な発達障害という、現代医学が作り出した安直すぎる枠組みを超えて、自分たちがいったい何者だったのかを探求することには、きっと計り知れない価値がある、と思います。

わたしたちは“ふつう”とは何かもう知りません。でもきっと、人類は本来、“ふつう”よりもっと素晴らしい、色とりどりの多様性をもつ生きものなのです。

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